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 南の大清門から北へ歩き、崇政殿を過ぎると、高台に建ったひときわ高い建物が目に飛び込んでくる。それが鳳凰楼、皇帝、皇族が暮らす内廷への門でもある。

 内廷は高さ約3.8mの高台の上に築かれ、塀によって取り囲まれた空間となっている。 塀の外側には警備のための巡回路も設けられている。

内廷南側入口 鳳凰楼(2004年4月撮影)

内廷南側入口 鳳凰楼(2004年4月撮影)

内廷北側入口(2004年8月撮影)

内廷北側入口(2004年8月撮影)

塀外側通路(鳳凰楼入口外西側)(2012年8月撮影)

塀外側通路(鳳凰楼入口外西側)(2012年8月撮影)

 漢族の宮殿建築では、天子が政治を行う外朝の宮殿が最も高い位置に築かれるが、瀋陽故宮では皇帝、皇族の生活空間である内廷が最も高い位置にある。これは、女真族(満洲族)の山城の様式を受け継いだもの。

 女真族、すなわち後の満洲族がまだ東北の山や野原で生活していた頃、各部族の首長たちは防御に便利な丘の上に山城を築いて生活していた。

 山城は一般に外側の外城とその内側の内城(日本の山城の主郭に相当)という二つの部分により構成されており、外城には首長の配下、職人や兵士たちが居住し、内城には首長とその家族、親族が居住していた。内城は周囲から数メートルほど高くなっており、塀や土塁によって守られていた。このような築城プランは金代から明代女真の山城まで一貫して受け継がれている。 

 ヌルハチが遼東地方を征服する前に居住したフェアラ城(佛阿拉城、旧老城)、ヘトゥアラ城(赫図阿拉城、興京老城)も平らな河岸段丘上に築城され、外側の外城と、周囲から数メートル高い台地上の塀や土塁で囲まれた内城という二つの部分により構成されている。

 また明代女真族の山城では内城に高楼を築くケースもあった。イェヘ(葉赫)部のイェへ西城の「八角楼」がその代表的な例で、高楼は土や石で築いた土台の上に建てられ、周囲を見渡すのに便利で、また権威の象徴でもあった。日本の城の物見櫓や天守に似た存在かもしれない(松浦茂『清の太祖 ヌルハチ』pp.49~51、pp.226~228)。

 つまり、瀋陽故宮の内廷のプランは女真族の山城、特に山城内側の内城を踏襲したものだということがわかる。

  内廷は鳳凰楼、ホンタイジとモンゴル、ホルチン(科爾沁)部出身の孝端皇后が暮らした清寧宮、これまたモンゴル出身の四人の妃たちが暮らす関雎宮、麟趾宮、衍慶宮、永福宮によって構成されている。

 なお鳳凰楼清寧宮は独立した項目で扱っているので、詳しくはそちらをどうぞ。

 

 下図は建築配置。

Google Earth 衛星写真(2008年10月14日)

Google Earth 衛星写真(2008年10月14日)

   なお、文献によっては 関雎宮と衍慶宮、麟趾宮と永福宮の位置がそれぞれ入れ替わっているものがあるが、これは乾隆『盛京通志』記載の配置に基づいたもので、太宗時代の配置とは異なる。配置が入れ替わった原因は不明(扁額の掛け間違い?)だが、順治帝の生母である荘妃(孝荘文皇后)居住の永福宮を上位に変更したとも考えられる。 現在の瀋陽故宮では、太宗時代の配置に基づいている。

  これら妃たちの宮殿も万字炕と呼ばれるコの字型のオンドルを設けている。ホンタイジの四人の妃も後述するようにすべてモンゴル出身で、モンゴルの政治力と軍事力の取り込みを図った清朝の意図がよくわかる。

 

関雎宮(満文:Guwan jioi gung)

関雎宮(2008年9月撮影)

関雎宮(2008年9月撮影)

右:漢文 関雎宮 左:満文 guwan jioi gung,, (2008年9月撮影)

右:漢文 関雎宮 左:満文 guwan jioi gung,, (2008年9月撮影)

