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  革新力としての八旗 
 
 とりあえず、自分の八旗制度についてのとらえ方をいろいろ書いてみた。
 まだうまくまとまっていないが、とりあえず文章にしてみて、悪いところはあとで直すことにした。
 この怪しい文章に飽き足らない方は、ここを飛ばして文末の参考文献にあたっていただきたい。
 
 本文では、八旗の持つ①多民族共同体、②皇帝と各民族の仲立ちとしての特質、③各民族の果たした役割を論じ、そこから清朝の自己革新力の源としての八旗について述べてみた。 
 
 1.多民族共同体としての八旗
 
 八旗はその成立時からすでに多民族性を帯びていた。
 『八旗通志』初集旗分志には、雍正年間に北京に駐屯したニル(佐領)の沿革が記されているが、そのうち満洲ニルは678個、さらに満洲ニルのうち「国初編立」または「国初編設」と記されたヌルハチ・ホンタイジ時代(ほとんどがヌルハチ時代)に編成されたニル239個を出身地域別に分類するとヌルハチのマンジュ五部(建州女真)出身のニルは84個と約3分の1に過ぎない(松浦茂『清の太祖ヌルハチ』PP166~171)。残りはヌルハチに征服された各部族によって編成されたニルで、その長(ニルエジェン)にはニルの母体となった各部族出身の有力者が起用され、代々世襲された。
 一番最初に編成された八旗満洲ですら、色々な部族の連合体という性格が強かったのである。
  
 後、モンゴル人によって編成された八旗蒙古、漢人によって編成された八旗漢軍が成立。
 さらには、ロシア人、朝鮮人、東トルキスタン諸民族(「回子」)、チベット人(「番子」)によるニルも編成されたし、東北や新疆各地の駐防八旗にはシベ・ソロン(エヴェンキ)・ホジェンら北方諸民族、いわゆる「新満洲」のニルも置かれていた。
  
 こうして見ると、八旗とはただ単に満洲族の社会制度・軍事制度という枠にはとどまらない多民族共同体であり、清朝支配下の諸民族を満洲族のハンの下に集約したものといえよう。
 
 
  2.ハン=皇帝と各民族の仲立ちとしての八旗
 
 清朝(後金)初期はいわば八旗各旗で構成される連合王国であった。八旗は相互に独立しており、ハン(皇帝)といえども正黄、鑲黄の二旗の支配者(旗王)にすぎない。
 中国的官制が整備された後も八旗制度のこの性格は依然残存しており、旗人官僚は皇帝-臣下という表向きの主従関係に属するのと同時に、伝統的なハン・旗王-旗人というもう一つの主従関係にも属していた。
 すなわち、清朝では中国的官僚制と北アジア的な部族連合制が共存していたのである。
 
 この二つの主従関係はしばしば利権あさりや各旗の勢力争いのもとになったが、一方では清朝支配体制の根幹ともなった。
 
 その例として、まずは侍衛について取り上げる。
 ハン=皇帝と旗王は上三旗(鑲黄・正黄・正白旗)の満洲・蒙古旗人、さらには武進士、功臣(漢人も多かった)や藩部の王侯の子弟を侍衛に登用している。侍衛は皇帝・旗王の身辺警護に当たると共に、使者として詔勅の伝達、戦場での偵察・索敵、地方の査察、そのほか側近として重要な職務にあたった。
  
 同時に侍衛制度は人材のプールとしての役割もあり、侍衛として一定期間職務に当たったあとは、中央と地方を往復しながら、宰相や尚書、総督や巡撫といった重臣へと出世していった。
 彼らは普段から皇帝と生活を共にし、高禄を与えられ、さらには清朝皇帝の家祭である坤寧宮での祭祀でも神にささげた肉を分与されるなどして、いわば皇帝の擬制的家族となった。
 このように侍衛はハン=皇帝の手足として、支配体制貫徹のため働いた。清朝は侍衛への登用により、満洲人、モンゴル人、漢人をすべて支配者たる愛新覚羅一家に取り込もうとしたのだろう。
 
(この辺はモンゴルのケシクと似ている)
 
 3.各民族の果たした役割
 
 次に、満洲・モンゴル・漢軍ら八旗制度下の各民族がそれぞれ果たした特色ある役割について考えてみる。
 先述のように、満洲旗人はヌルハチの建州女真以外の他部族が多数派であったが、彼らは侍衛その他への登用により、次第に愛新覚羅家と満洲各部族(氏族)をつなぐパイプとなっていった。
 そして、戦時においては満洲の国粋である武芸により、国家に貢献した。
 
 蒙古旗人は、その軍事力による貢献もさることながら、侍衛または理藩院の官員としてモンゴル、新疆、チベットに派遣され、清朝支配層と内陸アジア草原世界の仲立ちとして活躍した。
 
