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 折からの異常な寒波(2010年1月)で遼寧省葫蘆島市・興城市沖の菊花島が流氷に閉じ込められ、島民3000人以上が孤立しているらしい。

菊花島地図(Googleマップ) 

asahi.com(朝日新聞社):四面流氷 島民3200人孤立 中国遼寧省、歴史的寒波 – 国際 
(2010年1月24日閲覧)
菊花岛提前一个月遭遇冰封 3000余人出行难[图] 东北新闻网 (2010年1月24日閲覧)

 現地は冬は流氷が多いが、今年の流氷はことのほか多く、いつもよりひと月早く結氷したらしい。船は使えないし、かといって氷の上を歩いたり自動車で走ったりするのも、氷が薄い箇所が多く危険らしい。中国語の記事によると、安全のため島民が氷の上を歩いて大陸に行くことを禁止しているようだ。 食料や生活物資は備蓄があるので当面の心配はないようだが、島内で治療できない重病人が出た場合は大変らしい。

 実は私にとって、菊花島という名前は馴染みがある。
 八旗の騎兵が明の水軍を打ち破った非常に珍しい戦場だからだ。

 菊花島は、明代には覚華島と呼ばれ、水軍が駐屯し、遼東方面への補給・中継基地となっていた。
 覚華島は大陸から適度に離れており、水軍を持たない後金(清)軍の攻撃を受ける心配がないことから、明末には補給基地として特に重要な地位を占めていた。寧遠城の戦いの当時は合計約7000の兵士が駐屯していたらしい。

 天命十一年(1626)一月、遼東・遼西地方を制覇した清の太祖ヌルハチは山海関手前の寧遠城(遼寧省興城市)に攻めかかった。だが袁崇煥が守る寧遠城にはポルトガル製の大砲「紅夷砲」が配備されており、後金軍を大いに苦しめた。

 そこでヌルハチは、寧遠城の沖合の覚華島が明軍の補給基地であり、兵糧やまぐさが貯蔵されていることに目をつけ、覚華島襲撃を決意した。

 覚華島襲撃部隊は武将ウネゲ(武訥格)により率いられる八旗各旗のモンゴル騎兵に満洲兵八百を加えたもので、兵力は合計約数万。

 一月二十五日(陽暦2月21日)、ヌルハチは部隊を密かに覚華島の対岸に移動させ、その一方で寧遠城攻撃を続けて意図をカモフラージュした。

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寧遠城の戦い(『満洲実録』巻八)

(見出し)
満文:taidzu ning yuwan be afafi bahakū bederehe.(太祖は寧遠を攻め取れず、退いた)
漢文:太祖率兵攻寧遠(太祖兵を率い寧遠を攻む)
※下段のモンゴル語は分かりません。申し訳ありません。

 

 二十五日、後金軍の意図に気づいた覚華島の明軍は大急ぎで防戦準備を始めた。折からの低温で海は完全に凍りつき、氷は騎兵が渡るには充分な厚さとなっており、島は事実上大陸と地続きになっていたからだ。

 なお、17世紀の北半球は現在に比べ寒冷で、当時の現地の気温は零下30℃にも達したという。

 明軍は氷上に戦車(盾車、下の中央挿絵)を並べてバリケードを設け、さらに氷を割って島と大陸との間に「堀」を掘ろうとしたが、氷を割っても割ってもすぐに海水が凍結し、無駄に終わった。

 二十六日、ウネゲに率いられた襲撃部隊は氷上を一気に駆け抜けて、覚華島へと襲いかかった。水軍の兵士は凍った海では船を動かすことができず、やむをえず陸上で戦ったが、陸上では到底八旗兵の敵ではなかった。明の水軍兵士は玉砕し、ウネゲの襲撃部隊は軍船・砦や貯蔵されていた兵糧・まぐさを焼き払い、再び氷を渡って去っていた。

   以下の4ページにもわたる挿絵は氷上を突き進む騎兵を生き生きと描いている(クリックすると拡大)。

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(見出し)
満文:wunege giyoo hūwa doo i cooha be gidaha.(ウネゲが覚華島の兵を破った)
漢文:武訥格敗覺華島兵(武訥格覺華島の兵を敗れり)

(中央挿絵右端の人物)
満文:wunege (ウネゲ)
漢文:武訥格

(各挿絵『満洲実録』巻八)

 翌二十七日、後金軍は寧遠城からの撤退を開始、瀋陽へと帰還していった。

 寧遠城の戦いは全体としては明の勝利だったが、最後に後金がお返しをした形となった。後金軍が全面撤退した後、袁崇煥は覚華島の水軍を拡充し、皮島の毛文龍への兵糧・物資輸送基地や朝鮮の朝貢使節の中継地として整備している。

 今回、菊花島(覚華島)が氷で囲まれたというニュースを見て、この史実を思い出した。

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(参考文献)

(史料)
『満洲実録』(『大清満洲実録・大清太祖高皇帝実録』台湾華文書局、1964年)

(論文・著作)
閻崇年「論覚華島之役」(『清史研究』1995年第二期)
閻崇年『明亡清興六十年』上 中華書局、2006年