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安田峰俊『中国・電脳大国の嘘――「ネット世論」に騙されてはいけない』文藝春秋、2011年

 

 最近の日本での中国報道では、中国のネット世論が盛んに取り上げられるようになった。その内容は、日本文化が流行して親日派が増加、政府批判が沸騰、一党独裁批判の声、などといったものが多い。これらの報道だけを見ていると、中国で今にも大変革が起きそうに思える。だが、このような「ネット世論」は果たしてどこまで中国社会の実態を反映しているのだろうか。 

 本書は、中国の掲示板を翻訳する人気ブログ『大陸浪人のススメ ~迷宮旅社別館~』の管理人であるノンフィクション作家安田峰俊氏が、日中アニメ文化交流・対日感情・ネット世論・ツイッター革命論・中国の変化への見方について、ネットウォッチ・現地取材などによる豊富な実例により論じたものである。

 

 第1章「『日中アニメ文化交流』の嘘」では、日本のアニメ・ゲーム・音楽など多くのポップカルチャーが中国に流入しているが、それが必ずしも「親日」中国人や日本通を増やしているわけではないことが明らかにされている。 
 著者は、ネットウォッチや著者自身の体験を通じ、日本発のポップカルチャーをきっかけに日本通になる者は比率としては非常に少数派であること、日本発のポップカルチャーは大多数の中国人にとっては単なる消費対象でしかなく、ゆえに相互理解の増進や対日世論の好転には結びついていないとしている。
 日本発のポップカルチャーが日中文化交流に大きな役割を果たしていることは事実だろうが、著者が指摘するように、それが日中相互理解の飛躍的増進に結びつくと考えるのは単なる「願望」でしかないだろう。

 

 第2章「『対日感情』の嘘」では、日中関係史や世論調査のデータを引用し、中国における「対日感情」・「対日世論」が指導者の示す「政治的正義」に常に左右されてきたことを示している。
 著者は、日中国交正常化から、2005年の反日デモ、そして2011年に至る対日感情・対日世論の変化を実例を元に振り返り、対日感情・対日世論の変化はあくまで指導者の指し示す意図、すなわち「政治的正義」によるところが大きく、日本側の外交努力や民間交流の促進とはほぼ無関係に発生するという結論を導き出している。
 要するに、指導者が対日関係を改善しようとすれば「親日」、そうでない場合は「反日」と、大衆の世論は極端なブレを見せる。そしてそれは日本側の動きとはほぼ無関係に起こるということだ。本文中の表現を借りれば「乗風転舵」(風見鶏)である。
 本章では、ある骨董商では福島第一原発事故の「風評被害」により中国からの客足がばったり途絶えたが、2011年5月の温家宝首相の訪日の翌週から客足がどっと増えたという非常にわかりやすい例が紹介されている。

 これは、自分が中国のリアル・ネットでの対日世論を観察してきた印象とも一致する。中国では反日の憤青(怒れる若者)も親日派・知日派も常に一定数存在する。だが、大衆の大部分は反日・親日のどちらでもない灰色で、政治的な生き残りのため、表向きは常に「政治的正義」に沿った行動を取る。つまり、指導者が白といえば白になり、黒といえば黒になる。それはリアルでもネットでも同じだ。結局、表に出てくるのは「政治的正義」の範囲内の意見だけということになる。日本人は世の中の「空気」を読むが、中国人は政治の「風向き」を読む。

 余談ながら、自分が住む大連でも2011年3月の東日本大震災後、地元各旅行社による日本ツアーの募集が一時全く途絶えたが、温家宝首相の訪日後、日本ツアーの募集がまるで申し合わせたかのように一斉に復活した。

 

 第3章「『ネット世論』の嘘」では、中国のネットユーザーは娯楽目的(チャット・音楽など)の利用が圧倒的に多く、「ネット世論」を担うユーザーはあくまで少数派であり、その影響力を過大評価してはならないことを指摘している。
 著者は、昨年7月の高速鉄道事故直後の現地取材、ネットウォッチおよび中国IT系シンクタンクの調査報告などを元に、日本の報道には、中国人全体から見てやや異端的な立場の人々をわざわざ探し出し、それを過度に一般化するという構図があることを示している。著者は、その背景には日本人の願望、すなわち――中国人は共産党政府に対して爆発するほどの不満を持っていてほしい、中国は何かのきっかけで民主化してほしい――という中国への一方的な理想論に基づく幻想があると指摘している。
 また、本章では中国政府・共産党のネット世論対策についても概説されており、参考になる。

 

