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 この間、清朝の通訳グルマフン(朝鮮名:鄭命寿)について書いたが、今回はそのグルマフンと日本とのちょっとしたかかわりについて書いてみる。
 
 寛永二十一年(清順治元年 1644)に沿海州に漂着した国田兵右衛門ら日本漂流民は清の当局に保護され、やがて北京へと護送された。彼らは約1年間北京で生活したあと、朝鮮を経由して日本へ帰還。彼らが清と朝鮮で見聞きした内容を記録し、幕府へ提出したものが『韃靼漂流記』である。
 
 さて、北京での生活を終えた国田兵右衛門ら漂流民は、順治二年(1645)十一月、朝鮮への冊封使に同行して出発。冊封使はドルゴンの腹心キチュンゲ(祁充格)、その通訳があのグルマフンだった。漂流民は十二月二十八日に京城(現ソウル)に到着。朝鮮は清と日本への外交上の配慮もあり、待遇にはかなり気を使ったようで、たまたま年末年始に当たったこともあり、豪華な宴会を催して大歓迎したらしい。
 
 漂流民は5,6日京城で過ごした後、順治三年(朝鮮仁祖二十四年 1646)正月四日に出発し釜山に向かうことになっていたが、その前日にグルマフンが例のごとく無理難題を持ちかけた。いわく「朝鮮の役人は漂流民を護送して日本に入り、関白に会って直接(清の)勅諭の意を伝えよ」。
 関白とはいうまでもなく秀吉に由来する言葉だが、ここでは徳川将軍を指している(日本の国王というほどの意味)。
 朝鮮としてはとりあえず釜山まで護送し、その後は対馬藩に引き渡すというのが既定方針だったので、いきなりそんなこといわれても困るというのが正直なところだった。それに第一、朝鮮使節が日本本土に上陸するには事前に対馬藩を通じて幕府に許可を求めなくてはならず、短時日では不可能であった。朝鮮政界の黒幕である彼がその程度の事も知らなかったとは思えないのだが・・・・・・。
 
 朝鮮側は懸命にグルマフンを説得し、結局対馬を経由して文書を将軍に送り、日本からは清へ礼状を差し出させるという条件で双方妥協した。
 
 こういったこともあり、漂流民一行の出発は結局七日に延期となった。
 正月五日、清使キチュンゲはグルマフンに命じ、わざわざ宿舎に漂流民を招いて送別の宴を催し、餞別を与えている。
 北京から長旅を共にしてきた漂流民へのせめてものはなむけであった。
 
 グルマフンは悪評だらけの人物だが、中にはこういう心温まる話もあったのである。
 
 そして、国田兵右衛門は、釜山の倭館(日本人居留地)、対馬を経由して、六月十六日に大坂に上陸、ようやく帰還を果たした。
 
 
 
 
 さて、朝鮮は日本に漂流民を送還してからはや9ヶ月が過ぎたが、日本からは礼状どころか何の音沙汰もない。清に対する立場上、かなり焦ったらしい。しかも、いろんなことで一々口を挟んでくる清(具体的にはグルマフン)がこのことでまたねちねちいじめてこないとも限らない。それで、当時の日本(対馬)との窓口だった釜山に「まだこないのか?何か聞いてないか?」と催促し、十月十六日、ようやく日本の使者がやってくるとの報告を受けて一安心している。
 
 だが、日本側の使者橘成税が対馬藩の家臣に過ぎなかったことで、朝鮮側は非常に落胆している。当時の記録によると朝鮮側は「橘成税は「対馬の尋常の将倭」であり、彼が大君(将軍)の命を奉じているというのも信用できない」と露骨に不満を漏らしている。清朝皇帝の勅諭を奉じて漂流民を優遇して送還した以上、幕府もその点を考えて自ら使者を派遣するべきなのに、よりによって陪臣の対馬藩家臣に使者の役割をゆだねるとは失礼千万ということらしい。
 
 幕府としては、これまでの慣例どおり朝鮮との交渉は全て対馬藩に丸投げということだったようだ。
 
 しかも、幕府が橘成税に持たせた礼状には清を「韃靼国」と記していたため、朝鮮はこの三文字の訂正を要求、訂正を拒絶する橘との間で大いにもめた。
 「韃靼」とは元来明がモンゴルを呼んだ呼称で、当時の日本では長城以北を漠然と指す言葉であり別段他意はなかったのだが、朝鮮にとってはそんなことでは済まされない問題だった。 
 対馬藩の「国書偽造事件」でも知られるように、元来朝鮮はこういった国号や王号の問題には非常に敏感であった。さらに、わずか十年ほど前に「大清」の国号と皇帝号を承認しなかったばかりに大軍に攻め込まれた朝鮮にとって、この「韃靼国」の三文字は清に再び口実を与えかねないものだった。
  
 この問題はしばらく論争が続いたものの、結局朝鮮側も日本側に礼状をつき返したわけでもなく、一応清朝に報告を送ったらしい。
 朝鮮側の清朝への報告では、橘成税との論争の経緯を記したあと、けしからん倭の使者が言うことを聞きませんというような申し開きをしている。申し開きの文言はかなりくどくどしく、清朝に非常に気を使っている様子が窺える(『同文彙考』原編巻七十八倭情「報島倭書契誤称韃靼字咨」)。
 
 しかし、翌年朝鮮にやってきた清朝の使者はそのことについて、「彼の国が清を侮辱する言葉で呼んだというが、別に気にしてはいない。中原の人間だって以前は我々のことを「韃子」(北方民族への侮蔑語)と呼んでいたのだから、倭国の言い方もそこから来ているに違いない。どうして怪しむことがあろう」と、意に介さない態度だったという(『備辺司謄録』仁祖二十五年(1647)三月初六日)。
 
 どうやらこの件については朝鮮側の取り越し苦労だったようだ。 
 
 以上、グルマフンと日本とのちょっとしたかかわりについて書いてみた。
 
 
 
 今回書いてみて、朝鮮は日本と清との間で難しい立場に置かれていたことがわかった。それは現代の東アジア情勢にも通じるものがあり、調べていて非常に興味深かった。
 
 
参考文献(順不同)

楊海英「清初朝鮮通事考-以古爾馬渾為中心-」
 『清史論叢』2001年号 中国社会科学院歴史研究所明清史研究室編 2001)

陳波「清朝與日本之間的情報捜集-以清朝入関前後為中心-」
 (『江海学刊』2014年第4期)
(史料)
園田一亀『韃靼漂流記』平凡社東洋文庫 1991
(原著:園田一亀『韃靼漂流記の研究』南満洲鉄道株式会社鉄道総局庶務課 1939) 
『同文彙考』大韓民国文教部国史編纂委員会、1978
『備辺司謄録』大韓民国文教部国史編纂委員会、1959~1960
(WEB)

安延山 承福禅寺

http://www.jyofukuji.com/11-tyosen/03-02.htm (2015.1.25閲覧)

杉洋子の朝鮮通信使紀行  : YOMIURI ONLINE(読売新聞) 

http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/chosen/002/ch_002_010628.htm(2006.7.23閲覧、現在リンク切れ)

 

追記:陳波氏の論文並びに『同文彙考』及び『備辺司謄録』をもとに、後半部分を大幅に書き直しました。

(2015.1.25)