三宅理一『ヌルハチの都――満洲遺産のなりたちと変遷』

三宅理一『ヌルハチの都――満洲遺産のなりたちと変遷』
ランダムハウス講談社、2009年2月

目次


第1章 ヌルハチとマンジュ国

第2章 フェアラ築城

第3章 ヘトアラ造営とアイシン国の開国

第4章 遷都の時代ーサルフから東京城へ

第5章 瀋陽大改造

第6章 瀋陽の空間構造

第7章 故宮の建築

第8章 陪都・瀋陽と乾隆帝

第9章 皇帝の陵墓

第10章 満洲人のすまい

あとがき

 

 本書は、建築史家かつ都市計画の専門家である三宅理一氏が、清朝初期の都城すなわち「ヌルハチの都」であるフェアラ・ヘトアラ・サルフ・ジャイフィヤン・遼陽・東京城そして瀋陽(盛京)の都市計画、宮殿・諸建築・陵墓および住宅の様式と変遷について、北京やほぼ同時代にあたる江戸時代の日本都市、そしてヨーロッパとの比較を交えつつ語ったものである。

 以下、興味を持った内容を大まかに紹介していきたい。

 第1章~第4章では、ヌルハチの興起と遷都を繰り返し、瀋陽へと落ち着くまでの各都城のプランの変遷について述べている。

 マンジュ五部を統一し、「マンジュ国」を成立させたヌルハチが築城した都城であるフェアラ城、そしてヘトアラ城・サルフ城・ジャイフィヤン城は尾根に位置する内城と緩やかな斜面上に位置し、部下の部族長や部族民が集住する外城により構成され、女真族の様式が色濃かったが、遼東征服後に遼陽郊外に新たに造営された東京城では『周礼』考工記に見える井桁型パターンの中国的都城プランが初めて取り入れられた。

 また、東京城は遼陽城での満洲人と漢人の雑居によるトラブルや防御上の必要により、満洲人だけの街としてつくられ、以後満洲旗人と漢人が分居する「旗民分居」は瀋陽、北京そして中国各都市において踏襲されたことを指摘し、さらにこうした都市構造を武士団が中心部に集住し、外側に町人が住む日本の城下町になぞらえている。

 「第5章 瀋陽大改造」では、ホンタイジによる瀋陽の都城への大改造につき述べている。ヌルハチが最後に遷都した瀋陽城は元々は東西南北の四門と城内の東西・南北を貫く十字路により構成された都市だったが、太宗ホンタイジの時代に東京城のプランに基づき井桁型パターンの都城へと大改造され、城門の名前も東京城と同じ名がつけられた。ヌルハチ期に造営された瀋陽故宮東路の大政殿と十王亭についても詳細に述べている。

 「第6章 瀋陽の空間構造」では、ホンタイジによる改造後の瀋陽の空間構造を論じている。

 第一に『盛京城闕図』にもとづき、宮殿・六部・親王府など重要施設の位置と役割などにつき整理している。漢人統治機関である奉天府と日本の町奉行所(町人統治機関で武士への管轄権を持たない)との比較は面白い。

 第二に親王府の建築配置方式の変化につき、『盛京城闕図』・康熙『大清会典』に基づき検討を加えている。著者は、盛京のホンタイジ期の親王府は四合院を二つ重ねたような配置となっているが、北京では宮殿に準じた「前朝後寝」配置へと変化したことを指摘している。

 第三に瀋陽における「旗民分居」について述べている。

 第四に瀋陽の「八旗方位」(八旗各旗の居住区配置)について、史料とフィールドワーク(実測調査・ヒアリング)に基づき検討を加えている。著者は、瀋陽の八旗方位は正紅旗、鑲紅旗が東側、正白旗、鑲白旗が西側となっており、北京や瀋陽故宮東路の八旗方位と東西が入れ替わっていたこと、さらに瀋陽の「八旗方位」はホンタイジ期に八旗各旗を領有していた親王(旗王)の親王府の位置(『盛京城闕図』記載)とそのまま対応していることを明らかにしている。

 「第7章 故宮の建築」では、第5章で東路建築に触れた流れを受け、中路建築を中心に紹介している。

 第一に瀋陽故宮の建築プロセスについて触れ、瀋陽故宮の東路と中路の軸線のずれは瀋陽大改造の痕跡であるとしている。ヌルハチは、占領した瀋陽の十字型プランをそのまま受け継ぎ、瀋陽城中央の十字型街路(通天街)に沿って東路の造営を行ったのに対し、中路はホンタイジの瀋陽大改造に伴う十字型街路(通天街)の撤去と井桁型街路への転換と同時に造営されたために、東路と中路に軸線のずれが生じたという。

