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 女真族、すなわち後の満洲族にはつねに狩猟民族という冠が付く。
 確かに女真人の生活において狩猟は重要な地位を占めていたが、必ずしもそればかりでは括れない。
  
 まず、明代、現代の中国東北部(満洲、マンチュリア)東南部に居住していた建州女真(マンジュ五部)と海西女真(フルン四部)は主に撫順で貿易を行っていたが、女真側からの輸出品目は馬(どうもモンゴルから手に入れた馬を転売していたらしい)、貂皮、人参などであったのに対し、明側からは牛、農具(すき、くわ)、衣類が大量に輸出されている。また、朝鮮との貿易でも同様な事実がみられるという(河内良弘『明代女真史の研究』)。
 なお、東北地区で発見された金代女真人の遺跡からも大量の鉄製農具が出土している。
 
 次に、明代の建州女真人はモンゴル人のような遊牧民とは異なり定住生活を営んではいたが、しばしば部族単位での大移動を行っている。だが、その移動時期は戦争や災害による緊急避難的なものを除いて、すべて三,四月ごろに集中しており、偶然の一致というには無理がある。
 その理由は、農業開始の時期を考えればこの時期しか選択の余地がなかったためらしい。
 
 中国東北部では旧暦四月(新暦五月)中旬ごろから秋八、九月(新暦十月)ごろまでが農業シーズンとなる。その後、秋の収穫が終わると、東北はすぐに厳冬期へと突入し、移動や野営にはまったく不向きとなる(実体験から言えば冬の東北での野宿は死に直結しかねない)。年が明けて旧暦二、三月ごろに雪解けが始まり、やっと移動が可能になる。
 すなわち、農業への影響を及ぼさずに移動を行うには三月から四月を選ぶしかないのである。
 
 明代女真人、特に建州女真の生活には農業が非常に大きな比重を占めており、移動生活においても農業を無視することは不可能だったのである(河内良弘「建州女直の移動問題」)。
 
 第三に明代に建州女真を訪れた李氏朝鮮の使節は異口同音にいたるところで農業が行われていることを報告している。
 たとえば朝鮮の使節申忠一は1595年に建州女真のヌルハチを訪問しているが、街道沿いの平地はほとんどが耕地となり、道中のいたるところで山の頂まで土地が耕作されていることを報告している。
 
 
 以上、東北地方の女真の間では農業生産が非常に盛んであって、生産全体にしめる農業の比重は非常に高かった。女真族は狩猟民族あるいは半農半猟と呼ばれるが、実際のところは農業が生産手段の主体を占めていたようである。
 のちに後金(清朝)成立後、女真族(満洲族)は遼東、さらには中原へと進出していくが、その際にモンゴル的な制度、慣習を守り続けた元とはことなり、清が漢族の文化を比較的スムーズに吸収できた理由として、彼らの農業経験からくる農業社会への理解を挙げる者も多い。
 
 参考文献
 河内良弘「建州女直の移動問題」(『東洋史研究』第十九巻第二号 1960)
 同    『明代女真史の研究』(同朋舎 1992)
 松浦茂 『清の太祖ヌルハチ』(白帝社 中国歴史人物選 第11巻 1995)
 
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重要なお知らせ
 
本日、こちらのページに全く同じ内容の文章を発見。非常に驚きました。こちらのページ更新履歴によると発表されたのは2007年12月のようです。
念のために書いておきますが、私がこの文章をブログに載せたのは2007年の2月です。決して盗作ではありませんのであしからず。
 
まあこの雑文が誰かの役に立ったのなら良しとしましょう。
(2008.6.3)