溥儀の満洲語

 清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀は満洲語(マンジュ語)がほとんどできなかったとされている。1964年に出版された溥儀の自伝『我的前半生』(群衆出版社、1964年、この版本は「定本」と呼ばれる)でも自らそれに触れている。以下原文と日本語訳(『わが半生』上・下、ちくま文庫、1992年)を掲げる。

我的学业成绩最糟的,要数我的满文。学了许多年,只学了一个字,这就是每当满族大臣向我请安,跪在地上用满族语说了照例一句请安的话(意思是:奴才某某跪请主子的圣安)之后,我必须回答的那个:“伊立(起来)!”

《我的前半生》第二章 我的童年、四 毓庆宫读书、p.64

私の学業成績のもっとも悪かったものとしては満州語をあげなければならない。何年もかかって、一語しか覚えなかった。それは満州族の大臣が私のところへご機嫌うかがいに来、床にひざまずいて例のとおり御機嫌うかがいの言葉(意味は臣何某ひざまずいて陛下のご機嫌をおうかがい申し上げます、というものだった)を述べたのち、私が答えねばならないあの言葉「伊立(イリ)」(立て)だった。

『わが半生』上、第二章 私の幼年時代、四 毓慶宮での学問、p.119

 

 まず、訳文では原文の「奴才」が「臣」となっている。「奴才」は満洲語のアハ aha の漢訳であり、元々従僕を指す言葉である。時代による変遷もあるが、奴才 アハ aha は皇帝に謁見または上書する際の旗人の一人称であり、漢人大臣は基本的に「臣」という一人称を使った(漢人の高位の武官は「奴才」を使用する場合もあった)。訳文では日本人読者の分かりやすさを重視して、「臣」としたのであろうが、後述のように奴才 アハ aha は皇帝と旗人との主従関係のキーワードとなる言葉なので、「臣」とするのは不正確な訳である。

 次に、「伊立(イリ)」は満洲語の ilimbi (立つ)の命令形 ili (立て)の音訳。臣下がひざまずいてご機嫌うかがいをしているとき、皇帝が「立て」と言わなければ、臣下はいつまでたっても地面にひざまずいたままでいなければならないので、「立て」という単語は必須表現だった。清朝末期には宮廷内ですら満洲語がすたれていたが、清朝はあくまで満洲人(マンジュ人)の王朝であり、宮中の重要な礼式はあくまで満洲語を使わなければならなかった。

 『わが半生』によれば、溥儀が学問を始めたのは6歳の年の宣統三年(1911)、つまり清朝滅亡の年だった。満洲語教師は伊克坦(1865~1922)で、それから9年余りの間満洲語を習ったらしい。覚えた満洲語が「立て」という言葉だったという記述を見るに、外部から隔絶された紫禁城の「小朝廷」の中では、清朝滅亡後も満洲語による礼式が形式的ながらも残っていたようだ。

  2007年に中国で出版された『我的前半生――全本』(群衆出版社、2007年、この版本は「全本」と呼ばれる)では、1964年に出版された『我的前半生』(定本)では削除された記述が補われている。さきにとりあげた該当箇所を「全本」でもう一度見てみるとこうなっている。

我的满文(宫中叫做清文)学了不少年,但是我只学会说一句话,这就是当满族大臣向我请安照例说了“阿哈某某,恩都尔林额,额直呢,显勒赫,博,拜密”(奴才某某跪请主子的圣安)之后,我须照例说的那句:“伊立(起来)”

《我的前半生――全本》第二章 我的童年、四 毓庆宫读书、p.43

私は満文(宮中では清文と呼んでいた)を何年もかけて学んだが、ひとつの言葉しか覚えられなかった。それは満洲族の大臣が私のところへご機嫌うかがいにやってきて例のとおり「阿哈某某,恩都尔林额,额直呢,显勒赫,博,拜密」(奴才某、ひざまずいてご主人様のご機嫌をおうかがい申し上げます)を述べたのち、私が例のとおり言わねばならないあの言葉「伊立(イリ)」(立て)だった。

(管理人訳)

 「全本」では、満洲族の大臣のご機嫌うかがいの言葉の漢字音写が記載されている。元の満洲語はおそらく以下のようなものだろう(推定)。

阿哈某某,   恩都尔林额,   额直呢, 显勒赫, 博,拜密

aha 〇〇 , enduringge     ejen i    sain elhe  be baimbi

奴才〇〇、 聖なる    主人の  ご機嫌     を   おうかがいします

(显勒赫→sain elhe は自信なし)

   なお、全本、定本の元となった「灰皮本」(溥儀が撫順戦犯管理所での学習・自己批判の材料として執筆し、1960年に内部発行本として出版) には該当する記述はなく、代わりに満洲語教師の伊克坦の思い出を記した箇所がある。そこでは、伊克坦は後に病気がちとなりしばしば授業に来られなくなり、その上満洲語を学んでも普段の生活では漢語を使っていたという教育だったので何の役にも立たず、満洲語をすっかり忘れてしまったと記されている。また、伊克坦の激しやすい性格と彼の死とともに満洲語を学ばなくなったことも記されている(『我的前半生――灰皮本』群衆出版社、2011年、p.116)。