 第二に、中路の諸建築について述べ、中国式(漢族式)の様式と女真・満洲族様式の同居した建築につき詳細に論じている。特にホンタイジの居所であり、シャーマニズムの祭祀が行われる場所でもあった清寧宮については紙数を割いている。

 「第8章 陪都・瀋陽と乾隆帝」では、派手好きで新しい物好きの乾隆帝により、新たに造営された中路東西の東所・西所と西路の諸建築につき、建物平面図・図面・写真などを用い詳しく紹介している。瀋陽故宮の建築はこれまで満洲的・北方的特色の濃厚な東路、中路のみが注目され、蘇州様式に代表される漢族的・南方的特色の強い東所・西所と西路の建築についてはあまり紹介されてこなかった嫌いがあるので、読んでいて面白かった。
 また、建築装飾のヨーロッパの宮殿との比較、戯台(舞台)と日本の能舞台との比較も興味深い。

 「第9章 皇帝の陵墓」は、まず第一に瀋陽のチベット仏教寺院を取り上げ、その背景にある清朝のチベット仏教保護と国家鎮護思想、仏教の曼荼羅的思想の都市構造への影響を紹介し、さらに回族のモスク(清真寺)にも言及するなど、瀋陽の宗教都市としての一面と文化的多様性を指摘している(瀋陽のチベット仏教寺院については石濱裕美子氏の優れた研究が存在するので併読されたい(1))。

 第二に「盛京三陵」永陵・福陵・昭陵と遼陽の東京陵に見られる葬制・墓制の変化について紹介。
 ヌルハチ・ホンタイジ・順治帝はいずれも火葬され、ヌルハチ・ホンタイジの遺骨は当初は地上の享殿(廟)に納めていたが、入関後康熙帝が中国的な土葬を採用し、以後は皇帝の遺体は陵の北側に設けられた土饅頭状の「宝城」地下の「地宮」(地下宮殿)に納められることになり、ヌルハチ・ホンタイジの遺骨も改めて造営された地宮に納められた。
また「盛京三陵」と東京陵を通じ、女真族の「樹柵為寨」(木の柵で取り囲まれた墓所に一族の墓をまとめて造営して祀る)陵墓から中国的な陵墓への変化を概観している。さらに陵墓造営の背景にある風水思想や風水思想の都市構造への影響についても紹介し、陵墓の「龍脈」を守るために瀋陽郊外の開発が厳しく規制されたことにより、瀋陽郊外にグリーンバッファーゾーンを形成し、環境保護に大きな役割を果たしたとして、風水思想の環境面での意義を高く評価している。

 第三に、陵墓の造営に当たった漢人土木技術者臧国祚(ぞうこくそ、本文では「蔵国祚」と誤植)について紹介。後金・清朝に仕えた漢人テクノクラートの生涯は非常に興味深い。

 第四に、陵墓への「前朝後寝」配置の導入や祭祀の式次第につき詳述。ここでも満洲族・チベット仏教・漢族的祭祀制度の同居が見られる。

 「第10章 満洲人のすまい」では、ヘトアラや永陵鎮に分布する満洲人の民家の実測・フィールドワークに基づき、満洲人の民家の様式とその変容過程、さらに清末に衰微したヘトアラから永陵鎮への移築の軌跡を明らかにしている。調査対象となった民家は現在既に失われてしまったものも多く、本章の内容は史料的価値が高い。

 以上、本書には著者と現地研究者による16年間にわたる共同研究とフィールドワークの成果がふんだんに盛り込まれており、読んでいて次々と新しい情報に出会えたし、東アジアとヨーロッパの建築史・都市史に精通する著者のグローバルな視点には啓発される点が多かった。

 また、本書には史跡の写真や共同研究の成果である建築図面・図版が計180点も掲載されており、またそれらに記録された古い街並みや史跡は改革開放以来の開発の波によって消え去ってしまったものも多く、史料的価値が非常に高い。

 

 あえて欠点を挙げるとすれば、第一に清朝史関連用語の誤字・誤植がやや目についたこと。以下気がついたものを列挙。

p.15ほか 興京(ルビ:こうきょう)(誤) → 興京(ルビ:こうけい)(正)(2)

p.32 建州(マンジュ)五部(地図):トゥルソ(誤) → トゥルン(正) 