 ホンタイジの寵妃、宸妃の住居。

 宸妃はモンゴル、ホルチン部のジャイサンの娘で、その名をハイランジュ Hairanju といい、孝端文皇后の姪、荘妃の姉にあたる。宸妃はホンタイジの寵愛を受け、崇徳二年(1638)に男子を出産するが、生後一年にも満たず病死し、そのため命名もされていない。崇徳六年(1641)に宸妃が病死したときホンタイジは深く悲しみ、「元妃」の称号を追贈している。のちにホンタイジとともに昭陵に合葬された。 

 ホルチン部はチンギス=ハーンの弟ジョチ=ハサルを祖とする有力部族で、清朝(後金)はヌルハチ時代からホルチン部との同盟をはかり、以後清朝皇室とホルチン部は通婚を繰り返した。ホルチン部もよくその期待に応え、対明、対チャハル(察哈爾)部戦争において重要な戦力となった。 

 

麟趾宮(満文:Lin jy gung)

 

 貴妃の住居。

 貴妃は名をナム=ジュン Nam Jungといい、チャハル部のリグダン=ハーン(林丹汗)の妻の一人だったが、リグダン=ハーン死後に清朝に投降、ホンタイジの妃となった。のちにホンタイジの息子一人(和碩襄昭親王ボムボゴル(博穆博果爾))、娘一人を生んでいる。

 チャハル部はフビライ=ハーン、そしてモンゴルを再興したダヤン=ハーンを祖とする、元朝嫡流最後の部族だった。

 チャハル部征服後、リグダン=ハーンの妻スタイ太后と息子エジェイは元朝の玉璽「制誥之宝」を持って清に投降。スタイはイェへ部出身でホンタイジの母方の親戚(母方のおじの孫)にあたり、すでに後金(清)に仕えていた弟の説得により投降した。スタイは後にジルガランに嫁ぎ、エジェイはチャハル部の旧領を与えられ、後金の従属国となった。 

 チャハル部を支配下に納め、元朝の玉璽を手に入れたホンタイジは、モンゴルの王公たちからボグド=ハーン(神聖なるハーン)の尊号を奉られる。これはチンギス=ハーンの別号でもあり、ホンタイジが元朝の後継者としてモンゴルから承認されたことを意味する。

 これによりホンタイジは女真族としての国号「金(アイシン=グルン Aisin gurun)」を撤廃し、満洲・モンゴル・漢人を統合した国としての国号「大清(ダイチン=グルン Daicing gurun)」に変更した。以後清朝は元朝の後継者としての権威とモンゴル騎兵の軍事力をバックに北アジアに覇を唱えることになる。

 エジェイの死後、その弟アブナイがチャハル部を継ぎ、アブナイの息子ブルニの代の康熙十四年(1675)に三藩の乱に乗じ自立を目指して蜂起するが失敗し、チャハル王家は断絶。チャハル部は以後清朝の直轄領となった。

 

衍慶宮(満文:Hūturi badaraka gung)

右:漢文 関雎宮 左:満文 guwan jioi gung,, (2008年9月撮影)

右:漢文 衍慶宮 左:満文 Hūturi badaraka gung,,(2008年9月撮影)

 淑妃の住居。

 淑妃は名をバトマ=ゾー Batma Dzoo といい、彼女もリグダン=ハーンの妻の一人で、清朝に投降した後ホンタイジの妃となった。彼女はモンゴル人の娘を養女として育て、養女は後にドルゴンに嫁いでいる。モンゴル人の娘は淑妃とリグダン=ハーンとの間に生まれた娘だったともされる(松村潤「清太宗の后妃」)。

 

永福宮(満文:Enteheme hūturingga gung)

右:漢文 永福宮 左:満文 Enteheme hūturingga gung,,(2008年9月撮影)

右:漢文 永福宮 左:満文 Enteheme hūturingga gung,,(2008年9月撮影)

   

    順治帝の生母、荘妃(孝荘文皇后)の住居。    荘妃(1613~1688)はモンゴル、ホルチン部のジャイサンの娘、名はブムブタイ Bumbutai(漢語では布木布泰、または本布泰と表記)、孝端文皇后の姪、宸妃の妹にあたる。おばと姉妹二人が丸ごとホンタイジに嫁いだことになる。