 漢軍旗人は、火砲の威力により中国内地、台湾平定に大きく貢献した。また中国内地(漢地)の統治への貢献度は特に大きかった。当たり前のことだが、彼らは漢地の言語や慣習に詳しく、清朝支配層(満洲族、愛新覚羅家)と漢人の仲立ちとして特に清初には八面六臂の大活躍を演じている。
 
 その他、朝鮮から投降、捕虜となった「高麗佐領」の朝鮮人たちはしばしば戦功を立て、それ以外にもこのブログで取り上げたグルマフンのように通訳、外交官として活躍したり、乾隆年間の金簡のように一族から貴妃を輩出し吏部尚書や四庫全書副総裁などの要職を歴任した者さえいる。
 
 ロシア人(俄羅斯)も侍衛に登用されたり、通訳として対露交渉に貢献している。
 
 清朝軍を石碉(望楼状の砦)で苦戦させた金川チベット人(番子)も攻城戦専門部隊である健鋭営に付属する形で編入。これは砦の攻め方の研究のためだったのだろう。
 
 これら八旗の各民族を眺めて気がつくことは、旗人としての通常の兵役・徭役以外にも

①満洲族・愛新覚羅一族と各民族の仲立ち

  これは旗人としての身分、すなわちハン=皇帝、旗王の直臣としての身分と自民族としての特質を生かしたものである。

②各民族の特色(特技)を生かした貢献

 満洲人の軍事力、モンゴル人の軍事力と内陸アジア草原世界への影響力、漢人の政治、経済、技術能力、ロシア人、 朝鮮人の語学能力、チベット人の砦づくりなどなど。

 を行っていることである。
 
 つまり、侍衛以外の旗人も満洲族のハン=皇帝と各民族を結びつける仲立ち、パイプ役となり、またその特色に応じて清朝に貢献したのである。
 
 
 4.自己革新力としての八旗
 
 清朝はこういった八旗制度の特質によって、各民族をハン=皇帝(愛新覚羅家)に取り込み、これによって同時にいろいろな民族の持つ特色をスムーズに自らのものとしていった。
 
 これを清朝のハン=皇帝から見れば、いろいろな民族を側近、直臣たる八旗に取り込むことにより、絶えず状況への適応を図っていったといえる。
 そういった意味では、八旗とは清朝の自己革新力そのものであったといえる。 
 
 石橋崇雄氏は清朝が東北の小さな一小国から現代の中国・モンゴル・中央アジアにまで至る大帝国へと発展できた理由は、清朝の多民族構造と清朝の自己革新力にあったとするが、自分はまさに八旗制のこのような特質こそが清朝の自己革新力の源だったと思っている。
 
 乾隆末年以後、八旗への新たな編入が止まり、八旗制自体も次第に動脈硬化を起こしていく。 
 それと軌を一にするように清朝も次第に保守性を強め、夜郎自大へと陥っていく。八旗の革新力が失われた以上、清朝が保守へと傾斜していくのは歴史の必然であったろう。
 
 八旗とはまさに清朝の根幹であった。
 
 
 
 参考文献・サイト(順不同)
 参考文献
 松浦茂『清の太祖 ヌルハチ』(中国歴史人物選11、白帝社、1995年)
 石橋崇雄『大清帝国』(講談社選書メチエ174、2000年) 
 村上信明「清朝前期における理藩院の人員構成」(『満族史研究』第4号、満族史研究会、2005年)
 佐伯富「清代の侍衛について――君主独裁権研究の一齣」(『東洋史研究』第27巻第2号、1968年)
 柳沢明「内閣俄羅斯文館の成立について」(早稲田大学大学院『文学研究科紀要』別冊第16集、哲学・史学編、1989年)
 徐凱「満洲八旗中高麗士大夫家族」(『明清論叢』第一輯、朱誠如・王天有主編、紫禁城出版社、1999年)
 陳文石「清代的侍衛」(『食貨月刊』復刊第7巻第6期、1977年)
 常江「清代的侍衛制度」(『社会科学輯刊』1988年第3期)  
 
 サイト
 杉山清彦「大清帝国形成史序説」(要旨)(『大阪大学大学院文学研究科紀要』41, 2001.3, pp.84-85)
 (杉山清彦のサイド3  研究業績http://www2.odn.ne.jp/~siegzion/siegzion-summary.html 
  2006.8.27アクセス)
 
 後記
 以上、八旗制度に関する自分の考えをまとまりのないままに書き連ねた。
 われながらインチキというか、妄想というか、よくこんなことを書いたものだと思う。
  
 
 こんなことで半日つぶすとはねえ(苦笑)