入江曜子『溥儀――清朝最後の皇帝』

入江曜子『溥儀――清朝最後の皇帝』岩波新書(新赤版)1027、2006年7月20日


昨日読了。
 
 溥儀の自伝『わが半生』の共同執筆者(ゴーストライター)李文達が利用できなかった日本側の史料と、溥儀の周りの親族・関係者の証言を元につづった溥儀の生涯。これまであまり知られていなかった興味深いエピソードをふんだんに紹介している。 
 ただ、本書は『わが半生』やこれまでの学説を新史料・新証言で補うという姿勢で書かれているので、溥儀や満洲国に関する予備知識がなければわかりづらい点が多い。
 したがって、溥儀の生涯についてあまり詳しくない方は、まず『わが半生』や中国近現代史に関する概説書を先に読んでからにしたほうがいいだろう。
 
 以下、興味を持ったエピソードを箇条書き。
 
 『わが半生』では、小朝廷~満洲国時代の「皇后」、「妃」との関係が非常にそっけなく描かれているが、これは李淑賢(生涯最後の妻)との再婚を控えていたためでもあった。
 
 紫禁城を追い出された溥儀は、日本公使館を経て天津に行き、日本への亡命を図る。溥儀は日本郵船の一等船室を予約したが、当時の天津総領事吉田茂(後の首相)が郵船に圧力をかけて渡航を阻止した。
 
 譚玉齢の死は日本の毒殺によるものではなく、内廷(後宮)の漢方医の誤診が原因。日本の医師が駆けつけたときにはすでに手遅れの状態であった。また溥儀自身も後に李文達に話しているが、彼女は抗日思想の持ち主ではなく、したがって日本側もわざわざ彼女を毒殺する理由はない。
 
 溥儀は日本皇室との通婚を望むなど、極力天皇への忠誠を演じた。これは、自分を日本皇室と同等の位置に置くことにより、満洲国の日本官吏や関東軍に対し少しでも優位に立ちたいという計算だった。
 
 
 満洲国崩壊後、溥儀と皇族、満洲国の高官は日本への亡命を図るが、奉天(瀋陽)でソ連軍に拘束される。
 このとき、関東軍とソ連軍との間に溥儀を引き渡す密約があったという説がある(詳しくは別項で)。
 
 ソ連に抑留されたときは、逆に共産主義思想の勉強会を開いたり、贈り物を贈ったりしてソ連に擦り寄った。
 
 溥儀は『わが半生』で、自分を暗君として描いているが、これは責任回避のための計算
 
 『わが半生』の編集作業。李文達は溥儀の原稿をかなり手直しし、史料も出版者のスタッフが八方手を尽くして集める。
まさに「国家的事業」だった。
 
 溥儀と日本人との会見。対外的には中国の広告塔として老練な発言を見せる。
 
 晩年は文革のあおりを受け、十分な医療を受けられなかった。なぜなら医師も看護婦も「皇帝」とはかかわり合いになりたくないので、治療に消極的だったから。

 

 このほかにも興味深いエピソードがてんこ盛りなので、溥儀に興味のある方は読んで損はしないと思う。