ソルゴ・フィオンド(誤) → ソルゴ・フィオンドン(正)

p.34 ヌルハチの系譜(図版):プクリ=ヨンション(誤) → ブクリ=ヨンション(正)

メンゲティルム(誤) → メンゲティムル(正)

シベチオ=フィヤング(誤) → シベオチ=フィヤング(正)

p.36 スクフク部(誤) → スクスフ部(正)

p.140ほか 『盛京城闕図』(ルビ:せいきょうじょうけつず)(誤) →  『盛京城闕図』(ルビ:せいけいじょうけつず)(正)(3)

p.145 府伊(ルビ:ふい)(誤) → 府尹(ルビ:ふいん)(正) 

p.149 前朝后寝(誤) → 前朝後寝(正)

p.156ほか 『八旗通史』(誤) → 『八旗通志』(正)

p.181 関雎(ルビ:かんし)(誤) → 関雎(ルビ:かんしょ)(正)

p.194 清寧宮平面図(図版):車晙閣(誤) → 東暖閣(正)

p.232 角觝戯(ルビ:かくしぎ)(誤) → 角觝戯(ルビ:かくていぎ)(正)

p.233 木蘭囲場(ルビ:もくらいじょう)(誤) → 木蘭囲場(ルビ:もくらんいじょう あるいは ムランいじょう)(正)

p.252~255   国祚(誤) → 臧国祚(正)

p.254 甲喇章京(ルビ:ジャラン・ジャンジン)(誤) → 甲喇章京(ルビ:ジャラン・ジャンギン)(正)(満洲語:jalan  i  janggin)

p.256 莫譚(ルビ:えきたん)(誤) → 莫譚(ルビ:ばくたん あるいは モータン)(正)(満洲語:mootan)(4)

p.262 国威舅姨子孫(ルビ:こくいきゅうししそん)(誤) → 国威舅姨子孫(ルビ:こくいきゅういしそん)(正)

p.263 [5]昴邦章京(マオバン・ジャンジン)(誤) → 昂邦章京(アンバン・ジャンギン)(正)(満洲語:amban janggin)

梅勒章京(メイレ・ジャンジン)(誤) → 梅勒章京(メイレン・ジャンギン)(正)(満洲語:meiren janggin)

甲喇章京(ジャラン・ジャンジン)(誤) → 甲喇章京(ジャラン・ジャンギン)(正)(満洲語:jalan i janggin)

牛禄章京(ニル・ジャンジン)(誤) → 牛彔章京(ニル・ジャンギン)(正)(満洲語:niru i  janggin) 

精奇尼哈番(ジンチニ・ハファン)(誤) → 精奇尼哈番(ジンキニ・ハファン)(正)(満洲語:jingkini hafan)

阿思哈尼哈番(アシハニ・ハファン)(誤) → 阿思哈尼哈番(アスハニ・ハファン)(正)(満洲語:ashan i hafan)

 本書の内容が非常に優れているだけに惜しまれる。

 第二に、ヘトアラ城の復原(復元)の問題点について本文中で触れていないこと。本書第3章ではヘトアラ城の「復原」建築を写真入りで大きく取り上げる一方、観光や町おこしを重視するあまり本来ヌルハチ時代には存在しなかった豪華な建物や城壁が「復原」されていること、ヘトアラ城の観光化・公園化による史跡の破壊という問題点(5)につき本文中では言及していない。
第2章「フェアラ築城」の注3ではこれら問題点について概括的に紹介している。

二〇〇三年のヘトアラ(赫図阿拉)築城四百年祭以降、ヘトアラは一種のテーマパークとして整備され、多くの建造物が「復原」されている。残念ながらその多くは建築史的実証性に乏しく、また基本的な修復技術をともなっていないので、オリジナルの価値を大きく損ねているものが少なくない。城壁内の北東の一画に復原されたヌルハチの父タクシ(塔克世)の旧宅は、煉瓦造りの上に壁土仕上げ、茅葺、万字炕などをそなえた点で、当時の満洲人の住宅を示しているが、申忠一の描いた非対称的な平面形式に対応しておらず、また当時はまだ漢人的な四合院の形式が普及していなかったという事実からも、実証性が疑われている。

 だが、これは第3章「ヘトアラ造営とアイシン国の開国」に盛り込むべき内容だったように思う。これではヘトアラ城の「復原」建築が過去本当に存在していたかのような誤解を与えかねない。

