LINEで送る
Pocket

白い八旗兵――八旗俄羅斯佐領――  

 八旗は清朝の発展に伴い、元来その主体であった満洲・モンゴル・漢三民族以外にもさまざまな民族を取り込んでいった。 比較的満洲族に近い東北アジアの諸民族、いわゆる「新満洲」(オロチョン・ダグール・シベ族など)はよく知られたところであるが、そのほかにもヌルハチ・ホンタイジ時代の朝鮮人捕虜からなる部隊「高麗佐領」や、乾隆年間の東トルキスタン(現在の新疆ウイグル自治区)征服後に現地から連行したトルコ系ムスリム(現在のウイグル人)により編成された「回子佐領」、さらに大金川・小金川(ンガバ、現在の四川省西部)のギャロン=チベット人捕虜により編成された「番子佐領」すら存在した。

 今回取り上げるのは、その中でも非常に珍しい部類に入るであろう「俄羅斯佐領」、満洲語でオロス=ニル Oros niruである。俄羅斯(オロス)とは「ロシア」を意味し、佐領(満洲語でniru)は、八旗の編制上の基本単位で、現代軍制の中隊にあたる。

すなわち「ロシア人中隊」である。

佐領(満洲語でniru)は、八旗の編制上の基本単位で、現代軍制の中隊にあたる。康煕『大清會典』(1)卷二十三、戸部七、戸口、編審八旗壯丁の條によれば、当時の一佐領は概ね130~140人編制であった。

なお、清代史料のロシアおよびロシア人の呼称は、「俄羅斯(Oros オロス)」と「羅刹(Loca ロチャ)」の二つがある。

「俄羅斯(オロス)」はロシア語の「Русь ルーシ(ロシアの古称)」や「Россия ラシーヤ (ロシア)」がモンゴル語の「オロス」に変化し、その後満洲語、漢語に入った言葉。「Русь ルーシ」の語頭の「Ру ル」や「Россия ラシーヤ」の語頭の「Ро ラ」は発音の前に口をしっかり閉じて、その後かなりの巻き舌で一気に力強く発音するため、外国人の耳には、「Русь ルーシ」や「Россия ラシーヤ」が「オロス」、「オロシャ」といった感じに聞こえる。ちなみに、江戸時代の日本でもロシアを「おろしや」と呼んでいる。  

「羅刹」は、清初に満洲人が黒龍江流域にやってきたロシア人を呼んだ言葉「Loca ロチャ」に由来する。「Loca ロチャ」は満洲語で醜い顔の人を意味する「locan ロチャン」(漢語表記は「羅禅(luochan)」に由来する言葉で、その後仏教の悪鬼である羅刹を意味する「Loca ロチャ」となり、漢語でも「羅刹(Luocha)」と表記されるようになった(2)。ただこの「羅刹」という呼称は時代が進むにつれ次第に使われなくなったようだ。

 

一、黒龍江のほとりにて――コサックたちの道のり――  

 1578年(明万暦元年)、明が衰退期に差し掛かった頃、ロシアではイヴァン4世(雷帝)の治世、シベリアの豊富な毛皮を求めて、傭兵隊長イェルマクに率いられたコサックたちが大挙東進を開始した。
 一般にコサックといえば勇猛な騎兵というイメージが強いが、彼らはシベリアを東進する際に巧みに小型船を操り、オビ・エニセイ・レナ河の三大河と森林地帯を網の目のように流れる支流を存分に利用し、わずか60年~70年後の1640年代にはすでに黒龍江(アムール川)流域に到達していた。  

 1650年代以降、同地の領有をめぐってロシアと清とのあいだに戦端が開かれた。その後の断続的な紛争、そして1685年、86年の二度のアルバジン城の攻防を経て、1689年のネルチンスク条約により黒龍江流域は清に帰属することとなり、黒龍江沿いのコサック捕虜たちも多くが本国へと戻った。  

 だが、何らかの事情で清に残ったロシア人もいた。彼らは、北京に護送され、八旗、そして皇帝直属の鑲黄旗(じょうこうき)へと編入され、鑲黄旗満洲都統(師団・旅団)第四参領(大隊)第十七佐領として、皇帝直属の兵士となった。 このロシア人佐領の来歴については、雍正年間に編纂され、乾隆四年(1738)に成立した八旗制度の総合百科全書『八旗通志』(初集)(3)卷三、旗分志三、鑲黄旗滿洲都統第四參領第十七佐領の條に次のように記録されている