   さて、前述のように、アハ aha(阿哈。漢語で「奴才」と翻訳)は旗人の一人称である。満洲人の社会制度では、家庭内にはエジェン ejen(主人)に奉仕するアハ aha(奴才)とよばれる従僕が存在した。エジェンはアハを慈しみ、アハはその恩に応えエジェンに忠誠を誓うという素朴な主従関係であった。

   こうした部族社会の素朴な主従関係は後に八旗全体に推し広げられ、エジェンを皇帝、アハを旗人と読み替え、皇帝は主人として従僕たる旗人を慈しむことを唱え、旗人には家庭内の従僕のようにひたすら皇帝に忠誠を尽くすよう求めた。そこで、旗人は一人称として「アハ」・「奴才」を使うようになった。
   上記の満洲族(旗人)の大臣の皇帝へのご機嫌うかがいの言葉も、漢字で音写された満洲語とあわせて読むと、あくまで家庭内の従僕=アハから主人=エジェン ejen への呼びかけであることがわかる。

 つまり、「アハ」・「奴才」という呼称は、旗人は皇帝一家の忠実な従僕として、皇帝に近い関係にあることを示している。一見みすぼらしい「奴才」という言葉はここではむしろ旗人の皇帝への忠誠と皇帝への近さを示す言葉である。

 以下、祁美琴氏の研究により、そのあたりをもう少し詳しく補足説明すると、康熙年間後期から康熙帝に近しい側近・近臣の旗人が満洲語の奏摺(臣下から皇帝への上奏文、私信の形で差し出される)で一人称として「アハ」を使い始め、漢人の高位の武官も漢文の奏摺「奴才」を使用している例があるが、雍正年間までは宗室や旗人も「臣」という一人称を使用することがあるなど混乱も見られる。「アハ」・「奴才」が旗人の一人称として規定されたのは乾隆年間以降のことらしい。また、前述のように漢人の高位の武官にも「奴才」を使用するよう命じている。清朝の皇帝は「アハ」・「奴才」という呼称を使用させることにより、臣下の忠誠心をコントロールしていたらしい。
 だが、時代の変遷とともに清末には「アハ」・「奴才」は次第に使用が嫌われるようになっていき、旗人や満洲人の大臣も次第に「臣」と称するようになっていった。そして宣統二年(1911)正月甲戌(二十九日)の上諭により、満漢の文武諸臣は上奏文において一律に「臣」と称するよう命じられ、旗人・臣下の一人称としての「アハ」・「奴才」は廃止されることとなった。しかし、その後も満洲人の臣下には習慣的および自主的に「アハ」・「奴才」を使い続ける例もあったとのことである。

 そして、冒頭の溥儀の記述のように、清朝が滅亡し、紫禁城の中の「小朝廷」の中でのみ溥儀は皇帝として君臨しており、臣下は「アハ」・「奴才」を使い続けていた。清朝の滅亡以後も、紫禁城の中の「小朝廷」では、なおもこうした清朝的・満洲的主従関係が(形式的ながらも)保持されていたということだろう。

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参考文献

中国語
愛新覚羅溥儀『我的前半生』群衆出版社、1964年
愛新覚羅溥儀『我的前半生――全本』群衆出版社、2007年
愛新覚羅溥儀『我的前半生――灰皮本』群衆出版社、2011年
祁美琴「清代君臣語境下“奴才”称謂的使用及其意義」(『清史研究』2011年第4期、2011年)

日本語
愛新覚羅溥儀著、小野忍・野原四郎・新島淳良・丸山昇訳『わが半生』上・下、ちくま文庫、1992年
石橋崇雄『大清帝国』講談社選書メチエ174、講談社、2000年
石橋崇雄『大清帝国への道』講談社学術文庫、講談社、2011年
石橋崇雄「清初ハン(han)権の形成過程」(榎博士東洋史論叢編集委員会編『榎博士頌寿記念東洋史論叢』汲古書院、1988年)
石橋崇雄「清初皇帝権の形成過程――特に『丙子四年四月〈秘録〉登ハン大位檔』にみえる太宗ホン・タイジの皇帝即位記事を中心として」(『東洋史研究』53-1、1994)
石橋秀雄「清初のアハ aha ――特に天命期を中心として」(『史苑』28-2、1968年→石橋秀雄『清代史研究』緑蔭書房、1989年)
石橋秀雄「清初のアハ aha ――太宗天聡期を中心に」(『盈虚集』創刊号、1984年→石橋秀雄『清代史研究』緑蔭書房、1989年)
谷井俊仁「一心一徳考――清朝における政治的正当性の論理」(『東洋史研究』63-4、2005年)
塚瀬進『溥儀――変転する政治に翻弄された生涯』(日本史リブレット人 099、山川出版社、2015年)
増井寛也「建州統一期のヌルハチ政権とボォイ=ニャルマ」(『立命館文学』587、2004年)
村田雄二郎「ラスト・エンペラーズは何語で話していたか?――清末の「国語」問題と単一言語制」(『ことばと社会』3、三元社、2000年)

【追記】参考文献を追加し、表示の不具合を修正しました(2019.5.3)。
【追記】表示の不具合を修正しました(2019.9.18)。
【追記】記述を修正、「灰皮本」に関する記述を追加、参考文献を追加し、改行箇所と表示の不具合を修正しました(2021.1.9)。
【追記】参考文献を追加し、加筆・改訂を行いました(2023.10.22)