 とはいえ、本書が清朝建築史・都市史における重要な成果であることには変わりはない。村田治郎『満洲の史蹟』(座右宝刊行会 1944)以来の快著といえるだろう。

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(1)石濱裕美子「清初勅建チベット仏教寺院の総合的研究」(『満族史研究』第6号、2007年)。
(2)中国の漢語固有名詞(人名・地名)は漢音で読むのが中国史学の慣習。
(3)同上。

(4)『八旗通志列伝索引』(東洋文庫満文老檔研究会、1965年)
(5)承志・杉山清彦「明末清初期マンジュ・フルン史蹟調査報告――2005年遼寧・吉林踏査行」(『満族史研究』第5号、2006年)、劉正愛『民族生成の歴史人類学――満洲・旗人・満族』風響社、2006年。なお、日本各地の城跡にも類似した問題がある(元々天守のなかった城に豪華な天守を建てることなど)。

三宅理一『ヌルハチの都――満洲遺産のなりたちと変遷』” に対して2件のコメントがあります。

  1. 裕之 より:

    お久しぶりです。よく大連でこの本が手に入りましたね。かなりマイナーな本であるにもかかわらず、東京の大きな書店でも見かけることはあるのですが、いつも誰が買うんだろうと思って見ていました。都市史や建築史の本は一般的書籍としてはあまり売っていません。唯一例外なのはベネチアの研究を嚆矢に、江戸・東京の研究におもむきメジャーになった陣内秀則先生です。陣内先生の本は一般書籍としてかなりの著作が出回っています。それに比べて、三宅先生の本は建築専門の人にしか知られていません。なおかつそのテーマが中国東北地方における清朝の都の成立史というのだから、もうマイナーの二乗と言ってもいいくらいのものです。ところで、この三宅理一先生は僕の母校芝浦工業大学の歴史系の教授だったので、名前は昔から知っていました。僕は学科が異なっていたので直接指導をうけることはなかったのですが、たまたま会社の上司は三宅研究室の卒業生で、先生ともたまに会っているような間柄だったので、先生がこのところ瀋陽に何度も出向いていると言う話は聞いていました。実のところ、瀋陽で会ってもいたと聞いています。現地で三宅先生のいる宴席では、瀋陽市の都市計画局の偉いさんとか出てきて、かなり政治的な雰囲気があったそうです。というのは三宅先生の働きかけで、瀋陽の王朝の建物群を世界遺産に登録してもらおうと、市の方でかなり積極的に動いてもらっていたのだそうです。三宅先生はフランスのエコール・デ・ボザールという建築の名門学校を出ていて、ヨーロッパに知人がたくさんおりユネスコにも顔が利くようで、そのような政治力をかわれていたということです。それに加えて、もともと三宅先生の研究のフィールドはトルコやイランなどから始めて、日本を離れグローバルに拡がっていたので、先生自身の興味というのも少なからずあったのでしょう。というふうに、この本の成立の裏話を聞いていたので、そんな関係から、一般書籍として売り出しているのかしらんと思い、手を出しかねていたところです。でも電羊斎さんがこれだけ面白い点と紹介しているなら買ってみようかと思いました。ちなみに、写真を撮っている平さんというのも芝浦の先輩になります。

  2. 電羊齋 より:

    >阿祥さんお久しぶりです。この本はアマゾンで注文して、いったん大阪の実家に発送してもらってから、実家から関西風うどんだし(笑)と一緒に発想してもらったものです。私もこんなマイナーなテーマの本を誰が買うんだろうと思っていました。出版に踏み切ったランダムハウス講談社様には足を向けて寝れません(笑)ブログの瀋陽故宮の記事も本書を参考に少しずつ改訂していくつもりです。三宅理一先生が阿祥さんの母校の教授だったとは!本の成立の裏話も初耳でした。道理であれだけ詳細な調査が出来たわけですね。本の内容も、日本やヨーロッパとの比較が多く、グローバルな視点のなかで満洲族の建築史・都市史を位置づけていて、非常に面白かったですね。そのあたりはやはりヨーロッパとアジア双方の建築史・都市史に精通する三宅先生ならではというところでしょうか。平剛氏の写真もきれいですね。同じ瀋陽の史跡を撮影しているのに、私のブログの写真より格段に美しいですよ。やっぱりプロは違います。清朝史と建築史・都市史に関心のある人は絶対に買いですよ!

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