 天命十年(1625)、ホンタイジに嫁ぎ、相次いで三人の娘を産み、崇徳元年(1636)ホンタイジが皇帝号を名乗ると同時に永福宮荘妃に封ぜられた。崇徳三年(1638)ホンタイジの第九子フリン、後の順治帝を生む。順治帝の即位後皇太后に封ぜられ、順治、康熙の二人の皇帝を補佐した後、康熙二十六年(1688)に死去、享年七十五歳。孝荘文皇后の諡号が贈られ、河北省遵化の昭西陵に葬られた。

 荘妃は清初政治史における重要人物で、その生涯は数々のエピソードに彩られている。今回はそれを紹介する余裕はないので、いずれ折をみて紹介していきたい。

永福宮(2005年5月撮影)

永福宮(2005年5月撮影)

 

 内部には満洲族伝統の天井から吊るすゆりかごが展示されていた。 

 

ゆりかご(2005年5月撮影)

ゆりかご(2005年5月撮影)

大盛況(2005年5月撮影)

大盛況(2005年5月撮影)

荘妃の説明

荘妃の説明

 最近、清朝ブームとともに荘妃が登場する時代劇がよく放映されるようになり、常時観光客でにぎわっている。

 

参考文献(順不同)

書籍
佟悦編著『瀋陽故宮』清文化叢書、一宮三陵系列、瀋陽出版社、2004年
羅麗欣:文・佟福貴:図『瀋陽故宮』遼寧世界遺産画廊、瀋陽出版社、2005年
村田治郎『満洲の史蹟』座右宝刊行会、1944年
細谷良夫編『中国東北部における清朝の史跡――1986~1990――』平成2年度科学研究費補助金・総合研究B「中央ユーラシア諸民族の歴史・文化に関する国際共同研究の企画・立案」成果報告書No.3、1991年
松浦茂『清の太祖 ヌルハチ』中国歴史人物選11、白帝社、1995年
孫文良・李治亭『清太宗全伝』吉林人民出版社、1983年
杜家驥 『清朝満蒙聯姻研究』人民出版社、2003年
竺沙雅章監修・若松寛責任編集『アジアの歴史と文化7 北アジア史』同朋舎、1999年

論文
承志・杉山清彦「明末清初期マンジュ・フルン史蹟調査報告――2005年遼寧・吉林踏査行――」『満族史研究』第5号、2006年、pp.55~84
木山克彦「ロシア沿海地方金・東夏代城址遺跡の調査」『北東アジア中世遺跡の考古学的研究 平成十五・十六年研究成果報告書』2005年、pp.4~20
臼杵勲「女真社会の総合資料学的研究――その成果と展開――」『アジア遊学』No.107 特集 北東アジアの中世考古学、勉誠出版、2008年、pp.4~13
木山克彦「ロシア沿海州における金・東夏代の城郭遺跡」『アジア遊学』No.107 特集 北東アジアの中世考古学、勉誠出版 2008年、pp.24~34
木山克彦「シャイガ城址」『アジア遊学』No.107 特集 北東アジアの中世考古学、勉誠出版、2008年、pp.150~152
木山克彦「ノヴォパクロフカ2城址」『アジア遊学』No.107 特集 北東アジアの中世考古学、勉誠出版、2008年、pp.154~157
木山克彦「ニコラエフカ城址」『アジア遊学』No.107 特集 北東アジアの中世考古学、勉誠出版、2008年、pp.158~159
楠木賢道「清初、入関前におけるハン・皇帝とホルチン部首長層の婚姻関係」『内陸アジア史研究』14、1999年、pp.45~63松村潤「清初盛京の宮殿」『研究紀要』第四号、日本大学文理学部人文科学研究所、1962年 → 松村潤『明清史論考』山川出版社、2008年、pp.87~118
松村潤「清太宗の后妃」『国立政治大学辺政研究所年報」第三期、1972年 → 松村潤『明清史論考』山川出版社、2008年、pp.198~216
森川哲雄チャハルのブルニ親王の乱をめぐって」『東洋学報』第64巻、第1・2号、1983年、pp.99~129
森川哲雄「ポスト・モンゴル時代のモンゴル
――清朝への架け橋――」『中央ユーラシアの統合』岩波講座世界歴史11、岩波書店、1997年、pp.325~348