 第4章「『ツイッター革命論』の嘘」では、ツイッター上で活発な言論活動を展開する中国「IT人」たちも変革の担い手となるには力不足であるとしている。
 著者は、中国ツイッターユーザーへのインタビューを交え、さらに中国社会の伝統的特質にも踏み込んでいる。著者は、過去の中国において、政権転覆後の混乱を最終的に収拾し、権力を握ったのは、中国「IT人」たちのような上品で知的で控えめなインテリではなく、粗野で旧時代的だが政治力と権力志向だけは異常に強い「皇帝」のような人物であったとし、革命の担い手としてのネットには否定的である。

 

 第5章「『変化する中国』の嘘」では、100年間にわたり「変わらない」中国社会と、「中国の変化」を一方的に期待するたびに現実に裏切られつづける日本人の「カン違いの歴史」について述べている。
 まず、韓寒・劉暁波・魯迅・孫文・陳独秀・鄒容ら近現代の中国知識人たち、そしてジャッキー・チェンの「中国人は管理される必要がある」発言に見られる中国人自身による中国人への抜きがたい愚民論の例を列挙し、解説を加えている。
 そして、支配者としての中国共産党のあり方は、武力・生活保障・知識人弾圧を「統治の三本柱」とし、それは過去100年あまりの間に中国を支配してきた清朝・北洋軍閥政権・国民党政権が実行してきた「大多数の愚民を効果的に統治する方法」を発展的に継承しているに過ぎないとしている。
 著者はこれについて「武力と権威を持つ『ヤクザ』のような中国共産党が多数の『バカ』な人民を支配し、そんな現状に『無力』な知識人や一部のインターネット利用者がコソコソ不平を言っているものの、総体的には盤石の支配が敷かれている――現在我々が目にしている二一世紀初頭の中国は、とにかくそんな国である」とまとめている。その上で、「日本人や西側諸国の人間にはまことに奇妙に思える話だが、中国の社会は我々の社会とは異なった内在論理に従って、マイペースに存在しているのである」と指摘し、中国社会への客観的な視点を呼びかけている。
 次に、著者は、中国に強い思い入れを抱き、辛亥革命から中華人民共和国建国・文化大革命などことあるごとに「中国の変化」を一方的に期待するが、現実の中国を見て幻滅し、対中強硬派・中国蔑視論へと転向していった日本人たちの例を挙げている。相手に過剰な思い入れを持つがゆえに、それが裏切られたときの失望感や嫌悪感も大きくなってしまう。
 その上で、最近の日本の中国報道で多々見られる「アニメの流行を通じた中国人の対日感情の改善」や「インターネットを通じた民主化の進展」への強い関心・期待も、こうした「カン違いの歴史」の延長線上の現象として位置づけている。

 本文の結論として、著者はこうした「カン違いの歴史」の「無限回廊」脱出の処方箋を提案している。要約すれば、中国に日本人としての理想を投影しないこと、中国蔑視による思考停止に陥らないこと、そして中国は日本の延長ではなくあくまで外国だという姿勢を取ることである。

 自分もこの処方箋には賛成。中国との付き合いはあくまで「君子の交わりは淡きこと水の如し」がよいと思う。中国をクールに見つめながら、外国として適度な距離を置き、無理に「友好」を演じることなく淡々と付き合いたい。
 中国が今後も「変わらない」のか、変わっていくのか、それはわからない。だが、著者が言うように中国が我々の社会とは異なる内在論理に従って存在している以上、少なくとも日本人が望む通りに変わることはないだろう。中国は日本の延長ではなく、あくまで「他人」である。これを忘れてはならない。

 

 本書全体を貫くテーマは、最近の日本での中国報道に見られがちな中国ネット世論への過大評価、すなわち「部分の全体化」への批判、そして日本人が抱きがちな中国の「変化」という幻想への警鐘である。

 なお、著者は本文において、本書のいわば前身にあたる『中国人の本音――中華ネット掲示板を読んでみた』(講談社、2010年)により、そうした風潮の火付け役を担った一人となったとして自己批判している。
 ただ、『中国人の本音』も本書も、中国ネット・リアル世論の多様性とそこから垣間見える中国社会の内在論理を紹介し、「部分の全体化」を戒めるという姿勢自体は一貫していると思う。著者のいうとおり、『中国人の本音』の結論であるネットによる「中国の変化」は修正が必要だろうが、紹介された多様な事例はなおも価値を失わないのではないだろうか。

 本書は、中国の現状に対する綿密な取材を横糸とし、中国の歴史への深い理解を縦糸とした中身の濃い中国論である。実のところ、この両者を兼ね備えた中国論は意外と少ない。安田峰俊氏は、現代中国の激しい変化を追いかけるフットワークと、長い中国の歴史をじっくりと考察する粘りの両方を兼ね備えた貴重なチャイナウォッチャーだと思う。

 本書は、情報量も多く、自分の拙い文章では到底紹介しきれない。興味を持った方はぜひ本書を手に取って読んでいただきたい。

 

追記:記事冒頭にアマゾンの商品リンクを貼りました。
(2015.1.22)