『満洲実録』名場面集 その3

満洲語&清朝史普及計画

 

 清の太祖ヌルハチの一代記『満洲実録』から、挿絵を抜き出してアップロード。
画像は以下の文献・CD-ROMからの引用です。
『清実録』中華書局 1985~87年→『清実録』超星数字図書館CD-ROM(中華書局版を画像データ化) 

 

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 年代:癸未年~甲申年(1583年~1584年、明万暦十一年~十二年)
画像はともに『満洲実録』第一巻から 

 

 癸未年(1583年、明万暦十一年)八月、ヌルハチはギヤバンを攻めたが、ノミナとその弟ナイカダ Naikada(鼐喀達)がひそかにニカン=ワイランに通報したため、またも取り逃がすことになった。ニカン=ワイランは撫順東南の明との国境にある河口台に逃れたが、明兵が現れてニカン=ワイランが明領内に逃げ込むのを阻止しようとした。

 

 明もついにニカン=ワイランを見放したのだった。

 

 だが、後を追いかけてきたヌルハチはそれを見て、明軍がニカン=ワイランを救援にきたものと勘違いして進軍を止めたため、またまたニカン=ワイランを取り逃がしてしまった。

 

 これまでニカン=ワイランについていた者も明が彼を見放したのを知って離反し、ニカン=ワイランは妻子や兄弟を連れて、オルホン Olhon(鄂勒渾、撫順北部の范河付近)に落ち延びていった。

 

 

 

 

 

 ヌルハチはその後しばらく一族や周囲の敵対勢力との抗争に忙殺され、ニカン=ワイランとの戦いは中断を余儀なくされることとなった。 

 

 ノミナとナイカダがニカン=ワイランに通じていたことを知ったヌルハチは二人を憎んだ。そのころ、ノミナはフネヘ部 Hunehe aiman(渾河部。現在の渾河上流域、撫順市清原満族自治県一帯)のバルダ城 Bardai hoton (巴爾達城)攻めをヌルハチに提案。ヌルハチはこれを利用して二人を除くことにした。

 

 ヌルハチはノミナの呼びかけに応じたふりをし、自ら兵をひきいノミナの軍勢とともにバルダ城の前にやってきた。ヌルハチはノミナに「先に攻めよ」と言ったが、ノミナはこれを拒否。そこでヌルハチは「そちらが攻めないのであれば、我々が先に攻める。そちらの武器を我らに与えていただきたい」と提案した。計略とは知らないノミナは提案に応じ、武器をすべてヌルハチの兵士に与えてしまった。

 

 ノミナの兵の武器が全て自軍に渡ったのを見たヌルハチはその場でノミナとナイカダを捕縛し、殺害。武装解除された形となったノミナの兵は何の抵抗もできなかった。二人を殺害したヌルハチは兵を率い、城主を失ったサルフ城を攻め取った。

 

 

・左枠
[満:taidzu arga toktobufi nomina,naikada be waha,(太祖は計略を立てノミナ、ナイカダを殺した)]
[漢:太祖計殺諾密納鼐喀達(太祖計もて諾密納、鼐喀達を殺す)]
[蒙:        ]

 

・挿絵
城門
満:bardai hoton(バルダ城)
漢:巴爾達城
 挿絵右下の兵士に殺されている人物
(左)満:nomina(ノミナ)
漢:諾密納
(右)満:naikada(ナイカダ)
漢:鼐喀達

 

 その後、フネヘ部のジョーギヤ城 Joogiya hoton(兆嘉城)のリダイ Lidai (理岱)がフルン四部(海西女真)のハダ Hada(哈達)部の兵を引き入れ、ヌルハチに属していたフジ寨 Hūji gašan (瑚済寨)を襲撃させた。

 

 ヌルハチの部将アン=フィヤング An Fiyanggū(諳班偏格、安費揚武)とバスン Basun (巴遜)は十二人を率いてハダ兵を奇襲し、四十人を殺し、捕虜を得て帰ってきた。

 

