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岳鍾琪(がく しょうき Yue4 Zhong1qi2)
康熙二十五年(1686)~乾隆十九年(1754)
字 東美 四川成都の人 
 
 清の武将。宋の岳飛の子孫とも言われる(それで色々ややこしいことにもなった)。康煕、雍正、乾隆の三代に仕え、ジューンガル(準噶爾)、青海、金川(四川省西部)の討伐に活躍。四川、陝西の総督として西部辺境の防衛に任じ、当時旗人ではない漢人官僚で満洲人将兵を指揮下において立派に統率できたのは彼一人であったという。
 
 その出自、出世
 武将の家に生まれ、父は三藩の乱やジューンガル部との戦いで活躍し、康煕三十五年(1696)の康熙帝モンゴル親征にも従軍している。彼も元々文官として出仕するが、のちに志願して武官となっている。
 
 康煕五十七年(1718)、ジューンガル部のツェワン・アラブタン(策妄阿喇布坦)がチベットに進攻すると、清は即座に派兵、撫遠大将軍胤禔(示是 てい ti2)の指揮の下ジューンガル軍と親ジューンガル派をチベットから撃退した。このとき彼は年羹堯らとともに従軍し、先鋒として活躍。六十年(1721)、その功により四川提督(緑営の総指揮官)に任ぜられた。
 
 雍正元年(1723)夏、青海ホシュート(和碩特)部のロブザン・ダンジン(羅卜藏丹津)の反乱が発生すると、胤禔(示是)に代わり青海方面の総指揮を執ることになった年羹堯に請われて彼を補佐した。その年十一月から翌二年春にかけ、年羹堯は青海を文字通り縦横無尽に駆け回り、反乱を平定。
 岳鍾琪は二月八日から二十二日までの十五日間に青海南路方面からロブザン・ダンジンの族衆を粉砕し、ロブザンの母や多数のタイジ(貴族)を捕らえ、「出師十五日, 斬八萬餘級」という大功を立てた。ロブザンはジューンガル部へ亡命。
 以後、青海は清朝の直接支配の下に置かれることとなった。
 
 彼は雍正三年(1725)に甘粛巡撫となり、同年四月に年羹堯が謀反の疑いで兵権を解かれると川陝総督として現地の清軍の指揮権をそのまま受け継いだ。 
 こうして彼は甘粛、陝西、四川三省の軍事、行政を掌握することとなり、その後は、四川のチベット土司の改土帰流※を推進し、その一方でジューンガルの勢力圏に接する陝西、甘粛の守りを着々と固めていった。
 
 三藩や清末の北洋軍を除き、清代の漢人武将でこれほどの大兵力を従えた例は他に見当たらない。
 (年羹尭は漢軍旗人、いわば満洲化した漢人。満洲語もペラペラ)
 
(つづく)

※改土帰流
 明、清朝の西南少数民族の内地化政策。

 中国の歴代王朝は西南地方の諸民族の首長を土司、土官に任じて広汎な自治を認めていたが、明清時代に入ると内地に近い地方の土司・土官を廃して中央から派遣された官吏(流官)に交代させ、州県制によって内地同様に統治する政策を進めていった。これを改土帰流とよび、ことに雍正年間以降より活発に進められるようになった。

 その結果、漢人による政治的・経済的圧迫が助長されて諸民族の反乱を惹起したが、政策自体は民国まで継承されて結局未完成のまま終わった。