大正天皇実録

ambula tob i abkai ejen i yargiyan kooli

満洲語に訳してみた(単なるしゃれです)。

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晩年期の「大正天皇実録」公開 – MSN産経ニュース

2008.6.4 11:30

 宮内庁は4日、大正天皇の動静や当時の出来事などを年ごとに記録した「大正天皇実録」全85冊のうち、晩年に当たる大正10年7月から葬儀が行われた昭和2年2月までの5年半分、計9冊を公開した。

 当時すでに病状が悪化していた大正天皇は、葉山や日光など御用邸で静養することが多く、代わりに皇太子(のちの昭和天皇)の活動に関する記述が激増。欧州外遊から帰国後の10年11月に摂政に就任した正当性を、古代の例を引きながら約8ページにわたって詳述している。

 実録は昭和12年に完成。平成14年に8冊、15年に21冊が公開された。大正元年の即位から15年の死去までの記録公表が今回で完結し、未公開分は誕生から即位までの47冊となった。

 天皇実録 歴代天皇の事跡を主に年次順にまとめた記録。古くは「日本文徳天皇実録」など平安時代のものもある。大正天皇実録は死去翌年の昭和2年に宮内省編修課(当時)が編さんに着手、約10年間で完成させた。全85冊に加え、年表4冊、索引7冊、正誤表1冊がある。昭和天皇実録は平成2年度に編さんを開始、22年度完成に向け、作業が続いている。

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 asahi.com(朝日新聞社):闘病の日々、淡々と記述 「大正天皇実録」第3回公開

2008年6月5日10時36分

 

 大正天皇の日々の動静を記した文書「大正天皇実録」の3回目の閲覧が4日午前、宮内庁書陵部で始まった。今回公開されたのは、1921(大正10)年7月9日から、陵に葬られた27(昭和2)年2月まで。淡々とした記述の間からは、病に苦しみ続けた天皇の姿が浮かんでくる。

 実録は天皇の動静や、政治や外交上の重要事項などを記したもので、中国がルーツ。「大正天皇実録」は本文85冊、年表4冊、索引7冊、正誤表1冊の計97冊で、37(昭和12)年に完成した。

 朝日新聞記者の情報公開請求をきっかけに、02年に8冊、03年に21冊分を開示。今回の9冊で、即位後の実録については、すべて公開されたことになる。今回、「個人識別情報」の黒塗りは約250カ所。全体の2%に及んだ。

 病気にかかわる記述が興味深い。まず皇太子(後の昭和天皇)が摂政となった21(大正10)年11月25日の記載。

 それまでの天皇の病気の経緯を総覧し、14(大正3)年ごろから軽度の言語障害があったこと、翌15(大正4)年11月ごろから「階段ノ御昇降ニ当リテハ多少側近者ノ幇助(ほうじょ)ヲ要セラレ」と記している。

 この15年11月というのは、京都で天皇の即位大礼が行われた月。「この月、大正天皇はほとんど東京にいなかった。あるいは、即位大礼や行き帰りの駅などで、介助を必要とする何かが起きたのかもしれない」と、明治学院大教授の原武史さん(日本政治思想史)は推測する。

 続いて、16(大正5)年12月の出来事として「御尿中ニ微量ノ糖分顕出アリ」との記述が。そういえば、父の明治天皇も糖尿病だった……。

 さらに、18(大正7)年夏のこととして、「御姿勢時々右側ニ御傾斜アリ、御乗馬ノ際モ御姿勢整ハセ給ハズ」とある。この症状は22(大正11)年の侍従武官日記にもあるが、その数年前から病状が出始めていたことがわかる。

 18年はちょうど大正天皇が観兵式などを欠席し始める時期と重なる。「乗馬時の姿勢保持ができなくなったので、それが必要な観兵式などに出られなくなっていったのだろう」と原さん。

 死後埋葬された、多摩陵(たまのみささぎ)に関する記述も目を引く。この陵は、東京府横山村(現・東京都八王子市)に築かれたのだが、この場所が選ばれた理由はこれまでよくわからなかった。

 「実録」はその理由について、地層が古生層で、地震に際し、「地盤ノ被害著シカラザル」ことをあげる。また、万葉集に詠まれた「多麻の横山」の故地であることなども考慮したとある。

 原さんによれば、「多摩陵は、明治天皇の伏見桃山陵をかなり意識している」という。墳丘の型式などについて記した部分に、「伏見桃山陵」に「依リ」「準ジ」という記述が出てくる。

 原さんは「宮内省省報などには載っていないが、実録を読むと、天皇は23(大正12)年5月ごろまで油壺(神奈川県)などに出かけている。摂政を立てて以降も、この頃までは静養のかたわら、宮城(皇居)や御用邸の近くまで出かけることがあったようだ」と話している。(宮代栄一)

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 「大正天皇実録」は、所定の手続きをとれば、宮内庁書陵部図書課で、誰でも閲覧することができる。誕生から即位までの時期の部分は、今後、公開の予定。

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 実録とは、皇帝一代の事跡や国家、政治上の重要事項を記した編年体の記録で、中国がルーツ。細かく言うと、皇帝側近の起居注官が皇帝の動静を毎日記録する日記のような記録「起居注」を記し、皇帝の死後、起居注を元にその他の史料や公文書も使って、皇帝の一代記として『実録』が編纂された。

 そして、王朝滅亡後、次の王朝が前の王朝の歴代皇帝の実録を元に「正史」を編纂した。

 実録編纂の制度は唐代頃から整えられ、唐宋時代の実録も断片的に残っているが、全ての皇帝の実録が現存しているのは明清両朝のみ。

 

 日本では、平安時代の『六国史』に『日本文徳天皇実録』や『日本三代実録』があるが、それ以後は途絶えたらしい。

 明治以後、孝明天皇以後の代々の天皇の実録が宮内省によって編纂されるようになり、これまで『孝明天皇紀』、『明治天皇紀』、『大正天皇実録』が完成している。この事業は現在の宮内庁にも継承され、現在『昭和天皇紀』(『昭和天皇実録』)の編纂が進められている。

 

(『昭和天皇実録』、なんだか色々な意味で楽しみですな・・・・・・) 

 

 私は中国史それも明清史専攻で、何を調べるにしても歴代皇帝の実録が欠かせなかったので、実録は非常に馴染み深い存在だ。

 今回のニュースを読んで、日本にも実録があったこと、そしてなんと今でも編纂が続いていることが改めて再確認でき、非常に感慨深い思いがした。

 

 今回の公開では、「個人情報」にあたる部分が墨で塗りつぶされているとのことで、非常に残念。

(昔の中国の『実録』でも、皇帝、皇族のいみなが付箋で隠されてたらしい。何もそういうところで中国の真似をしなくても・・・・・・)

 

 歴史の記録は万人が共有すべきもの。

 ぜひとも全面公開を望みたい。