 アン=フィヤング(1559~1622)は、フジ Hūji 地方のギョルチャ Giorca 氏(覚爾察氏)出身の武将である。父と共にヌルハチの旗揚げ当初から仕え、その勇敢さを讃えられ、ションコロ=バトゥル Šongkoro Baturu(碩翁科羅巴図魯)の称号を与えられている。ションコロ šongkoro とは漢語で海東青(矛隼、シロハヤブサ Falco rusticolus )と呼ばれ、古来より鷹狩りに用いられ、女真族の象徴とされてきた鳥である。ションコロ=バトゥルとは「海東青のような勇者」という意味だろう。

 

 アン=フィヤングは『満洲実録』ではもっぱらションコロ=バトゥルの称号で呼ばれている。
後に、エイドゥ Eidu(額亦都)、フィオンドン Fiongdon(費英東)、ホホリ Hohori(何和礼)、フルガン Hūrgan(扈爾漢)という武将たちとともに「五大臣」の一員としてヌルハチを補佐することになる。

 

šongkoro baturu,basun hadai cooha be gidaha,

 

・左枠
[満:šongkoro baturu,basun hadai cooha be gidaha,(ションコロ=バトゥル、バスンがハダの兵を破った)]
[漢:碩翁科羅巴遜敗哈達兵(碩翁科羅、巴遜哈達の兵を敗る)]
[蒙:        ]

 


・挿絵
左側中央で弓を引き絞っている二人目の人物
満:šongkoro baturu(ションコロ=

 

バトゥル)
漢:碩翁科羅
槍を突き出している人物
満:basun(バスン)
漢:巴遜

 

 甲申年(1584年、明万暦十二年)正月、ヌルハチはフネヘ部のジョーギヤ城を攻めた。山道を進軍中大雪が降りそそぎ、ガハ Gaha 噶哈の嶺を越えられなくなった。おじや兄弟たちは引き返すことを勧めたが「リダイは我らと同じ姓の兄弟でありながら、我らを殺そうとハダの兵を引き入れた」といって進軍を続け、山道を切り開き、兵や馬を縄でつないで山越えを果たし、ジョーギヤ城にたどり着いた。

 

 だが、ヌルハチを妨害しようとするニングタのベイレの一族の一人、三祖ソーチャンガの子のロンドンが、ひそかにヌルハチの動きをリダイに連絡していたため、リダイ Lidai(理岱)はすでに防備を固めていた。これをみたヌルハチの部下は撤兵を進言するが、ヌルハチはひるまずに攻め立て、ジョーギヤ城を落とした。リダイは捕らえられたが、命は助けられた。

 

 

・左枠

 

[満:taidzu oncoi lidai be wahakū ujihe,(太祖は寛大にもリダイを殺さず生かした)]
[漢:太祖宥養理岱(太祖理岱を宥養す)]
[蒙:        ]


・挿絵
城門
満:joogiya hoton (ジョーギヤ城)
漢:兆嘉城
ひざまづいている人物
満:lidai(リダイ)
漢:理岱

 


 

 これまで書いてきたように、ヌルハチがニカン=ワイランに対して挙兵した前後から、同族のニングタのベイレの子孫はヌルハチへの敵対を始めている。

 

 この時期、祖父ギオチャンガの子孫を除く、ニングタのベイレ一族の残りの五兄弟全ての子孫が相次いで堂子(天や神々の祭祀が行われる祠)においてヌルハチの殺害を誓っている。
それから、長祖デシク 、二祖リオチャン、三祖ソーチャンガ、六祖ボーシの子孫は堂子に集まり、ヌルハチの殺害を誓い合い、挙兵直後の癸未年(1583年、明万暦十一年)六月と九月に刺客を放ってヌルハチの暗殺を図ったが、それぞれ失敗に終わっている。

 

 ハダ兵によるフジ寨襲撃も、ニングタのベイレの一人六祖ボーシの子カンギヤ Kanggiya(康嘉)、チョキタ Cokita(綽奇塔)、ギオシャン Giošan(覚善)がリダイに行わせたものだった。

 

