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   以下、覚書程度の記事。

 東巡とは、清朝の入関以後、清朝皇帝が自らの故地であるマンチュリア(東北、満洲)に行幸することをいう。
 東巡では、清朝皇室の陵墓に参詣して祖先の霊を祭り、満洲族の伝統を守るための巻狩り、さらには北方の情勢を視察することも行われた。

 東巡にあたっては、瀋陽の宮殿、陵墓や皇帝の行列が通る御道が増築・修復され、地元の総力を挙げた接待が行われた。行列は総勢数万人にも上り、宮廷がまるごと移動するようなもので、まさに国家的一大イベントだった。康煕二十一年(1682)の東巡に随行した宣教師フェルビースト(南懐仁)は、東巡の行列を皇帝・皇太子以下約七万人と記録している。

 順治帝は、関内(中原)の統治基盤が未だに固まっておらず、北京に移ってからは北京を離れることができなかったが、康煕帝は康煕十年(1671)、二十一年(1682)、三十七年(1698)の三回、乾隆帝は乾隆八年(1743)、十九年(1754)、四十三年(1778)、四十八年(1783)の四回、嘉慶帝は嘉慶十年(1805)、二十三年(1818)の二回、道光帝は道光九年(1829)の一回東巡を行っている。道光帝の次の咸豊帝から最後の皇帝溥儀は東巡を行う余裕がなかった。

   興味深いことに、康熙帝と乾隆帝の間の雍正帝は皇帝即位後一度も東巡を行なっていない。
 即位前の雍親王時代の康煕六十年(1721)には、康熙帝の命を受けて盛京(瀋陽)に赴き、皇帝陵を祀っているが、即位後は北京をほとんど離れず、熱河(承徳)の離宮や木蘭の囲場(巻狩り場)にすら行っていない。雍正帝自身はこの理由につき明確には触れていない。

 これについて、最近読んだ劉玉文・劉瑋「雍正中輟北巡與乾隆重祧北巡原因考識――兼議康熙,乾隆,嘉慶三朝北巡得失――」では、以下の四点の理由を推定している。

1.雍正年間初期は権力闘争のため、北京を空けることができなかったこと。
2.即位当初は政務に忙しく、北京を離れることができなかったこと。
3.雍正帝自身が虚飾や無用な形式を嫌ったこと。
4.雍正帝が物静かで目立つことを嫌う性格であったこと。 

 清朝皇帝の東巡についての専論は、園田一龜『清朝皇帝東巡の研究』があるが、恥ずかしながらまだ未読。
 東巡の研究には、東巡の制度、東巡に向けた諸準備、交通路等色々興味深い問題が含まれている。
 これからも色々文献を読んでいきたい。

 

参考文献

馮爾康『雍正伝』人民出版社、1985年
劉玉文・劉瑋「雍正中輟北巡與乾隆重祧北巡原因考識――兼議康熙,乾隆,嘉慶三朝北巡得失――」
『瀋陽故宮博物院院刊』第五輯、中華書局、2008年

フェルナンド=フェルビースト著・衛藤利夫訳「南懐仁の満洲旅行記(韃靼旅行記)」衛藤利夫『韃靼』中公文庫、1992年
園田一龜『清朝皇帝東巡の研究』大和書院、1944年