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ハイランチャ(Hailanca、海蘭察)
?~乾隆五十八年(1793)
ソロン(索倫)  ドラール(多拉爾 Dolar)氏、満洲鑲黃旗人
 
 乾隆年間に活躍したエヴェンキ(鄂溫克)族出身の将軍。乾隆二十年(1755)のジューンガル平定戦に一兵卒として従軍して以来、多くの戦争に参加し功績を重ね、ついには将軍にまで成り上がった実戦派のたたき上げの武将。
 
ソロン(索倫)兵と八旗
 
 エヴェンキ族とは、 昔からシベリア、大興安嶺の森林地帯に分布し、狩猟生活を送っていた民族で、清代にはソロン(索倫)と呼ばれていた。清代以降、清領内のエヴェンキ族の多くは現在の中国・内蒙古自治区フルンバイル草原へとに移され、狩猟生活から次第に遊牧生活へと移行していった(現在、中国領内のエヴェンキ族の総人口は約24000人)。
 
 彼らは、康煕年間から対ロシア・ジューンガル防衛のため、八旗制度の中に組み込まれるようになり、その剽悍さと巧みな戦いぶりによって、次第に清朝軍の重要な戦力となっていった。
 雍正年間以降、ソロン兵は清朝の行うあらゆる戦争に従軍し、多くの功績を打ち立てた。ジューンガル、中央アジア、ビルマ、四川、ベトナム、ネパールなどなど、十八世紀以降彼らが現れなかった戦場はなかった。彼らは満洲八旗がすでに失いつつあった勇敢さと野性的戦闘力により、かなり重宝されたらしい。
 だが、そのために多くのエヴェンキの成年男子が文字通り根こそぎ動員され、乾隆年間後期には人口が激減してしまったという。
 
 ハイランチャも、そうしたエヴェンキ族の一牧民として生活していたが、乾隆二十年(1755)のジューンガル戦に徴兵されたことで、彼の人生は大きく動き出す。
 
 
ハイランチャ登場―ジューンガル・ビルマ―
 
 ハイランチャは、「ソロン兵」の一人として、乾隆二十年のジューンガル戦に従軍。身分は「索倫馬甲」、すなわち一兵卒だったが、タルバガタイで、初め清に協力して後ふたたび叛いたホイト(輝特)部の有力者バヤール(巴雅爾)を生け捕りにするという大手柄を立て、一躍侍衛(近衛兵)に昇進。騎都尉兼雲騎尉の世職(爵位)を与えられ、紫光閣に肖像画が飾られ、その功績が讃えられた。
 
 乾隆三十二年(1767)~三十三年、ビルマでの戦いでこれまた手柄を立て、鑲黄旗蒙古副都統、鑲白旗蒙古副都統に累進。ビルマでは、高温多湿の気候や疫病、険しい地形、さらにはビルマ軍のゲリラ戦術に悩まされ、全体的には敗戦ともいえる惨憺たる状況であったが、海蘭察は小回りの利かない大部隊ではなく、少数の精鋭部隊をたくみに運用し、奇襲戦術で対抗。ここでも戦術の才を見せる。
 
 以後、小部隊による奇襲戦法は彼の得意技となっていく。
 
 
金川の苦闘
 
 金川(ギャロン  現在の四川省阿[土貝]蔵族羌族自治州)は、四川省の西北に位置し、チベット高原の東端に当たる地区で、古来チベット族や羌族が多く居住しており、清代には大金川・小金川の二つの峡谷によって区分されていた
 
  乾隆十二年(1747)、大金川土司サラベン(莎羅奔)と小金川土司ツェワン(沢旺)との間に戦争が起こり、清は張広泗を川陝総督に任じ、さらに翌十三年、大学士ネチン(訥親)を派遣して、大金川を制圧させようとするが、険しい地形と各所に散在する石碉(せきちょう 石造の望楼状の砦 下図)の攻略に苦しみ敗北。石碉の内部には水や食料・銃砲と弾薬が蓄えられ、清朝軍が近づくと火砲や弓矢による猛射をあびせて撃退した。
 両名は敗戦の責を負って自殺。乾隆十四年(1749)、サラベンの投降を受け入れる形でいったん停戦。
 
 その後乾隆三十六年(1771)に、大金川と小金川土司の間に同盟が成立し、再び清に反旗を翻すようになった。清は温福に両金川の制圧を命じ、数万の軍を動員。翌年には小金川を下した。ハイランチャは温福の部下としてこの戦いに従軍していた。
 
 だが、乾隆三十八年(1773)六月、再び小金川が叛き、大部隊を擁する清軍は木果木の戦いにて、奇襲・ゲリラ戦術にはまって壊滅的打撃を受け、温福以下一万人以上にも上る大量の死傷者を出した。清軍の指揮系統は大混乱に陥ったが、ハイランチャは敗残兵をまとめて撤退に成功。全軍の崩壊を阻止した。
 
 
 この失敗に懲りた清朝は、八旗の火器専門部隊である火器営を派遣して、火力の強化を図る一方、小回りの利かない大部隊中心の運用を改め、小部隊による奇襲戦術を採用するようになった。
 ハイランチャはこうした清朝の新戦術の中心となって、しばしば少数精鋭部隊を率いて出動した。彼は、本来攻撃側に不利である山間部という条件を逆手にとって、伏兵や夜襲、迂回戦術を多用し、次々と石碉を陥落させていった。
 
 そして、同年十一月に小金川を平定。乾隆四十一年(1776)、サラベンとその孫ソノム(索諾木)を降伏させ、ようやく大金川の平定にこぎつけている。
(つづく)
 
長くなったので、前後半に分けます。
 
写真:金川石碉:嘉绒之窗 高原明珠马尔康  より