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1、入関前後
清朝(満洲族)はその成立当初から、漢族の文化を貪欲に吸収しつづけた。
すでに、ヌルハチ時代から漢籍の翻訳が開始されていたが、ホンタイジ時代には中国(明)の政治体制を迅速に導入する必要から、漢籍の満洲語(満文)への翻訳が国家プロジェクトとして積極的に遂行されるようになった。主な担当者は漢語を得意としたダハイ(達海)で、『刑部會典』、『素書』、『三略』、『国語』を翻訳し、彼の生前に未完成だったものとして『資治通鑑(綱目?長編?)』、『六韜』、『孟子』、『三国演義』の翻訳があった(後継者により順治年間に完成)。
そのほか、『遼史』、『金史』、『元史』といった、中国の一部または全域を支配した北方騎馬民族の正史の翻訳も平行して行われ、これも崇徳四年(1639)に完成を見ている。

このように入関前後の翻訳書は、儒教の経典や法制書、兵書、史書など、国家のイデオロギーや政治・軍事のノウハウに関するものに集中しており、清朝の指導層が国家を統治する上ですぐに役立つ実用的な方面の知識を優先して導入しようとしたことがわかる。

それは、満文『遼史』、『元史』の序文でホンタイジの勅語を引用して、これらの正史を翻訳したのは過去の歴史を顧みて政治や戦争の指針とするためであるとはっきり謳っていることや、後に満文『三国演義』が完成(順治七年 1671)したときに、摂政王ドルゴンが「この書は忠臣、義賢、孝子、節婦の善行を鑑とし、また奸臣が国を誤り悪政が国を乱したことを戒めとできる」として、諸臣四十七人に白銀1600余両を与えた事実からも明らかである。


2、入関後
順治元年(1644)、清が入関し中国内地を支配下におさめると、翻訳書もこれまでの政治・軍事に関するものばかりでなく、あらゆる分野の漢籍が満洲語に翻訳されはじめた。
たとえば『大学』、『中庸』、『三字経』、『千字文』、『孝経』、『菜根譚』、『孫子兵法』など中国思想、儒学の経典のみにとどまらず、『幾何原本』、『算法原本』など西洋の数学書、仏教の『大蔵経』、果ては『聊斎志異』、『金瓶梅』といった小説までも満洲語に翻訳されている。

そのほかには『新約聖書』や西欧の解剖学の翻訳まで存在する。
歴史書ではその他『史記』や『資治通鑑綱目』の翻訳が有名である。

なお、余談であるが、清初の西洋の宣教師たちは漢字の習得にかなりの時間を要する中国語よりも、むしろ満洲語訳された漢籍によって中国古典の知識を吸収していたという。


3、『御製繙譯論語』
儒学の経典の中でも、四書(『論語』、『大学』、『中庸』、『孟子』)は、朱子学が清朝の公式イデオロギーとされたため特に重視された。そのため、康煕年間から乾隆年間にかけては、『清文鑑』の編纂に見られる満洲語の規範化の動きともあいまって、たびたび満洲語訳が刊行された。これには満文によって出題される翻訳科挙や八旗科挙の基準作りという面もあると思われるがここでは詳述しない。

(満洲語の規範化の代表例として、漢語からの音訳語彙(借用語彙)に対し、あらたな満洲語を創出するというものがある。例:医師 daifu(大夫)→oktosiなど)

今回取り上げる『御製繙譯論語』は乾隆二十年(1755)に刊行された『御製繙譯四書』の一部分である。
そして、『御製繙譯書経』(乾隆二十五年 1760)、『御製繙譯易経』(乾隆三十年 1765)、『御製繙譯詩経』(乾隆三十三年 1768)、『御製繙譯禮記』(乾隆四十八年 1783)、『御製繙譯春秋』(乾隆四十九年 1784)をあわせた『御製繙譯五経』も刊行された。
これらをまとめて刊行されたのが『欽定繙譯五経四書』(乾隆四十八年 1783)で、四書五経の満洲語訳のいわば決定版となった。

なお『御製繙譯四書』は、四書全てに朱子の『四書集注』にある『序説』がそのまま掲載されている。本文は満漢合壁で、『論語』部分にざっと目を通してみたところでは、満文訳も概ね『四書集注』の解釈を下敷きとしているようである。


参考文献・サイト(順不同)

朱子『四書章句集注』(新編諸子集成(第一輯) 中華書局 1983)

『御製繙譯論語』(『欽定繙譯五經四書』(四庫全書本)『欽定四庫全書』上海古籍出版社 1987)

金周源(大塚忠蔵訳)「満文小学研究」(『満族史研究』第1号 2002)

渡辺純成「満洲語のユークリッド―東洋文庫所蔵の満文『算法原本』について―」(『満族史研究』第3号 2004)

井黒忍「満訳正史の基礎的検討―『満文金史(aisin gurun i suduri bithe)』の事例をもとに―」(『満族史研究』第3号 2004)

满族网 历史分馆 http://manchu.home.sunbo.net/

(写真をクリックすると拡大。学而篇冒頭部分です。)