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 ひまな時に清代の筆記(随筆)『嘯亭雑録』をめくっていたら、ロシアについての項目が見つかった。著者の礼親王昭槤(しょうれん)(1776~1829)は、ヌルハチの次子礼親王ダイシャン(代善)の末裔で文才があった。

 この項目からは、18世紀後半から19世紀にかけての満洲人のロシア観がよくわかる。

 ちなみに中国語ではロシアは俄羅斯(オロス)と呼ばれる。

俄羅斯
俄羅斯國在喀爾喀、烏里雅蘇台之極北,東西袤長數萬里。東接黑龍江,西連安集延、敖罕諸部落。其人黑皙窅目,衣服、食物、語言、文字皆近西洋,與蒙古部落習俗懸絕。其文官皆洋中人為之,武官始參用本國人。其主名察罕汗,女傳已七世,生男則為異姓人,生女始為國種。又蒙古源流云:「元太祖之長子分封絕域,來往數萬里[註:事見元史],即為俄羅斯之始祖」云。然則彼國亦元裔也,其世系莫可考矣。

    『嘯亭雜錄』卷八(評点本、中華書局 1980→1997再刊)

(日本語訳)

オロス(ロシア)
オロス国はハルハ(喀爾喀)・ウリャスタイ(烏里雅蘇台)の極北にあり、東西の長さは数万里にも達する。東は黒龍江に接し、西はアンディジャン(安集延)・コーカンド(敖罕)の諸部族と接している。その国の人は肌が色黒で目が落ちくぼんでおり、衣服・食物・言語・文字はみな西洋に近く、モンゴルの部族の習俗とはかけ離れている。その文官はみな西洋人を任ずるが、武官には本国人を用いている。その国の主はチャガン=ハーン(察罕汗)という名で、女が位を伝えてすでに七代となる。男が生まれれば異姓の人とみなし、女が生まれて初めて国の世継ぎとする。また『古源流』には「元の太祖(チンギス=ハーン)の長子(ジョチ)は遠く離れた辺境に分封され、往復数万里である(原注:『元史』に記載)。すなわちオロスの始祖である」うんぬんとある。それならばオロスもまた元の末裔ということになるが、その系譜は考証するすべがない。

 まず、ハルハとはモンゴル高原で最大勢力を誇る部族であり、ウリャスタイとはモンゴル西部の一都市で、清代にはモンゴル高原とアルタイ山脈方面を管轄するウリャスタイ将軍(烏里雅蘇台将軍)が置かれ、当時はモンゴル高原を指す地理的名称としても使われていた。

 次に、東では黒龍江、西ではアンディジャン(安集延)・コーカンド(敖罕)に接しているとしている。アンディジャン・コーカンドは現在の中央アジアのウズベキスタン東部で、当時はコーカンド=ハーン国の支配下にあった。コーカンド=ハーン国は現ウズベキスタン領のコーカンドを都とし、概ね現在のウズベキスタン・キルギス・タジキスタン一帯とカザフスタン南部を支配するトルキスタン南部の強国であった。清朝のジューンガル部・東トルキスタン征服(1755~1759)により、清朝と直接接触することになったコーカンド=ハーン国は清朝に朝貢、以後清朝・ロシア・カザフ・インドの十字路上に位置する地の利を生かし、中継貿易による繁栄を迎えることとなった。

 清朝にとって、アンディジャン・コーカンドは清朝の勢力圏の最西端という認識だったようで、以後紆余曲折を経ながら、19世紀中ごろまで朝貢・通商関係が続いた。

 つまり、ロシアが、北のモンゴル、東の黒龍江、そして西のアンディジャン・コーカンドと、清朝の勢力圏の北・東・西の三方に接していることを例にして、ロシアの国土の広大さを強調している。

