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呉三桂(ご さんけい wu2 san1 gui4)

明万暦四十年(1612)~清康煕十七年(1678)

字、長白(『清史稿』では「長伯」、一説に月所・碩甫)、遼東の人。明末清初の武将。

 

 明崇禎十七年(清順治元年、1644)山海関を守っていたが、李自成が北京を占領すると、清軍を関内に引き入れ、李自成軍を打ち破り、平西王に封ぜられた。その後雲南・貴州の地の軍事指揮権を一任され、「三藩」の一角として大きな勢力を誇る。のち、清朝にも叛いたが(三藩の乱)、病死。

 

 

 

その出自

  彼の祖先については『清史稿』では「江南高郵人,籍遼東」としているが、各史料間の異同がはなはだしく、結局彼の父、呉襄以前の事は不明確なままである。さらに彼の出生地ですらも史料により異なっている。なお、李治亭氏はその著『呉三桂大伝』で出生地を広寧中後所(現 遼寧省綏中)とされている。

 

 父、呉襄は明天啓二年(1621)武挙の進士となり、その後トントン拍子に出世して、崇禎年間には錦州総兵に至っている。

 子、三桂もまた順調に出世を重ね、16,7歳ごろ武挙に合格、以後多くの実戦を経験。

 

 その出世の背景にあったのが、当時、遼西の名族であった祖氏との関係である。

 祖氏一族は代々遼東・遼西に住み、軍功を重ね、この頃には広大な農地、さらには多くの私兵をも有する一大勢力となっていた。その当主は祖大壽で、その威勢には明朝ですらも一目置かざるを得なかった。

 呉襄はその妹を娶り、強力な後ろ盾を得ることとなった(彼女は継母であるようだ)。以後呉父子はこの閨閥を背景に勢力を拡大し、祖氏と同じく多くの農地を占有し、「家丁」と呼ばれる私兵集団を養い、一方では中央政界へのコネ作りにも余念がなかった。  

 (すなわち祖太壽は呉襄にとっては義兄弟、三桂にとっては母方の叔父に当たることになる)   

 そして、明末には祖・呉氏は、遼西回廊における一大軍閥へと成長していたのである。  

 崇禎十二年(1638)呉三桂は寧遠総兵(現在の師団長クラス)に任ぜられた。このときわずか二十七歳、当時としては異例のスピード出世であった。これには、彼自身の才能もさることながら、祖・呉軍閥の支援と中央政界のコネクションとが有利に働いたためだろう。    

 以後、彼は多くの戦いで奮戦し、手柄を重ね続けることとなる。

 

 

清への投降 ―「衝冠一怒為紅顏」 について―

 

 崇禎十四年(清崇徳六年、1641)、松山・錦州の戦いで明は清に惨敗、松山を守っていた薊遼総督洪承疇、さらには錦州の祖大壽も清へと投降した。

 呉三桂は、部隊を率いて撤退に成功、寧遠城に立てこもった。このとき、ホンタイジ(皇太極)は自ら勅書を下して降伏勧告を行い、さらには先に投降した祖大壽を通じて投降を勧めているが、呉三桂はこれら度重なる勧告を全て黙殺している。

 

 崇禎十七年(清順治元年、1644)李自成が北京に迫ると、彼は平西伯に任じられ、李自成討伐に向かうが、その途中で北京の占領と皇帝の自殺を知り、山海関に引き返す。この時、父の呉襄をはじめ呉三桂の一族は北京におり、いわば人質となっていた。父からの勧告を受けた呉三桂は一時は李自成への投降を決めていたが、急に翻意して清のドルゴン(多爾袞)に李自成を討つための援助を求めた。彼は率先して頭をそり上げ、辮髪を結って恭順の意を示した。

 

 こうして、呉三桂そしてドルゴンは崇禎帝の敵を討つ「義軍」として、李自成軍を打ち破り、北京へ入城した。この際、父呉襄とその家族は李自成軍に殺されている。

 

 なお、彼が清に投降した理由について、北京に残してきた愛妾陳圓圓が李自成の部将劉宗敏に奪われたからだという説が広く流布している。当時からこの噂はあったようで、同時代の詩人呉偉業(梅村)はその詩「圓圓曲」で呉三桂を痛烈に批判している。

   

    鼎湖當日棄人間   鼎湖 當日人間を棄つ

  (その日、皇帝がこの世を去った)

        破敵收京下玉關   敵を破り京を収めんとして玉關を下る

  (呉三桂は敵を破り、都を奪回しようと山海関に入った)

        慟哭六軍俱縞素   慟哭す 六軍 俱に縞素(こうそ)

  (全軍みな慟哭して、喪服を着けたが)

        衝冠一怒為紅顏   冠を衝いて一怒するは紅顏の為めなり 

  (冠をつきあげるほどの激怒は、実は美女のためだった)  

     

 特に「冠を衝いて一怒するは紅顏の為めなり」は非常に有名で、呉三桂は金品を贈ってこの句を削るように頼んだが、呉偉業は頑として応じなかったという。

 

 

 山海関で李自成と清の軍勢に挟まれる形で窮地に立っていた呉三桂が清軍に降った経緯に関しては、諸説があり確かな結論は無い。

 

 ただ(女性の方々には大変失礼だが)「孝」をなにより重んじる伝統道徳の中で生まれ育った呉三桂が、自分の父と一族の多くの命より妾一人の方を取るというのはかなり無理があると思う。

 また、陳圓圓その人の事跡についても、諸説紛々でその実像は謎に包まれている。なにしろ、李自成が北京から逃亡して以降、全く行方が分からないのだ。

 

 

 考えるに、彼が自分の父や家族をいわば見殺しにする形で清に投降していることからして、そこには冷徹な利害の計算があったことは間違いない。

 前述のように、呉一族は遼西に大きな利権、さらには私兵集団すら抱える軍閥であった。

 しかも、彼の母方の叔父である祖大壽や、洪承疇ら同僚・友人・上司の多くが今や清朝側に立って戦っており、実際彼らはたびたび投降を勧めてきてもいる。彼は熟慮の末、まだ国家としての基礎の定まっていない李自成の「大順」政権に投降するよりは、より安全で自分の既得権をそのまま受け継げる「大清」を選んだのだろう。

 

 彼は確かに国を売ったのかもしれない。だが、それは決して一人の女性のためではなく、一地方勢力の領袖として、より安全確実な「買い手」を探した結果であろう。

 

 

 なお、これに類する風説は、洪承疇にもあって、荘妃(孝荘皇太后)が色仕掛けで落としたとか、果てはゲイ(!)の色仕掛けで陥落した※といった話が清代の筆記や野史に見える。

 明を代表する政治家・軍人であった洪承疇の投降は、明にとってかなりのショックであったらしく、その理由づけとしてこういう噂が語られたのかもしれない。

 

 とすれば、呉三桂と陳圓圓の伝説も事実としてではなく、「なぜ国を売ったのか」という明の遺民たちの痛憤としてとらえるべきであろう。

 

 

※『嘯亭雜録』卷一 用洪文襄  にて毛奇齢(西河)の説として引用。著者の礼親王昭槤は「何厚誣之甚(なぜそんなに人を貶める?)」と言って、この説を否定している。(毛奇齢の原典は未見)

 

(つづく)