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 火器営は、康煕三十年(1691)に京旗の満洲、蒙古旗人によって編成された皇帝直属の火器専門部隊である。兵力は、時期によって異なるが約6000名~7000名であり、その任務は鳥鎗(火縄銃)を装備する騎兵と子母砲の統合運用であった。いわば諸兵科連合部隊のはしりともいえる。

鳥鎗(火縄銃)(『皇朝禮器圖式』巻十六 武備)

鳥鎗(火縄銃)(『皇朝禮器圖式』巻十六 武備)

なお清代の史料で火器営はしばしば「満洲火器営」の名で記されている。これは漢軍や緑営といった既存の火器軍との区別のためと思われる。火器営が編成された直接のきっかけは前年のガルダンとのウラーンブトンの戦い(1690)であった。この戦いでの清朝側の戦訓認識は以下の三点に集約される。

① 清軍が火器による大損害を受けた。

② 火器と騎兵の連携が必要。これまでのような騎兵突撃一辺倒では射撃の的になるだけ。

③ 大型火砲は即応性に欠ける。輸送、補給の困難。

 

 そして、この戦訓に基づいて編成されたのが火器営であった。

 火器営と既存の火器軍である漢軍・緑営との最も大きな相違点は、機動力を重視した装備と戦術であった。漢軍は紅夷砲系の大型火砲を運用し、固定的な陣地戦や城攻めを得意としたのに対し、火器営は鳥鎗や子母砲といった軽量火砲を装備し、騎兵と火器の連携による機動戦を得意とした。

 子母砲は明代に伝来した佛郎機(フランキ)砲を改良したもので、カートリッジ式の弾薬を用い、発射速度が速く、軽量で持ち運びも便利であったから、この種の任務にはうってつけだった。

子母砲(『皇朝禮器圖式』巻十六 武備)

子母砲(『皇朝禮器圖式』巻十六 武備)

子母砲後部

子母砲後部(北京 軍事博物館 2006年5月撮影)


以後、清朝の相次ぐ外征のなかで火器営はその機動力と火力を生かして活躍。特に、前述のモンゴル親征や乾隆年間の金川の戦いでは大きな手柄を立てている。

 現在、北京北西郊外に「藍靛廠火器営」なる地名が存在するが、そこは清代の火器営(外火器営)の駐屯地であり、今なお多くの満洲族が集住している。

火器営護軍参領纛

火器営驍騎参領纛

火器営驍騎校旗

火器営の旗
護軍参領纛、驍騎参領纛、驍騎校旗(『皇朝禮器圖式』巻十七 武備)
炎をかたどった縁取りが特徴的
参考文献
『親征平定朔漠方略』西蔵社会科学院西蔵学漢文文献編輯室影印、西蔵学漢文文献彙刻第四輯、中国蔵学出版社、1994年
『八旗通志(初集)』東北師範大学出版社、1985年
乾隆『大清會典』四庫全書本 『欽定四庫全書』上海古籍出版社、1987年
『皇朝禮器圖式』
四庫全書本 『欽定四庫全書』上海古籍出版社、1987年

追記:写真を貼り直し、本文及び参考文献欄を修正しました。
(2015.2.6)