LINEで送る
Pocket


大きな地図で見る
Google Mapsによる瀋陽故宮衛星写真

瀋陽故宮宮殿建築配置図

瀋陽故宮宮殿建築配置図

主な宮殿建築の配置(Google衛星写真を元に作成、2008年4月)

 

 瀋陽故宮(しんようこきゅう Shenyang gugong)は、中国遼寧省瀋陽市に位置する清代の宮殿。清朝の創始者ヌルハチ(努爾哈赤)と二代皇帝ホン=タイジ(皇太極)が住んだ宮殿で、北京の故宮(紫禁城)と並び、中国で最も保存状態のよい宮殿建築である。建築様式は満洲、モンゴル、漢三民族の様式が融合している。

 瀋陽故宮は、清(後金)天命十年(1625)に造営が開始され、崇德元年(1636)に基本的に完成、清代には『盛京宮闕』と呼ばれた。第三代順治帝が北京に都を移した後は陪都(副都)の離宮として整備が行われ、乾隆年間の大規模な増改築を経て、現在に至っている。清滅亡後の1929年「東三省博物館」として一般開放。戦後は瀋陽故宮博物院として一般公開されている。

 2004年7月、ユネスコの世界遺産(北京、瀋陽の明清皇宮)に登録された。

 

 敷地面積は約6万平方メートルで、北京の故宮の約16分の1、合計で114座の建築を持ち、建築の配置、様式および造営年代から主に東路、中路、西路の3地区に分けられる。

 東路は大政殿、十王亭からなる地区で、おおむねヌルハチ時代に造営され、建築様式は清代初期の八旗制度を色濃く反映している。大政殿は移動式テント(ゲル)を模した様式でハンが鎮座し、十王亭は八旗の左翼王と右翼王、そして八旗各旗の王たちが事務を行う場所である。建物の配置を見ると、大政殿を頂点に十王亭がハの字形に配置され、北方騎馬民族の幕営、戦陣を思わせる。

 中路は大清門(故宮の正門)、崇政殿、鳳凰楼、清寧宮という瀋陽故宮の中軸線を中心とした区画である。

 この区画は主にホン=タイジ時代に造営されたものであり、その後、乾隆十一年~十三年(1746~48)年の大規模な増改築により、内廷(鳳凰楼、清寧宮)の東西に位置する建築群である東所、西所と崇政殿北の師善斎、日華楼、協中斎、霞綺楼、崇政殿南の東七間楼、西七間楼、飛龍閣、翔鳳閣などが新たに建てられ、さらに大清門、崇政殿、鳳凰楼など既存の建築にも改修が加えられ、現在に至っている。 

 中路の建築の様式、配置を見ると、満洲族と漢族の様式が混在した、いわば「満漢折衷」というべきものになっている。

 まず、建築様式を見ると、外見としては硬山式の屋根など中国北方地区(東北、山西)の様式が反映されているが、清寧宮を初めとする後宮の建築物は、内部に「万字炕」と呼ばれるコの字型のオンドルを設け、特に清寧宮では西側が上座とされるなど、満洲族の住居様式を色濃く反映している。また、大清門、崇政殿、清寧宮の正面軒下の四角柱や斗拱にはチベット仏教寺院の影響も見られる。そして、清寧宮前に立てられたシャーマニズム祭祀用の柱「神杆(索倫杆)」も注目に値する。

 次に、建築配置の面では、漢族の宮殿建築の「前朝後寝」という原則にのっとり、政治を行う外朝の崇政殿が南側、生活場所である内廷(後宮)が北側に配置されているが、瀋陽故宮独特の特色としては、鳳凰楼と清寧宮を主体とする内廷が防御や警護のため約3.8メートルの高台に築かれ、外朝の正殿たる崇政殿や東路の大政殿よりも高い位置にあるという点が挙げられる。

 これは明代女真族(後の満洲族)の山城の様式を踏襲したものとされ、紫禁城の太和殿のように、「天子」すなわち天の代理者たる皇帝が政治を行う外朝の正殿を宮殿の最も高い位置に持ってくる漢族の宮殿建築とは大きく異なっている。