第十七佐領、係康熙二十二年、將尼布綽等地方取來鄂羅斯三十一人、及順治五年來歸之鄂羅斯伍朗各里、康煕七年來歸之鄂羅斯伊番等、編爲半個佐領、即以伍朗各里管理。後二次又取來鄂羅斯七十人、遂編爲整佐領。伍朗各里故、以其子羅多渾管理。羅多渾故、以大學士馬齊管理、續以公阿靈阿兼理。阿靈阿故、仍以馬齊兼理、續以尚書徳明兼理。徳明故、以大學士尹泰管理。

第十七佐領は、康熙二十二年、尼布綽(ニブチュ、アルバジン)等地方の取り來たる鄂羅斯(オロス)三十一人、及び順治五年來歸の鄂羅斯伍朗各里(ウランゲリ)、康煕七年來歸の鄂羅斯伊番(イヴァン)等を將(もっ)て編して半個佐領と爲すに係る。即ち伍朗各里を以て管理せしむ。後二次又た鄂羅斯七十人を取り來たり、遂に編して整佐領と爲す。伍朗各里故し、其の子羅多渾を以て管理せしめ、羅多渾故し、大學士馬齊を以て管理せしめ、續て公阿靈阿を以て兼理せしむ。阿靈阿故し、仍(なお)馬齊をして兼理せしめ、續て尚書徳明を以て兼理せしめ、徳明故し、大學士尹泰を以て管理せしむ。

※読み下し、( )内、下線は引用者、以下同じ。

 この史料によれば、まず康熙二十二年(1683)にアルバジン地方のロシア人捕虜31人が北京に護送され、すでに投降していたウランゲリ(アナニイウルスラノフ 後述)、イヴァン(4)らと合わせて、半個佐領(佐領の半分程度の規模の部隊)を編成し、彼らにロシア人捕虜を管理させた(以下、ここでの捕虜数は壮丁(成人男子)のみを指し、女性や子供は含まない)。 だがこれだけでは具体的な編成過程がよくわからないので、他の史料を当たってみると、まず『聖祖實錄』(5)卷一百十一、康熙二十二年(1683)七月戊戍(二十九日)條に、

先是阿達哈哈番馬喇等奏:「索倫總管博克等所獲羅及軍前招降者共選五人,遵旨送京,餘二十六人皆迫于大兵始行投誠,索倫距羅,不宜久留,應一併解至」。議政王等議,送京部安插。博克等所獲宜番米海羅莫羅,對二人賞以衣帽,遞至薩布素處放還, 

是より先に阿達哈哈番馬喇等奏すらく:「索倫總管博克等獲ふる所の羅剎及び軍前にて招降せる者共に五人を選び,旨に遵じ京に送る,餘二十六人皆大兵により迫(くる)しみ始めて投誠を行ふ。索倫は羅剎と距たること近く,宜しく久しく留むるべからず,應に一併して解至せん」と。議政王等議し,京に送り戶部に安插せしむ。博克等獲ふる所の宜番、米海羅莫羅,二人に對し賞するに衣帽を以てし,遞りて薩布素の處に至り放還せしむ。

 

とあるのが見え、「羅刹」(ロシア人)捕虜計31人を北京に護送する命令が記録されている。『八旗通志』の「康煕二十二年、尼布綽等地方の取り來たる鄂羅斯(オロス)三十一人」とは彼らのことと考えて間違いなかろう。

 では「後二次又た鄂羅斯七十人を取り來たり、遂に編して整佐領と爲す。」、すなわちその後もう二回捕虜が北京に連行され、正規の佐領(ニル)編成となったのはいつだろうか。

「後二次」についてさらに史料を探してみると『聖祖實錄』(6)卷一百十四、康熙二十三年(1684)二月辛酉(二十五日)條に

 

黑龍江將軍薩布素等疏報:「夸蘭大鄂羅舜等,今年正月十一日,抵羅地方,遣宜番等造其居,開諭之,先取其鳥鎗二十具,并鄂羅春留,質之子三人,招撫羅米海羅等二十一人。」上命遞送米海羅等至京,交戶部安插。

 

