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今日、金州博物館を見学。
 
建物は日本時代のもので、かなり年季が入っている。
建物前には地元出身の満洲族の革命家である関向応(1902~1946)の騎馬像がある。
 
一階の入って左側の部屋には金州城の大型ジオラマが展示されている。
これは1910~1920年ごろの金州城の様子を復元したものでかなり精巧に作られている。
壁には当時の古い写真が展示。
 
中には日本の「大学目薬」の看板が写っている写真もあり、館員に教えてあげた。
 
二階は二つの展示室があり、階段を上がって右側が新石器時代から元代まで、左側が明清時代から日本占領時代までの金州の歴史を展示。
 
文物は少なく、絵が多いが、中にはすごいものもある。
戦国時代の貨幣(やっぱり燕のものが多い)、漢代の墓から見つかった副葬品、元の陶磁器。
それに張作霖の知恵袋だった王永江の墓誌もあった。
金州博物館 王永江墓誌全体
王永江墓誌(2006年6月4日撮影)
金州博物館 王永江墓誌左側
左側。(2006年6月4日撮影)

王永江は金州の出身で、内政面のブレーンとして張作霖を支えた人物である。
彼は財政制度の整備、民生の発展、奉天(瀋陽)の都市計画、東北大学(瀋陽)の設立など、多方面で業績を上げた。張作霖が単なる馬賊から天下を争うまでになったのは彼の働きが大きい。
張作霖本人は確かに無学だったかもしれないが、人をつかいこなすのはうまかったようだ。
(王永江については馬賊で見る「満洲」―張作霖のあゆんだ道 』   講談社選書メチエ に詳しい)

あと、今日発見したが、この墓誌の文章を執筆したのが柯劭忞(1850~1933『新元史』の編者)で右側の篆字を書いたのが金梁(1878~1962、奉天故宮(現瀋陽故宮)博物院院長など)というようにこの墓誌が当時の大学者たちによって書かれていることから、奉天軍閥や王永江の影響力の強さを見て取れる。

特に金梁、彼がまた謎めいた人物なんである。

彼は浙江杭州出身の満洲旗人で、清の遺臣として溥儀の復辟運動に関与しながら、一方で奉天軍閥や北洋政府の要職にもついていた。満洲国成立後は親日的態度をとってしばらくは溥儀のもとに仕えるものの、すぐに天津に隠棲。そこで詩文を発表したりしていたらしい。

そしてなんと中華人民共和国成立後も政府文物組顧問や文史館館員になり、1962年に85歳で天寿を全うしている。清、溥儀の小朝廷、北洋政府、奉天軍閥、満洲国、そして共産党政権へ。すごい人もいるものである。

彼についてはいずれまた詳しく取り上げてみたい

あと、近現代史の展示ではロシアや日本への勇敢な抵抗や金州出身の革命家関向応についての展示が目立った。面白いのは関向応が子供の頃使っていた教科書(日本租借時代なので当然日本語)で、ページの上の方に鉛筆で「鬼子」の落書きがされていた

館員の方々はみな親切で、熱烈歓迎してくれた。

入場料3元でこれだけのものが見られるのだからお得である。

見学者が自分しかいないというのはなんとももったいない!

写真は冒頭の外観の写真は2006年4月2日撮影、それ以外は同年6月4日の館内見学時に撮影。写真をクリックすると拡大表示されます。

【追記】
ブログの不具合で写真がうまく表示できなくなっていたので、WordPressのギャラリー機能を使用してもう一度写真を貼り直しました。その他、加筆修正を行いました。
なお、金州博物館は現在は郊外の新館に移転しています。(2014.3.25)