満文論語―中庸の徳ー

子曰、中庸之爲徳也、其至矣乎、民鮮久矣。(『論語』巻三 雍也第六)

子曰く、中庸(ちゅうよう)の徳たるや、それ至れるかな。民鮮(すくな)きこと久(ひさ)し。

先生がいわれた、「中庸の道徳としての価値は、いかにも最上だね。だが、人民のあいだにとぼしくなってから久しいことだ。

(現代語訳:金谷治)

 

満洲語訳(『御製繙譯論語』巻三 雍也第六 四庫全書本)

子曰、中庸之爲徳也、其至矣乎、民鮮久矣。

fudzi hendume,an dulimba i erdemu ohongge, yala ten de isinahabi kai,irgen de komso ofi goidaha dere.

先生がいうには、中庸の徳のありさまは、まことに極みにまで至っていたのであるぞ。民において少なくなって久しいではないか。

(満洲語からの翻訳)

an dulimba:中庸、isinahabi(isinambi):至っていたことである、dere:~であろう、~ではないか

 

中庸について朱熹は「中は過不足がないことであって、庸は平常である」(中者,無過無不及之名也,庸,平常也)と解釈している(朱熹『四書章句集注』論語集注巻三 雍也第六)。ほどよい中間の道を歩み、常識を守るということらしい。

中庸の満洲語訳 an dulimba を直訳すると an(平常)、dulimba(中央)となっており、「庸」と「中」の順番になっているが、おおむね朱熹の解釈に基づいているといえる。

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(参考文献)

(史料)
『御製繙譯論語』(『欽定繙譯五經四書』所収 四庫全書本 『欽定四庫全書』上海古籍出版社 1987) 
朱熹『四書章句集注』 新編諸子集成(第一輯) 中華書局 1983

(訳注・研究書)
金谷治 訳注『論語』岩波文庫 1963(1999年再販本)