黒龍江將軍薩布素(サブス Sabsu)等疏報すらく:「夸蘭大(クワラン=イ=ダ kūwaran i da、満洲語で「部隊長」の意)鄂羅舜等,今年正月十一日,羅地方に抵り,宜番(イヴァン)等を遣はし其居を造らしめ,之を開諭す,先ず其の鳥鎗二十具を取り,并びに鄂羅春留まりて,之が子三人を質とし,羅米海羅等二十一人を招撫す。」上命じて米海羅等を遞送し京に至らしめ、部に交し安插せしむ。

とあり、二十三年二月に宜番(イヴァン)なる者を遣わし、さらに21人の捕虜に降伏勧告を行い、武装解除後北京に護送させたことが記録されており、「後二次」のうちの一回はこの事実を指すと思われる。 なおこの宜番が先述の『八旗通志』 旗分志三に現れる伊番(イヴァン)であるかどうかは不明。

 

 さらに、『八旗通志』(初集)卷一百五十三、名臣列傳十三、郎談には、康熙二十四年(1685)五月二十五日の第一次アルバジン開城時に多くのロシア人が解放される中で、 

中有沐仁化不願去者巴什里等四十五人,並率其妻子以歸

中に仁化に沐し、去るを願わざる者巴什里等四十五人あり、並びに其の妻子を率いて以て歸す 

とあるように、捕虜の巴什里(ヴァシーリ Василий?)ら45人とその妻子が残留を希望し、彼らは後に北京に護送されている。「後二次」のうちのもう一回は彼らを指すと考えられる。

 しかし、これだけでは計66人であり、「後二次又た鄂羅斯七十人を取り來たり」と計算が合わない。「七十人」とはおそらく翌年の第二次アルバジン攻防戦の捕虜やその他の時期に投降したロシア人も含めた数であろう(7)

 八旗のロシア人部隊はこのようにして編成されたのであった。その具体的な編成時期は史料には明記されていないが、前述の経緯から、康熙二十二年に半個佐領、康熙二十四年(1685)ごろ、巴什里ら45人の捕虜を獲て正規の佐領(ニル)編成となったと思われる。

当初の構成員は前述の史料から考えて、約100人強。家族等も含めれば数百人規模だったと思われる。

なおロシア側の文献では佐領をソートニャ сотня(100人隊)、そして彼ら北京に住むようになったロシア人捕虜とその子孫を「アルバジン人」と呼んでいる (8)

 

 なお、吉田金一氏の研究によると、最初の帰順者、そして俄羅斯佐領の初代管理者として名前が挙がっている伍朗各里(ウランゲリ)は、本名アナニイウルスラノフ Ананий Урусланoвというクリミアタタール人でもと奴隷であったが、洗礼を受け1651年(清順治八年)にアムール流域に派遣され、ヤクーツク長官ドミトリーフランツベコフに仕えていた者だった。だが何らかの事情で順治十年(1653)ごろ清に亡命したらしい(吉田金一氏によれば「順治五年來歸」は順治十年の誤り)(9)

 彼はヤクーツク長官に仕えていた関係で東シベリアと極東ロシア情勢に精通しており、彼の投降により、清朝側はロシアへの対策を立てやすくなった。

 投降後のウルスラノフは、清軍に従軍して案内役を務めたり、清露交渉でも重要な役割を演じており、その子羅多渾もロシア文書の翻訳を行ったり、ネルチンスク条約会議の際には三等侍衛として対露交渉に当たっている(10)

 

 そして、彼とその子羅多渾が亡くなったあとも、馬斉・尹泰ら康煕・雍正年間の有力政治家によって管理されていたことから、このロシア人部隊が清朝においてかなり重要視されていたことがわかる。  

 特に羅多渾の後の管理者であるマチ(Maci 馬斉)は、満洲族の名門フチャ(Fuca 富察)氏の出身で、皇室との関係も深い重臣であった。さらには、西洋の宣教師とも親しく、対ロシア事務を長期にわたって担当しており、後に述べる俄羅斯文館の設立にあたっても中心的役割を果たしている(11)。次の管理者のアリンガ(Alingga 阿霊阿)も名門ニオフル(Niohuru 鈕祜禄)氏の出で開国の功臣エイドゥ(Eidu 額亦都)の孫であり、かつ理藩院尚書(モンゴルなど内陸アジア諸民族を管轄)として対ロシア事務を預かる立場であった(12)

