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 乾隆四十一年(1776)、ハイランチャは金川平定の功により、一等超勇侯に封ぜられ、次いで四十三年に武官の最高位たる領侍衛内大臣(近衛師団長)に任ぜられる。

 
 乾隆四十四年(1781)、甘粛のイスラム教徒の叛乱を鎮圧。同四十六年再び甘粛で叛乱が起こったので、参賛大臣として尚書フカンガ(福康安)とともにこれを鎮圧。以後、しばしばフカンガとコンビを組むこととなる。
 
 乾隆五十一年(1786)十一月、台湾の林爽文が叛乱を起こし、彰化、諸羅(嘉義)を陥れた。この叛乱には数十万人が呼応し、林は台湾西部のほぼ全域を支配下に収めた。
 翌年7月、ハイランチャはフカンガの指揮の下、海を渡り、鹿仔港に上陸、五十三年、林爽文を捕らえ、乱を平定した。
 
 次いで、乾隆五十六年(1791)、グルカ(ネパール)が西チベットに侵入したので、三たびフカンガの指揮下でチベットに赴き、翌五十七年グルカ遠征を開始。穀物の生産高が極めて少ないチベットでは軍勢の補給は困難を極め、峻険な地形、要衝に設けられた砦、さらに有名なグルカ兵の勇戦により大損害を出しながらも、火縄銃や大砲の火力で敵を圧倒し、グルカの首都カトマンズに迫った。グルカはイギリス東インド会社に支援を求めたが拒否され、清朝に和議を提案。功により一等公に任ぜられた。
 
 
 この戦いでも、ハイランチャは少数精鋭の索倫(ソロン)兵を率い、峻険な地形を逆手に取った迂回機動を好んで用い、フカンガが敵を軽んじて大損害を出す(羽扇を片手に、孔明気取りで指揮を取っていたというエピソードもある)一方で、しばしばグルカ軍を敗走させている。
 
 乾隆五十七年(1793)死去。
 まさに戦いに明け暮れた一生だった。
 
参考文献・サイト(順不同)
(史料)
『清史稿』巻三百三十一  列傳一百十八 海蘭察

嘉绒之窓-四川西部阿坝藏族羌族民俗文化及旅游信息網

http://www.jrong.com/index.htm

(論文・著作)

荘吉発『清高宗十全武功研究』 中華書局 1987

鄂温克族簡史编写組『鄂温克族簡史』内蒙古人民出版社 1983