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「噶爾丹統治時期準噶爾與清朝的貿易往来」黒龍 
(『衛拉特研究』(烏魯木斉)2006年第2期 P11~P17 転載『複印報刊資料』明清史 2006.7 中国人民大学書報資料中心)
 
 ガルダン(噶爾丹)と清朝は大規模な戦争を行う一方で、長期間にわたって貿易も行っていた。だが、戦争の研究が活況を呈する一方で、両国間の貿易関係に関する研究はあまり進んでいない。それは直接的には史料の欠乏、さらには史料自体も多様な言語で書かれているためにその価値を生かしきれていないことにもよる。
 
  
 本文は全三章に別れ、第一章では『西域図志』や佐口透氏らの先行研究に基づき、ジューンガルと内地の貿易関係を概観。絹織物、茶、大黄(胃腸薬)といった中国内地の産品がジューンガル(準噶爾)にとってきわめて重要であったこと、一方清朝も三藩の乱などにより大量の軍馬を必要としたため、両国間に相互依存の関係が生まれていたことを指摘する。
 
 第二章では、こういった背景の下、ガルダンと康熙帝双方が貿易関係の拡大に大きな努力を払い、北京、西寧などでの貿易が明代のエセン以来の大きな活況を呈していた状況を明らかにしている。著者は内閣のモンゴル語档案(ガルダンへの書簡)を例に挙げ、当時ガルダンと康熙帝の間にまれに見る深い信頼関係が生まれていたことを明らかにする。
  だが、三藩の乱平定後は清側も北京に入る隊商の人数を制限するなど、ガルダンへの態度をしだいに変えていき、両国間の戦争により貿易関係は断絶した。
 第三章で著者はさらに一歩進んで、ガルダンと清の貿易関係を「朝貢貿易」と捉える見方に異議を唱え、両国間の貿易関係は臣属関係を前提としない「互市貿易」であったとしている。
 
 著者はまず朝貢貿易は明に多大な経済的負担をもたらしながら、貿易によりモンゴルをコントロールするという所期の目的も達成できなかったため、明末以降は朝貢と貿易がしだいに分離していったことを指摘。
 次いで、ジューンガル部歴代統治者と清朝との間でやりとりされたモンゴル語書簡の言葉遣いを例に、当時ジューンガル部と清朝は臣属(藩属)関係にはなく、ガルダンと清の貿易関係も朝貢と貿易を分離し、経済要素を主とした「互市貿易」だったとする。 
 
 そして、清朝の「大一統思想」と正統観念により、清朝皇帝の書簡が「詔勅」、貿易が「朝貢」と記録され、本来対等の貿易が「朝貢貿易」として記録されることになったとしている。
 
 さらに現在、清代のモンゴル語の書簡の中の一般的な敬語が「上書」、「上奏」の文体に漢訳されているため、研究者の誤解をも招いていることも指摘している。
 
 
 このテーマに関しては佐口透氏の研究が著名であるが、本論文は最近続々と整理・刊行されている清代のモンゴル語档案を利用している点で注目に値する。 モンゴル語史料では康熙帝とガルダンが割合対等に渡り合っていることが伺えるのが面白かった。
 なお、ネルチンスク条約の条約文も満洲語・ロシア語・ラテン語と漢文では言葉遣いがまったく異なっている。前三者の史料では清とロシアが対等に条約を取り決めたとしているが、漢文では中華の皇帝がロシアに詔勅を下す文体に書き換えられている。
 
 今回この論文を読んで、オイラトと清の間にもこのような現象があったと知って、非常に興味深く感じた。 
追記:内容を一部修正しました。
(2015.1.29)