さて、『八旗通志』(初集)の記事は雍正年間までで止まっているので、乾隆年間に編纂された『欽定八旗通志』(13)卷三、旗分志三、鑲黄旗滿洲都統第四參領第十七佐領の條で、尹泰以後の管理者を拾ってみると、哈達哈・書山と続いた後富亮(馬斉の子)・富景(馬斉の弟馬武の孫)・広成(馬斉の弟李栄保の子)・和碩額駙(ホショ=エフ 皇帝の女婿)の福隆安(馬斉の弟李栄保の孫)・魁林(同じく李栄保の孫)・豊伸済倫(福隆安の子)と馬斉一族が連続して管理に当たっている。劉小萌氏はこの事実を根拠に、馬斉一族(フチャ氏)と俄羅斯佐領との間に特殊な関係が存在した可能性を指摘している(14)

 瀋陽故宮2005五・一 012

 鑲黄旗の旗と鎧(瀋陽故宮 2005年5月撮影)

………………………………………………………………………………………

1)康煕『大清會典』康煕二十九年(1690) 天理図書館所蔵本
(2)吉田金一『ロシアの東方進出とネルチンスク条約』近代中国研究センター、1984年、p60及び第三章註25、47
(3)『八旗通志』(初集)東北師範大学出版社、1985年
(4)ロシア人名のИван Ivan イヴァン は、当時の満洲語では一般にイファン Ifan、 漢語でも衣番 Yifan 、伊番 Yifan、宜番 Yifanなどと音写されている。例えば康熙年間のロシア旅行記である『異域録』上巻に登場するチュクのロシア役人イヴァン=サヴィッチ Ivan Savich を満洲語ではイファン=サフィチ Ifan Sa fi cy、漢語では衣番薩非翅 Yifansafeichi イファンサフェイチと音写し、下巻のサラトフの條でロシア史について説明している箇所ではイヴァン4世(雷帝)、すなわちイヴァン=ヴァシリエヴィチ Ivan Vasil’evich を満洲語ではイファン=ワシリイォイチ Ifan Wasili ioi cy、漢語では衣番瓦什里魚赤 Yifanwashiliyuchiと音写している。『異域録―清朝使節のロシア旅行報告トゥリシェン著・今西春秋訳注・羽田明編訳平凡社東洋文庫445、平凡社、1985、『満文異域録校注』荘吉発校注、文史哲出版社、1983年。 
(5)『清實録』中華書局、1985~87年。なお、『平定羅刹方略』(『朔方備乘』本、何秋濤校) 『筆記小説大觀』十三篇新興書局 1976)卷一 康熙二十二年(1683)七月戊戍(二十九日)條にもほぼ同内容の記事あり。
(6)『平定羅刹方略』卷二 康熙二十三年(1684)二月辛酉(二十五日)條にもほぼ同内容の記事あり
(7)例えば、『聖祖實錄』卷一百十一 康熙二十二年(1683)七月甲申(十五日)には、

諭兵部,奏事章京南岱,攜至羅二人,所司加意贍養,時其飲食,毋得缺乏,以示軫恤之意。  

とあり、当時の史料には本文中で挙げた大規模なもの以外にも、数人単位の捕虜、投降者が散見される。
(8)劉小萌「関於清代北京的俄羅斯人――八旗満洲俄羅斯佐領歴史尋蹤」『清史論叢』2007年号、中国社会科学院歴史研究所明清史研究室編、 p.367
(9)注(2)pp.64~78及び第三章註47、ウルスラノフの人名のロシア語表記については同書人名索引p.476の「ウルスラノフ,アナニイ」の項目に準拠した。
(10)同上
(11)柳沢明「内閣俄羅斯文館の成立について」早稲田大学大学院『文学研究科紀要』別冊第16集、哲学・史学編、1989年。柳沢氏は档案史料を引用し、馬斉が俄羅斯文館設立に当たり中心的な役割を果たしたことを明らかにしている。
(12)『清史列傳』卷十二に伝あり。『聖祖實録』卷二百二十三 康煕四十四年(1705)十二月甲辰(十四日)條、卷二百七十 康煕五十五年(1716)十一月癸酉(十七日)條によれば、康熙四十四(1705)年十二月十四日から同五十五年(1716)十一月十七日の死去まで理藩院尚書を務めている。
13)『欽定八旗通志』(四庫全書本)『欽定四庫全書』上海古籍出版社、 1987年
14)
注(7)p.370

 白い八旗兵――八旗俄羅斯佐領――2