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2005年5月29日、遼陽にある東京陵を見学したときの写真です。

東京陵(google衛星写真より作成 2008年6月12日アクセス)

東京陵配置図

西側に位置するのが、シュルガチ、チュエン墓、東にムルハチ、ダルチャ墓

大きな地図で見る (google maps 衛星写真)

 東京陵は、遼寧省遼陽市東郊外にある清朝皇族の陵墓群。遼陽は後金(清)のヌルハチが一時都を置いていたところで、ここ東京陵には祖父ギオチャンガ(Giocangga,覚昌安)と父タクシ(Taksi,塔克世)以下のヌルハチ一族が葬られていた。

 だが、天聡三年(1629)太祖ホンタイジの生母の孝慈高皇后(モンゴジェジェ Monggojeje, 孟古哲哲)が瀋陽の福陵に改葬、次いで順治十五年(1658)ギオチャンガとタクシが永陵に改葬され,現在はヌルハチの同母弟シュルガチ(Šurgaci,舒爾哈斉または舒爾哈赤、墓碑ではŠurhaci,舒尓哈齊と表記)と異母弟ムルハチ(Murhaci,穆爾哈赤),長男チュエン(Cuyeng,禇英),ムルハチの子ダルチャ(Darca,達爾察)の墓が残されている。

   シュルガチ墓とチュエン墓は、東京陵区域の西側に位置している。彼らの墓は通常の皇族の陵墓と異なり南面せず、西面している 。これは彼らが生前にヌルハチの不興を買い失脚、死亡したのが原因とされている。

 

 まずはシュルガチ墓から 。シュルガチ墓は壁に囲まれた長方形の墓域で、外側の門をくぐると碑亭の建つ長方形の区画があり、碑亭を通り過ぎて内側へと進むと墳墓がある。

 シュルガチ(1564~1611)はヌルハチの同母弟で、多くの戦いで活躍。また弟として、一時はヌルハチとの「二頭政治」ともいえる大きな権力を誇っていたが、後に対立。明の万暦三十七年(1609)に、領民を率いて勝手にヘチェム(渾河上流)地方に引っ越して自立の動きを見せたことにより全ての権力と領民を剥奪され、しかも自立をそそのかしたとして長男と三男を処刑されてしまう。

 対立の原因については、清朝の公式史料では万暦三十五年(1607)のウラ部とのフィオ城の戦いと烏碣巌の戦いでシュルガチが戦闘に参加せずヌルハチの不興を買ったこととしているが、歴史研究者からはヌルハチがシュルガチの権力削減を意図したこと、あるいは政治路線上の対立と見られている。

 シュルガチはその後すぐに復権し領民も返還されているが、鬱々として楽しまず、万暦三十九年(1611)に死去した。死因についてはヌルハチによる他殺説と病死説がある。死後、順治十年(1653)に名誉回復され荘親王に追封されている。

シュルガチ墓(北)、チュエン墓(南)

シュルガチ墓(北)、チュエン墓(南)(一枚目の衛星写真の黄色の楕円部分を拡大)

東京陵 シュルガチ墓の門

シュルガチ墓の外側の門(2005年5月撮影)門の中に碑亭が見える

東京陵 シュルガチ(舒爾哈斉)碑亭

シュルガチ碑亭(2005年5月撮影)

シュルガチ墓碑満漢合璧碑文(満文)

シュルガチ墓碑満漢合璧碑文(満文)(2005年5月撮影)

シュルガチ墓碑満漢合璧碑文(漢文)

シュルガチ墓碑満漢合璧碑文(漢文)(2005年5月撮影)

碑文の全文は以下のとおり。

凡例
1.満洲語の入力は、メーレンドルフ式ローマ字を用いる。
2.史料中の改行は/で示す。
3.史料中の抬頭は○で示す。 

満文

ambalinggū darhan baturu cin wang ni bei bithe./gūnici gurun boo,uksun,erdemungge