 ヌルハチに敵対した同族の中心となっていたのは、三祖ソーチャンガの子のロンドン(龍敦)で、サルフ城のノミナをそそのかしてヌルハチを妨害したり、先ほど述べたようにヌルハチがジョーギヤ城を攻撃した際にも、事前に城主のリダイに連絡している。
そればかりでなく、ジョーギヤ城の攻防戦の後、ヌルハチの継母の弟サムジャン Samjan(薩木占)を誘って、妹の夫ガハシャン=ハスフ Gahašan Hashū(噶哈善)を殺している。ヌルハチは遺体を収容するため兵を集めたが、一族の者はみなロンドンに与して、誰も同行しなかった。 

 

 また、ヌルハチは、同年四月と五月にも立て続けに刺客に命を狙われている。四月のある晩に刺客が屋敷に忍び込むが、ヌルハチは捕らえた刺客を単なる牛泥棒にすぎない偽ってわざと逃がしている。五月のある晩にも刺客が屋敷に忍び込むが、その時にも刺客を捕らえながらもわざと逃している。
 『満洲実録』の記述によれば、ヌルハチが刺客を二度にわたって逃がしたのは、もし刺客を殺害すれば刺客を放った相手と戦争になるが、そうなれば兵力の少ない自分には勝ち目はないと考えたからであった。
四月と五月の二度にわたる暗殺未遂事件の刺客の黒幕について、『満洲実録』は何ら触れていないが、情況から考えるとニングタのベイレ一族の可能性が高い。

 

 しかし、これ以後『満洲実録』にはロンドンのことはもちろん、ニングタのベイレ一族のことはほとんど記述されなくなる。おそらくヌルハチは一族内部の反感を抑えるのに成功したのだろう。

 

 その後ヌルハチがニングタのベイレ一族に表立って報復を行った形跡もないし、ホンタイジの代になってからは、ニングタのベイレ一族にギョロ gioro(覚羅)という称号が与えられ、ニングタのベイレ一族は以後清代を通じて皇族としての礼遇を受け続けた。

 

 ただ、のちにヌルハチが治下の女真人を八旗に編成した際、同族のニングタのベイレ一族はヌルハチの領旗ではない正白旗、正紅旗、鑲紅旗、正藍旗に編入されている。またその後も上述のような礼遇は与えられたものの、あくまで名目上にとどまり、刑罰の減免、高位高官への取り立てといった皇族としての実質的特権は与えられず、一般の旗人と同様に各旗の旗王に仕えた。
これは、外様のフルン四部(海西女真)の名門であるイェヘ=ナラ Yehe Nara 氏(葉赫那拉氏)やウラ=ナラ Ula Nara 氏(烏拉那拉氏) がヌルハチの領旗の正黄旗、鑲黄旗に編入され、高位高官に取り立てられたのとは対照的である(杉山清彦「清初八旗における最有力軍団――太祖ヌルハチから摂政王ドルゴンへ」、細谷良夫「八旗覚羅佐領考」)。

 

 このような処遇は、雍正帝によるニングタのベイレ一族への待遇改善と皇帝の直轄支配下(公中佐領※)への編入まで、約100年間にわたり続いた

 

 そのあたりに、ヌルハチのニングタのベイレ一族への思惑が見え隠れしているのかもしれない。

 

(つづく)

 

 ※公中佐領:皇帝の直轄支配下のニル(佐領)。各旗に属し続けながらも旗王からは切り離されている。

 

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史料・参考文献
史料
『満洲実録』(『清実録』中華書局、1985~87年→『清実録』超星数字図書館CD-ROM(中華書局版を画像データ化))
今西春秋訳『満和蒙和対訳満洲実録』刀水書房、1992年

 

参考文献
(中国語)
閻崇年『努爾哈赤伝』北京出版社、1983年
(日本語)
杉山清彦「清初八旗における最有力軍団――太祖ヌルハチから摂政王ドルゴンへ」『内陸アジア史研究』16、2001年
細谷良夫「八旗覚羅佐領考」『星博士退官記念中国史論集』星博士退官記念中国史論集記念事業会、1978年
松浦茂『清の太祖 ヌルハチ』中国歴史人物選、第十一巻、白帝社、1995年
三田村泰助『清朝前史の研究』東洋史研究叢刊十四、東洋史研究会、1965年