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 清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀は満洲語がほとんどできなかったらしい。溥儀の自伝『わが半生(我的前半生)』でも自らそれに触れている。

  我的学业成绩最糟的,要数我的满文。学了许多年,只学了一个字,这就是每当满族大臣向我请安,跪在地上用满族语说了照例一句请安的话(意思是:奴才某某跪请主子的圣安)之后,我必须回答的那个:“伊立(起来)!”

《我的前半生》第二章 我的童年、四 毓庆宫读书、p.64

 

 私の学業成績のもっとも悪かったものとしては満州語をあげなければならない。何年もかかって、一語しか覚えなかった。それは満州族の大臣が私のところへご機嫌うかがいに来、床にひざまずいて例のとおり御機嫌うかがいの言葉(意味は臣何某ひざまずいて陛下のご機嫌をおうかがい申し上げます、というものだった)を述べたのち、私が答えねばならないあの言葉「伊立(イリ)」(立て)だった。

『わが半生』上、第二章 私の幼年時代、四 毓慶宮での学問、p.119

 まず、訳文では原文の「奴才」が「臣」となっている。「奴才」は満洲語のアハ aha の漢訳。従僕を指す。奴才 アハ aha は皇帝に謁見または上書する際の旗人(満洲族)の一人称であり、ここでは「わたくしめ」にあたる言葉。漢人大臣は「臣」という一人称を使った。
 訳文では日本人読者の分かりやすさを重視して、「臣」としたのであろうが、後述のように奴才 アハ aha は皇帝と旗人との主従関係のキーワードとなる言葉なので、「臣」とするのは不正確な訳である。
 
 次に、「伊立(イリ)」は満洲語の ilimbi (立つ)の命令形 ili (立て)の音訳。大臣がひざまずいてご機嫌うかがいをしているとき、皇帝が「立て」と言わなければ、大臣はいつまでたっても地面にひざまずいたままでいなければならないので、「立て」という単語は必須表現だった。清朝末期には宮廷内ですら満洲語がすたれていたが、清朝はあくまで満洲族の王朝であり、宮中の重要な礼式はあくまで満洲語を使わなければならなかった。

 『わが半生』によれば、溥儀が学問を始めたのは6歳の年の宣統三年(1911)、つまり清朝滅亡の年だった。満洲語教師は伊克坦(1865~1922)で、それから9年余りの間満洲語を習ったらしい。覚えた満洲語が「立て」という言葉だったところを見ると、外部から隔絶された紫禁城の「小朝廷」の中では、清朝滅亡後も満洲語による礼式が形式的ながらも残っていたようだ。

 2007年に中国で出版された『わが半生(我的前半生)』完全版での該当箇所は以下の通り。 

 我的满文(宫中叫做清文)学了不少年,但是我只学会说一句话,这就是当满族大臣向我请安照例说了“阿哈某某,恩都尔林额,额直呢,显勒赫,博,拜密”(奴才某某跪请主子的圣安)之后,我须照例说的那句:“伊立(起来)”

《我的前半生――全本》第二章 我的童年、四 毓庆宫读书、p.43

 

 私は満文(宮中では清文と呼んでいた)を何年もかけて学んだが、ひとつの言葉しか覚えられなかった。それは満洲族の大臣が私のところへご機嫌うかがいにやってきて例のとおり「阿哈某某,恩都尔林额,额直呢,显勒赫,博,拜密」(奴才某、ひざまずいてご主人様のご機嫌をおうかがい申し上げます)を述べたのち、私が例のとおり言わねばならないあの言葉「伊立(イリ)」(立て)だった。

(管理人訳)

 

 完全版では、満洲族の大臣のご機嫌うかがいの言葉の漢字音写が記載されている。元の満洲語はおそらく以下のようなものだろう(推定)。

阿哈某某,   恩都尔林额,   额直呢, 显勒赫, 博,拜密

aha 〇〇 , enduringge     ejen i    sain elhe  be baimbi

奴才〇〇、 聖なる    主人の  ご機嫌     を   おうかがいします

(显勒赫→sain elhe は自信なし)

   前述のように、アハ aha(阿哈。漢語で「奴才」と翻訳)は旗人の一人称である。
 満洲族の社会制度では、家庭内にはエジェン ejen(主人)に奉仕するアハ aha(奴才)とよばれる従僕が存在した。エジェンはアハを慈しみ、アハはその恩に応えエジェンに忠誠を誓うという素朴な主従関係であった。

   清朝成立後はこうした部族社会の素朴な主従関係を八旗全体に推し広げ、エジェンを皇帝、アハを旗人と読み替え、皇帝は主人として従僕たる旗人を慈しむことを唱え、旗人には家庭内の従僕のようにひたすら皇帝に忠誠を尽くすよう求めた。そこで、旗人は一人称として「アハ」・「奴才」を使うようになった。
 
  上記の満洲族(旗人)の大臣の皇帝へのご機嫌うかがいの言葉も、漢字で音写された満洲語とあわせて読むと、あくまで家庭内の従僕=アハから主人=エジェン ejen への呼びかけであることがわかる。

 つまり、「アハ」・「奴才」という呼称は、旗人は皇帝一家の忠実な従僕として、「臣」である漢人大臣よりも皇帝に近い関係にあることを示している。一見みすぼらしい「奴才」という言葉はここではむしろ旗人の皇帝への忠誠と皇帝への近さを示す言葉である。

 清朝の滅亡と共に、紫禁城の外では「イリ(立て)」や「アハ(奴才)」といった言葉は聞かれなくなったが、紫禁城の中の「小朝廷」では、なおもこうした満洲的主従関係が(形式的ながらも)保持されていたということだろう。

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参考文献

中国語
愛新覚羅溥儀『我的前半生』群衆出版社、1964年
愛新覚羅溥儀『我的前半生――全本』群衆出版社、2007年

日本語
愛新覚羅溥儀著、小野忍・野原四郎・新島淳良・丸山昇訳『わが半生』上・下、ちくま文庫、1992年
石橋崇雄『大清帝国』講談社選書メチエ174、2000年