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文溯閣(満文:Šu songkon asari)

文溯閣の建築

 文溯閣は、乾隆年間に増築された瀋陽故宮西側に位置し、『四庫全書』が収められていた。乾隆四十七年(1782)完成。三階建て。建築様式は寧波の天一閣を模したものである。

文溯閣(2012年8月撮影)
文溯閣(2012年8月撮影)

文溯閣 
文溯閣 殿額
左 満文:šu songkon asari 右 漢文:文溯閣
(2008年9月撮影)

 外観は他の宮殿と大きく異なり、派手な瑠璃瓦を使用せず、柱にも朱色を塗らず、梁には書籍などの装飾画を描いており、いかにも書庫らしい落ち着いた雰囲気となっている。

 一階中央部には皇帝の読書のために机や椅子が置かれ、その採光のために一、二階中央部は吹き抜けとなっており、二階の南側には大きな窓が設けられている。

 
戦前の文溯閣内部、一階と二階(『満洲の史蹟』写真p32)
(現在内部は非公開)

文溯閣一階(2004年8月撮影)
(このときは特別公開期間で、入り口から中をのぞくことが出来ました。)
(追記:2012年8月時点では、立入禁止ですが、扉から中をのぞくことはできました)
 
 内部は一階に『四庫全書』経部と『古今図書集成』、二階に『四庫全書』史部、三階に『四庫全書』子部・集部が収められていた。

 書架配置図(一、二階の吹き抜け、南側が空けられているところに注意)
(『満洲の史蹟』p.229 1905年時点の実測図に基づく)

文溯閣『四庫全書』について

 乾隆四十七年に『四庫全書』の第一部(北京文淵閣本)が完成したあと、同年十一月に第二部、すなわち後の文溯閣『四庫全書』の書写が完了。この文溯閣本は四十八年秋の皇帝東巡(東北行幸)に間に合わせるため書写の完了を待たず、四十七年十月に盛京(瀋陽)への輸送を開始し、翌四十八年(1783)三月までに計五回に分けて文溯閣へと運ばれた。『古今図書集成』も文溯閣に運ばれている。四十八年九月には『四庫全書総目提要』・『四庫全書簡明目録』・『四庫全書考証』が運ばれている。
 その後、乾隆五十五年(1790)、五十七年(1792)には、『四庫全書』総纂官の陸錫熊らによる二度にわたる大規模な校勘が行われ、字句の誤りが修正されている。
 また、『四庫全書』所収の書籍の原本の改訂・補筆に伴い、『四庫全書』所収の書籍の補遺・交換も行われていた。乾隆五十一年(1786)から嘉慶十二年(1807)にかけて、多くの書籍が北京から盛京に送られ、文溯閣『四庫全書』所収の旧本を補遺または交換している。

 文溯閣と『四庫全書』は盛京内務府により管理され、日常的な保護や閣内の清掃が行われていた。書籍の保存には毎年樟脳66斤が用いられ、書籍のホコリを払うためキジの尾羽のハタキも毎年大小計16本が支給され、清掃が励行されていた。毎年八月には曝書(書籍の虫干し)が行われた。文溯閣の建物の修繕・補修は盛京工部の担当だった。

 盛京内務府による管理は清朝の滅亡まで続いた。 

 ※盛京は清朝の副都として、北京の中央政府に準ずる官署が置かれていた。

文溯閣『四庫全書』の流転
(以下日付は太陽暦・アラビア数字で表記)

 文溯閣の『四庫全書』は、清朝の滅亡後たび重なる流転に見舞われることになる。

 1914年、北洋政府により、文溯閣『四庫全書』と『古今図書集成』は北京故宮の「古物陳列所」(故宮博物院の前身)の保和殿へと運ばれた。空き家となった文溯閣はその後軍閥の兵舎として使用された(『満洲の史蹟』p.229)

 1925年8月、奉天省(現遼寧)教育会会長馮広民らは、奉天軍閥が第二次奉直戦争で勝利し北平が奉天軍閥の支配下に入った機会を利用して、『四庫全書』と『古今図書集成』を奉天(瀋陽)に持ち帰ることに成功した。同年、文溯閣四庫全書保管委員会が発足、翌26年には文溯閣の修復が行われた。

 なお、この間に紛失していた本が七十二巻あったので、翌26年から一年間かけて北京の文淵閣本から書写して補っている。

 文溯閣東側、碑亭の右側の塀には、この経緯が記された『文溯閣四庫全書運復記』という石板がはめ込めまれている。

碑亭。乾隆帝の「御製文溯閣記」を刻んだ碑が立っている。
その右側の塀に「文溯閣四庫全書運復記」がはめ込まれている(2004年4月撮影)

 満洲国成立後、『四庫全書』と『古今図書集成』は満洲国の国立奉天図書館の管理下に入り、1938年に文溯閣の斜め向かい、西南側に建てられた鉄筋コンクリート造の書庫に移され、文溯閣は以後空き家となった。

文溯閣西南の書庫(満洲国時代)
文溯閣西南の書庫(満洲国時代)(2012年8月撮影)

 1948年4月、国共内戦での敗色が濃くなった国民党政府は文溯閣の『四庫全書』を北平に移送しようとするが、関係者による引き延ばしが行われ、さらに11月に瀋陽(奉天から改名)が共産党支配下に入ったことで、移送は結局行われなかった。

 1950年、朝鮮戦争が勃発し、戦場が中朝国境付近に及ぶと『四庫全書』は安全のため黒龍江省訥河のとある小学校に一時的に保管され、翌年現地に水害が発生したことにより北安県に避難した。朝鮮戦争休戦後、1954年に再び瀋陽に戻った。

 だが、1966年、中国とソ連の間で軍事的緊張が高まり、中央政府は3月に『四庫全書』の甘粛省図書館への避難を決定。9月に『四庫全書』と『古今図書集成』の移譲を行なった。10月に『四庫全書』と『古今図書集成』は甘粛省永登県の連城魯土司衙門の大経堂にひそかに保管され、1971年6月にはさらに楡中県甘草店の専用書庫に移送された。そして2005年以降は甘粛省図書館が建てた文溯閣四庫全書蔵書館に収蔵されている。

 1980年代以降遼寧省は甘粛省に対し『四庫全書』の返還を要求し続けているが、現在のところ実現していない。

参考文献・サイト(順不同)

王麗「文溯閣及其『四庫全書』」『瀋陽故宮博物院院刊』第5輯、2008年、pp.78~88

内藤湖南「文溯閣の四庫全書」
(青空文庫 
http://www.aozora.gr.jp/cards/000284/files/1733_21578.html  2006年8月13日アクセス
底本『内藤湖南全集』十二、筑摩書房、1970年、初出『大阪朝日新聞』明治四十五年(1912)年7月28日付 )

村田治郎『満洲の史蹟』座右宝刊行会、1944年

甘粛省図書館『四庫全書』蔵書館 (2010年10月7日アクセス)
http://www.gslib.com.cn/skqs/sk.asp

文溯閣『四庫全書』在甘粛四十年紀事 (2010年10月7日アクセス)
http://www.gslib.com.cn/skqs/sysj/zgjs.htm

遼寧甘粛争藏『四庫全書』 国之瑰宝将安身何処 (新華網からの転載、2006年8月13日アクセス)http://news.163.com/2004w02/12460/2004w02_1076550146916.html