 なお、大清門東横の太廟は、乾隆四十六年(1781)に撫近門(大東門)外から移築されたもので、中路の建築群からは独立している。

 ここには元々明代から続く「三官廟」と呼ばれる道観があり、ヌルハチやホン=タイジによる宮殿造営後も撤去されることなく大清門横に立っており、歴代皇帝による尊崇を受けていた。康熙八年(1669)頃に描かれた盛京(瀋陽)の地図『盛京城闕圖』でも大清門の横に廟が描かれている。

 その後、乾隆四十六年の太廟の移築に伴い、元の三官廟は徳盛門(大南門)内に移転している。
『盛京城闕圖』では中央やや左に崇政殿、鳳凰楼が見える。中路の建築は現在よりかなり少なく、西路はまだ造営されていない。

盛京城闕圖

盛京城闕圖

『盛京城闕圖』(康熙八年(1669)頃 中国第一歴史档案館蔵)
(三宅理一『ヌルハチの都――満洲遺産のなりたちと変遷』冒頭口絵写真より)
(クリックで拡大)

 

 西路は乾隆四十八年(1783)の乾隆帝の第四次東巡にあわせ、乾隆四十六年~四十八年(1781~83)の三年間にわたって新たに造営された区画で、皇帝、皇族の盛京滞在時の娯楽と休息のための場所である。おもな建築は、馬やかごを停めておく轎馬場、乾隆帝が東巡の際に観劇を楽しんだ戯台、四庫全書を収蔵した文溯閣、皇帝の休息の間である仰熙斎で、寧波の天一閣を模した文溯閣に代表されるように漢族の建築様式が色濃く反映されている。

 なお、冒頭のGoogle Mapsの衛星写真から分かる通り、東路と中路・西路は建物の軸線の角度が異なっている。東路の軸線が子午線方向、すなわち地理上の真北・真南を貫くものとなっているのに対し、中路・西路の軸線はそれぞれ少し西側(反時計回り)へと傾いている。

 これについて、瀋陽故宮建築の著名な研究者である陳伯超氏は、瀋陽故宮の東路と中路・西路の南北軸線の角度のずれは地磁気の偏角によるものと推測している。

 地理上の北(真北)と方位磁針が指し示す地磁気の北(磁北)は微妙にずれており、この真北と磁北のなす角度を偏角という。偏角は時間と場所により異なる。 

 陳氏は、ヌルハチ時代に造営された東路が明代瀋陽城を踏襲して子午線方向、すなわち地理上の真北・真南の軸線を採用したのに対し、ホン=タイジ時代以降に造営された中路・西路では、漢族の風水思想を取り入れ、羅盤(方位磁針が組み込まれた風水師用の道具)の指し示す磁北・磁南の軸線を採用したことにより、偏角による軸線角度のずれが生じたのではないかとしている(陳伯超「瀋陽故宮建築群的軸線」)。

 ホン=タイジ即位以降に漢人官僚・技術者が重用されていること、並びに東西南北の四門と城内の東西・南北を貫く十字路というシンプルな構成の地方都市だった瀋陽城が、『周礼』考工記に見える井桁型パターンの中国的都城へと大改造されている事実を考えあわせれば、陳氏の推測は当を得たものと考えられる(ホン=タイジ期の瀋陽の都城への改造については、三宅理一『ヌルハチの都――満洲遺産のなりたちと変遷』第5章に詳しい)。

・・・・・・・・・

参考文献・サイト(順不同)

 

陳伯超「瀋陽故宮建築群的軸線」『瀋陽故宮博物院院刊』11輯、2011年、pp290-302
佟悦編著『瀋陽故宮』清文化叢書、一宮三陵系列、瀋陽出版社、2004年
羅麗欣:文・佟福貴:図『瀋陽故宮』遼寧世界遺産画廊、瀋陽出版社、2005

細谷良夫編『中国東北部における清朝の史跡――1986~1990
――』平成2年度科学研究費補助金・総合研究B「中央ユーラシア諸民族の歴史・文化に関する国際共同研究の企画・立案」成果報告書No.3、1991年
松浦茂『清の太祖 ヌルハチ』中国歴史人物選11 白帝社、1995年

三宅理一『ヌルハチの都――満洲遺産のなりたちと変遷』ランダムハウス講談社、2009年
国土地理院 地磁気測量 地磁気を知る(2013年2月11日閲覧)

http://vldb.gsi.go.jp/sokuchi/geomag/menu_01/index.html