LINEで送る
Pocket

転戦
 
 呉三桂は清朝に投降した直後の順治元年(1644)四月、平西王に封じられ、翌二年錦州に鎮した。同五年(1648)陝西の漢中に移鎮し、陝西方面の流賊(李自成軍残党)の討伐に当たった。順治九年(1652)からは四川方面にて孫可望・李定国ら張献忠残党の掃討を行った。十四年(1657)には平西大将軍に任じられ、李定国や南明(明の亡命政権)の桂王朱由榔(永暦帝)を追って四川・貴州・雲南を転戦、十六年(1659)に雲南に移鎮。そのまま雲南に封じられる。そして康煕元年(1662)に、ビルマまで逃げた桂王を捕らえ、これを昆明で殺した。
 
 南明政権の最後の生き残りである桂王の死により明王朝は完全に滅亡し、清は呉三桂に平西親王の爵位を賜うことで報いた。
 
三藩の権勢  
 
 呉三桂に限らず、清は中国内地侵入にあたり尚可喜、耿仲明ら漢人武将を重用している。清朝は中国平定にあたって彼らの軍事力を存分に利用した。彼らはその功績および、強い軍事力をもつ彼らの懐柔のため、それぞれ独自の藩を領有する事を認められていた。
 そして呉三桂の平西藩(雲南・貴州)、尚可喜の平南藩(広東)、耿仲明の靖南藩(福建)が成立した。そして、その中でも最も大きな勢力を得たのが呉三桂である。
 
 呉三桂の「平西王」(康煕元年からは「平西親王」)という爵位が当時どれぐらいの地位であったのかについて、神田信夫氏は服飾・俸禄・宮廷での席次といった角度から検討し、皇族中最も有力で皇位継承権を持つ「和碩親王」に次ぐ極めて高い待遇を受けていたことを明らかにしている。つまり、皇位継承権を持たない点を除き、ほぼ皇族に準ずる待遇を受けていたのである。
 もちろんこれは呉三桂の功績に対する褒賞であり、同時に彼の持つ強大な軍事力・経済力に対する懐柔処置であったことは言うまでもない。
 
 本来、各藩王は遼東から伴ってきた子飼いの部隊(呉三桂の「五十三佐領」など)と緑営の軍事指揮権を持つに過ぎず、制度上は地方行政には何の権限も有しなかった。そして、当時も中央政府から総督・巡撫以下各地方官員が現地に派遣されていた。
 
(三藩の南方進駐当初は、制度上でも現地官吏の任免権が認められていたが、あくまで戦時における非常大権的なもので、情勢の安定化とともに撤廃)
 
 だが、呉三桂を初めとする藩王は、その実力と人脈を利用して、依然官吏の人事に大きな影響力を行使しており、ことに平西藩での地方官任命に関しては呉三桂の題補(推薦)がほぼそのまま承認されていた。
 
 また、呉三桂の平西藩は、チベットとの茶馬貿易や鉱山開発、銅銭私鋳、商業税や通行税などの私税徴収で大いに利益をあげ、他の二藩も平西藩と同じく私税の徴収や遷界令に乗じた密貿易で大いに潤っていたらしい。さらには、中央から巨額の軍事費まで支給され、その費用は大きな財政負担となって清朝の肩にのしかかっていた。 
 
 このように、三藩は藩内の実質的な軍事指揮権・徴税権・官吏任用権を掌握しており、あたかも独立王国と化していた。
 
 
 
※三藩は明滅亡後に南へ亡命した諸政権(南明)を指す事もあり、その場合は南明を前三藩、呉三桂たちを後三藩と読んで区別するが、普通に三藩と言った場合は概ね呉三桂たち「後三藩」のほうを指す。
 
 
三藩の乱
 
 さて、時の皇帝康熙帝は平素からこの三藩の存在を疎ましく思っており、中央集権体制を確立するために三藩の廃止を目論んでいた。

 康熙十二年(1673)、尚可喜が息子の尚之信との不和を理由に自らの隠居と尚之信への継承を願い出た。これに対して、康熙帝は藩自体を廃止すると返答した。これに驚いた呉三桂と耿精忠(耿仲明の孫)も、立場上やむをえず自分達も引退と藩の廃止を願い出た。本心はもちろん慰留されることを願ってである。

