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1945年8月9日午前零時、ソ連は日本に宣戦を布告。ただちに大規模な進攻を開始した。

 

ソ連軍の圧倒的な戦力に抗し切れない関東軍は翌10日、通化への「遷都」を決定。13日0時30分、溥儀や皇族、関東軍将官、満洲国高官を乗せた特別列車が新京(長春)を出発し、その日の夕刻に通化に到着。さらにそこから10時間ほど奥地に入った大栗子溝に向かい、14日に到着。

そこで玉音放送を聴き、日本の降伏を知った彼らは日本への亡命を図る。

 

そして17日深夜「退位詔書」を読み上げ、満洲国の解消を宣言した後、19日に小型機で平壌に向かい、大型機に乗り換えて日本へ飛ぶ手はずを整えた。
だが、その直前に平壌行きがなぜか奉天(瀋陽)行きに変更された。

溥儀への説明では、平壌での出迎えが不可能になったということだった。

 

19日午前9時、溥儀一行は通化から小型機3機に分乗して奉天に向かい、溥儀の乗る一号機は11時に奉天東飛行場(東塔機場)に到着。この時点で飛行場はまだ日本軍が掌握していた。だが、一行が昼食を取り、後続機を待っているときにソ連軍空挺部隊が飛行場に強行着陸し、一行を拘束、直ちにソ連へ護送した。

これは非常に有名な出来事であるが、中国や日本の一部では、このときすでに関東軍とソ連軍の間に溥儀を引き渡す密約が出来ていたのではないかとする説が根強くささやかれており、その概要は遼寧電視台製作のドキュメンタリー『愛新覚羅溥儀』や入江曜子『溥儀-清朝最後の皇帝-』等で紹介されている。

密約説の主な根拠は以下のとおり
1.本来通化から平壌に向かう予定だったのが、突然遠回りの奉天行きに変更になったこと。だが、21日には日の丸を塗り消した大型機が約束どおり溥儀を迎えに平壌に到着している。
2.当時、制空権はすでにソ連側に握られていたにもかかわらず、非武装の輸送機が護衛機もなしに奉天にたどり着いていること。
3.溥儀の搭乗する一号機が到着した直後にタイミングよくソ連軍がやってきたこと。
4.日本政府と外務省は内心では溥儀の亡命を望んではいなかったこと。
ドキュメンタリー『愛新覺羅溥儀』に出演した中国の研究者は、この時期(19日以前)に関東軍とソ連軍との間の接触が行われた証拠はないとして、この説には否定的だった。

また入江女史も、あるいは日本政府や現地の軍の一部が亡命計画に反発して仕組んだわなだったかもしれないとはしながらも、ソ連軍指揮官が初めは溥儀の身分を知らなかったことを取り上げ、断定は避けている。

 

非常に興味深い説ではあるが、当事者のほとんどすべてが世を去った今では真相を確かめるすべはない。
ロシアか日本で何か新史料が発見されれば別だが・・・・・・。
 

 

【追記】
小林克次様、キャスコ様からコメントにてご教示いただきました永妻寿『陸軍「少年空輸兵」物語』(光人社、1994)に興味深い情報がありました。当時、溥儀一行が乗り換える予定の三菱MC20型旅客機が奉天の北陵飛行場に駐機してありましたが、当時、陸軍パイロットだった永妻寿氏が迫り来るソ連軍からの避難のため、8月18日(溥儀一行の奉天到着前日)に便乗者、荷物とともにMC20機を「乗り逃げ」したという内容です(同書 p.179~p.183)

これまでは、満洲国や溥儀周囲の記録にばかり注目してきまして、こうした史料を見落としておりました。
今後は、当時を知る方々の記録、回想録にも注目していきたいと思います。

参考文献
永妻寿『陸軍「少年空輸兵」物語――航空輸送飛行隊最年少パイロットの回想』光人社、1994年11月