 「肌が色黒で目が落ちくぼんでおり」だが、原文は「黑皙窅目」で、やや色黒の小麦色の肌と目がくぼんだ彫りの深い顔を指すようだ。清朝と境を接するシベリアや中央アジア方面のロシア人は現地人と通婚・混血しており、肌の色などの形質が現地人に近いものもいることからきた記述だろうか。

 「衣服・食物・言語・文字はみな西洋に近く、モンゴルの部族の習俗とはかけ離れている」とあるが、興味深いのはあくまで「西洋に近い」のであって、「西洋」ではないとみなしていること。本文中では「洋」・「西洋」はロシアとは異なるものとして用いられている。これは、後述のモンゴル的歴史観と関連している。

 「文官はみな西洋人を任ずる(其文官皆洋中人為之)」というのは、当時ロシア宮廷に多く仕えていたドイツ系貴族・官僚を指していると思われる。

 「チャガン=ハーン(察罕汗)」とは、モンゴル語で「白いハーン」を意味する言葉で、ロシア皇帝(ツァーリ)を指し、当時の清朝でもその呼び名をそのまま使っていた。これは、ロシア帝国の源流であるモスクワ大公国が元々ジョチ=ウルス(キプチャク=ハーン国)の属国であり、モンゴル人からはジョチ=ウルスの継承国家とみなされていたことによる。本文でも、モンゴル貴族であるサガン=セチェン著の『蒙古源流』を引用する形で、ロシアの始祖はジョチであるとしている。

 こうした認識は当時広く共有されていたようで、道光十二年(1832)に北京を訪れた朝鮮使節の金景善も、俄羅斯館(ロシア人滞在施設)を訪れたのち、ロシア人のことを「蒙古の別種なり」と記している。「別種」とは同じ起源から分化した民族・種族をいう(『燕轅直指』巻三「鄂羅斯館記」、蔡鴻生『俄羅斯館紀事』所収)。

 しかも、そもそもオロス(俄羅斯)という名称自体、ロシア語の「Русь ルーシ(ロシアの古称)」や「Россия ラシーヤ(ロシア)」が、モンゴル語の「オロス Oros」に変化し、その後満洲語・漢語に入ったものだ。

 当時の満洲人・清朝人のロシア理解は、やはりモンゴルの影響が濃かったようだ。

 「女が位を伝えてすでに七代となる。男が生まれれば異姓の人とみなし、女が生まれて初めて国の世継ぎとする」というのは、18世紀のロシアに女帝が多かったことからくる誤解だろう。確かに、エカチェリーナ1世以降女帝が非常に短い間隔で頻繁に即位しているので、ユーラシア大陸の東の果てにいた昭槤がそうした誤解をしてしまうのも無理はない。

(参考)18世紀のロシア皇帝 ( )は在位期間、太字は女帝

ピョートル1世(1682年~1725年)
治世初期は異母姉ソフィアが摂政(在任1682~1689)女帝の前例に
エカチェリーナ1世(1725年~1727年)ピョートル1世の皇后
ピョートル2世(1727年~1730年)
アンナ(1730年~1740年)
イヴァン6世(1740年~1741年)
エリザヴェータ(1741年~1762年)
ピョートル3世(1762年1月5日~6月28日)
エカチェリーナ2世(1762年~1796年)ピョートル3世の皇后
パーヴェル1世(1796年~1801年)

ロマノフ朝 『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

 全体的に見て事実と誤解が入り混じっている感じだが、当時の満洲人のロシア理解を知ることができ面白い 。

……

参考文献
『嘯亭雑録』清代史料筆記、中華書局、1980年→1997年再版
蔡鴻生『俄羅斯館紀事(増訂本)』中外交流歴史文叢、中華書局、2006年
佐口透『ロシアとアジア草原』ユーラシア文化史叢書、吉川弘文館、1966年
竺沙雅章監修・間野英二編『アジアの歴史と文化8 中央アジア史』同朋舎発行、角川書店発売、1999年 
宮脇淳子『最後の遊牧帝国――ジューンガル部の興亡――』講談社選書メチエ41、1995年