  莊    darhan baturu親   王 の 碑 文  惟うに 国 家は 宗室、有徳の者

urse be iletuleme,mukūn be wesimbuleme, bisire de wesihun jergi bure ,akū oho

たち を顕彰し、一族のものを尊重して、  高位にせんとするも、   亡くなった

manggi amcame fungnengge fulehe gargan be jiramilara, dosholome gosire

ので、  追    封し    本家、連枝 を厚遇して、    寵愛し 慈しむこと   

be tuwaburengge. /darhan baturu šurhaci si/○taidzu dergi hūwangdi i banjiha deo,

を明らかにするものである。darhan baturu シュルガチ汝は太祖高皇帝  の胞(同母)弟、

mini ecike mafa。jalan wesihun bime, abkai fisen de umesi hanci.geli sain jui be ujifi,

わが叔祖(大叔父)。世代が上であり 天潢(皇族)に 極めて近しい。また良き子を養い、

amba gung be ilibuha be dahame,giyan i amcame wesihulefi, ginggun erdemu be iletuleci

大  功 を 立てたことを記録し、よろしく 追   崇して        謹   徳  を明らかに 

acambi./tuttu ofi cohome ambalinggū cin wang seme nonggime fungnefi,

すべきである。よって特に   荘    親 王    とし、加    封して  

fiyanji dalikūi jergi de obufi, omosi de werihe sain be iletulehe. šeri fejergi de eldembume,

藩  屏  の 位 とし、子孫 に 残した  善 を明らかにした。泉 下 に祖先の名を輝かせ、

mukūn be ujelere gosin be badarabuha.bei wehe de/folofi enteheme mohon akū tutabuha.

一族     を   敬う   仁    を 広めた。     碑  石 に  彫って 永く 果て   なく 残した。

/ijishūn dasan i juwan emuci aniya ,ilan biyai juwan de ilibuha.

 順   治  十   一  年、 三  月 十日 に立てた。

 

darhan baturu:シュルガチの生前の称号
darhan:モンゴル語、大きな功績を挙げたものへの称号
baturu:勇者
mukūn:同姓の一族、仲間。gargan:仲間、枝、支族。

(満文は急いで写し取ったので間違いがあるかもしれません)

 

漢文(標点は筆者)

莊達尓漢把兔魯親王碑/ 惟國家褒顕宗英、推崇皇族、生頒榮秩、歿予追封、所以篤本支昭親愛也。 尓達尓漢把兔魯舒尓哈齊乃/ ○太祖高皇帝胞弟、朕之叔祖、糸序既尊天潢孔切、 更生賢胤、克奏膚功。宜用追崇彰祇徳茲特/加封尓為莊親王、列在藩屏、聿展貽孫之媺光、施泉壤允敷敦族之仁。勒諸貞珉、永垂不朽/ 順治十一年三月初十日立。

東京陵 シュルガチ墓 墳墓

シュルガチ墓 墳墓(2005年5月撮影)

シュルガチについての主な参考文献は以下の通り。

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参考文献・サイト

(参考文献)
閻崇年『努爾哈赤伝』北京出版社、1983年
松浦茂『清の太祖 ヌルハチ』中国歴史人物選、第十一巻、白帝社、1995年
孟森「清太祖殺弟事考実」『明清史論著集刊』上、中華書局、1959年→1986年再版
鴛淵一「舒爾哈斉の死――清初内紛の一齣」『史林』第十七巻第三号、1932年
松村潤「シュルガチ考」『内陸アジア・西アジアの社会と文化』山川出版社、1983年
細谷良夫 編『中国東北部における清朝の史跡――1986~1990』(平成2年度科学研究費補助金・総合研究B「中央ユーラシア諸民族の歴史・文化に関する国際共同研究の企画・立案」成果報告書No.3)1991年

(サイト)
桃花 明末清初篇 シュルガチ(2008年6月14日アクセス)
http://www.biwa.ne.jp/~hss727rs/pf0214.htm