 朝廷内では藩の廃止を強行すれば呉三桂たちが反乱を起こすとの反対意見が根強かったが、康熙帝はミンジュ(明珠)らの少数意見を採用して廃止を強行する事に決めた。康煕帝としては、三藩を放置すればいずれは反乱を起こすのは明らかで、どうせ反乱が起こるのなら相手が準備不足の早いうちがいいという考えだったのである。

(結果的には鎮圧に八年もの歳月と多大の犠牲とを要したのだが・・・・・・)

 

 

 予想通り呉三桂は自ら「天下都招討兵馬大元帥」と称して清に対する反乱を起こした。

 康煕十三年(1674)、呉三桂は湖南を占領、ここから軍を東西に分けて西は四川省陝西省へ、東は広西・福建へ進軍させ、同時に尚可喜・耿精忠に対して呼応の誘いをかけた。耿精忠は誘いに乗って反乱を起こし、尚之信はあくまで清に忠誠を尽くす父を幽閉して反乱に参加した。これに加えて台湾から鄭経鄭成功の息子)も呼応し、一時は長江以南は全て三藩の手に落ちた。

 さらに陝西提督王輔臣も呉三桂側に寝返り、翌年には内モンゴルのブルニもこれに乗じて反乱を起こした。

 

 だが、呉三桂の決起は当初から失敗の要因をはらんでいたと言える。

 まず、呉三桂は、湖北・湖南を制圧した段階で一気に北上して大運河や北京を衝くことをせず、江南の鎮定に力を注いだが、そのことが結果的には清朝に態勢を立て直す時間を与えることとなってしまった。 

 次に、呉三桂たち三人と台湾の鄭経は全て同格であり、指揮権の統一が為されていなかったため、戦略の不一致が目立ち、そのため清朝軍の各個撃破を許すことになった。

 第三に、呉三桂たちは満洲族を滅ぼして漢族の世を取り戻すとの大義名分を掲げていたが、その漢族王朝の明の亡命政権を南に追い詰めて滅ぼしたのは他ならぬ呉三桂であり、それゆえ明の遺民たちの支持を集めることもできなかった。

 

 清朝はまず康煕十四年(1675)に内モンゴルの反乱を片付け、翌十五年陝西を制圧。同年、鄭経耿精忠の勢力範囲をめぐる争いに乗じて福建の靖南藩を投降させ、次いで翌十六年(1677)広東の平南藩をも投降させ、着々と地歩を固めていった。

 

皇帝即位

 康煕十七年(1678)、窮地に立った呉三桂は、湖南の衡州にて皇帝に即位、国号を「大周」、元号を「昭武」としたが、退勢を覆すことはできず、同年秋に病死。 

  

  彼の死後、三桂の孫、呉世璠[王番]が皇帝の位を継いだが、じわじわと雲南へと追い詰められ、康煕二十年(1681)昆明の陥落とともに自殺。乱は終結した。世璠の屍は清によって暴かれ、首は北京にてさらしものになった。また、彼の一族や部下たちも次々と処刑されていった。
 
 そして呉三桂の遺骨も清朝軍の執拗な捜索の末発見され、北京へと送られたが、本物の遺骨は別の場所にひそかに葬られたとの説もある。
  
 これと相前後して、平南王の尚之信、靖南王の耿精忠の藩も取り潰され、康煕二十二年(1683)に台湾の鄭氏政権も清に投降、ここに清の中央集権体制が完成した。 
 
 
 
 
参考文献・サイト(順不同)
(史料)
『清史稿』巻四百七十四  列傳二百六十一  吳三桂
 
『嘯亭雜録』昭槤 撰  清代史料筆記叢刊 中華書局 1980
『呉偉業―呉梅村―』福本雅一 注 中国詩人選集二集12 岩波書店 1962 
 
(論文・著作)
李治亭『呉三桂大伝』江蘇教育出版社 2005
石橋崇雄『大清帝国』講談社選書メチエ174 2000 
竺沙雅章 監修 谷口規矩雄 責任編集『アジアの歴史と文化』4 中国史―近世Ⅱ
同朋社出版 1994
 
神田信夫「平西王呉三桂の研究」
(明治大学文学部研究報告東洋史第二冊 明治大学文学部文学研究所 1952)
神田信夫「清初三藩の富強の一側面―平南藩を中心として―」(『駿台史学』第五号 1955)
(神田氏の両論文は共に 『清朝史論考』山川出版社 2005 に収録)
 
『Wikipedia ウィキペディア』呉三桂、三藩の乱の各関連項目