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 失脚-ジューンガル-
 雍正七年(1729)、雍正帝はジューンガル部討伐を決意。三月、岳鍾琪を寧遠大将軍、領侍衛内大臣フルダン(傅爾丹)を靖辺大将軍に任命し、六月、それぞれ西(トゥルファン方面)と北(モンゴル高原)の二路に分かれて進軍を開始。兵力はそれぞれ約二万三千、二万五千であった。
 そしてこのフルダンという人物が彼の運命を大きく左右することになる。
 
 フルダンは清建国の功臣フィオンドン(費英東)の曾孫、満洲八大姓の筆頭グワルギヤ(瓜爾佳)の出身という名門で、領侍衛内大臣、黒龍江将軍など要職を歴任。加えて立派な体格と容姿を持ち、武将としての風格を備えていた。いわば満洲族のサラブレッドであった。
 
 岳鍾琪と彼がいわば同格として競い合わされることになったのは、雍正帝が漢人の岳鍾琪の名声が大きくなりすぎることを危惧したためといわれる。
 
 その後二年間は互いに対峙したまま過ぎたが、雍正九年(1731)六月、捕虜の偽りの情報を信じて敵中に深入りしすぎたフルダンはホトンノールの地で数万の敵の包囲を受け大敗。七月に前線基地のコブド(科布多)に帰り着いたのはわずか二千あまりという惨敗であった。
 このとき、岳鍾琪は別働隊としてウルムチを襲撃していたが、フルダンの敗北のとばっちりを受けた形となり、以後ひたすら雍正帝の不興を買いつづけることとなった。  
 
 翌十年(1732)に康煕帝の娘婿ツェリン(策凌)がエルデニジョーでジューンガル軍を大いに破った時も敗走する敵を効果的にたたくことができず、また賞罰や命令が一貫しない、兵士を愛さないなどの理由でついに将軍を解職されることとなった。
 
 その後さらに遠征に絡む疑獄事件で弾劾を受け、全ての官爵を奪われ、ついには彼と前後して解任されたフルダン共々死刑を論じられることとなってしまった。
 
(雍正帝に仕える人間は本当に大変だ)
 
 そして復活-金川の戦い-
 こうして彼は年羹堯と同じく大抜擢と失脚、死刑という運命をたどりかけたが、帝はそこで一旦判断を保留した。そうこうしているうちに、なんと雍正帝本人が崩御。死刑を免れることとなり、乾隆二年(1737)四月これまたフルダン共々罪を許された(なお『清史稿』傅爾丹伝では乾隆四年となっている) 。
 
 

 
  乾隆十二年(1747)、大金川土司サラベン(莎羅奔)と小金川土司ツェワン(沢旺)との間に戦争が起こった。金川(現在の四川省阿[土貝]蔵族羌族自治州)は、四川省の西北に位置し、チベット高原の東端に当たる地区で、古来チベット族や羌族が多く居住しており、清代には大金川・小金川の二つの峡谷によって区分されていた。
 
 
 清は張広泗を川陝総督に任じ、さらに翌十三年、大学士ネチン(訥親)を派遣して、大金川を制圧させようとするが、険しい地形と各所に散在する石碉(せきちょう 石造の望楼状の砦)の攻略に苦しみ敗北。石碉の内部には水や食料・武器弾薬が蓄えられ、清朝軍が近づくと火砲や弓矢の猛射をあびせて撃退した。
 両名は敗戦の責を負って自殺。
 
  そこで起用されたのがまたまたフルダンと岳鍾琪だった。
 
 フルダンは川陝総督、岳鍾琪はその配下の四川提督として出征。岳鍾琪このときすでに六十三歳だった。
 彼は、フルダンの命でサラベンへの降伏勧告に赴き、見事成功。サラベンが降伏勧告を受け入れる形で和平協定を結び、その結果何とか清朝側の面子を保つ形となった。
 
 なお『嘯亭雑録』卷四 金川之戦の條や『清史稿』岳鍾琪伝などでは彼らはロブザンダンジンの反乱以来の古い友人同士であったので、サラベンも喜んで降伏したとされている。
 
 それらの内容を要約すると、
  

 わずかな供回りでサラベンの根城に着いた岳鍾琪いわく「俺を覚えてるか?」、サラベンが「おお、岳どのではありませんか」

 岳鍾琪がロブザンダンジンの反乱鎮圧に当たっていた頃に、サラベンは清朝側について従軍しており、このとき二人は知り合った。彼は岳鍾琪にいろいろ恩義を感じていた。

 そこでサラベンは喜んで降伏した。

 
  だが、荘吉発氏の研究によるとロブザンダンジンの反乱の際に従軍したサラベンなる人物と大金川のサラベンは別人であり、したがって前述の史料にあるような麗しい友情というものではなかったらしい。実際は金川の攻略に苦しんだ乾隆帝は水面下で撤兵の機会を探っており、岳鍾琪はその意図に基づきサラベンと交渉にあたったようである。サラベンとしても、緒戦で清軍を大いに苦しめはしたものの数では依然絶対不利であるから、ここらが潮時と考えたのだろう。
 
 岳鍾琪は前述のようにロブザンダンジンの反乱鎮圧や川陝総督としてチベット土司の改土帰流を推し進めるなど、青海、四川のチベット族事情に詳しかった。交渉役としては彼以上の適任者はいなかっただろう。
 
 その後サラベンは再び清朝に叛くが、それはまた別の機会に
 
 彼はフルダンとともに凱旋、太子少保の位と三等公(ジューンガルの失敗で一度剥奪されている)を授けられた。
彼はその後も四川のチベット土司の鎮定や反乱鎮圧に従事。乾隆十九年(1754)、重慶の民乱を鎮圧したのち死去。栄光に包まれた最期だった。
 
 終わりに
 岳鍾琪は康煕、雍正、乾隆の三代に仕え、青海、チベット、ジューンガルで活躍。また、四川では改土帰流を推し進めるなど、辺境の安定化に貢献。とくに青海の平定、そして改土帰流は現代にいたるまで中国西部の歴史に大きな影響を与えている。
 
 
 
 ある意味ご先祖様(?!)の岳飛よりも、歴史的には重要かもしれない。
 
 
 
 
参考文献・サイト(順不同)
(史料)
『清史稿』列傳 卷二百九十六 列傳八十三 岳鍾琪
同        卷二百九十七 列傳八十四 傅爾丹

中央研究院 漢籍電子文獻 二十五史 『清史稿』2006.6.21アクセス)

http://www.sinica.edu.tw/ftms-bin/ftmsw3

 
『嘯亭雜録』昭槤 撰  清代史料筆記叢刊 中華書局 1980
 
(論文・著作)
莊吉發『清高宗十全武功研究』中華書局 1987(初版 臺灣故宮叢刊甲種廿六 1982)
石橋崇雄『大清帝国』講談社選書メチエ174 2000 
千葉宗雄『カラ・ブーラン-黒い砂嵐-第二部 天山にはばたく』国書刊行会 1986
宮崎市定『雍正帝-中国の独裁君主-』(『宮崎市定全集』14 岩波書店 1991)
宮脇淳子『最後の遊牧帝国-ジューンガル部の興亡-』講談社選書メチエ41 1995