乾隆帝と満洲語地名

 遼寧省撫順市新賓満族自治県の「馬爾墩」(マルドゥン)という地名の来歴について、下記のニュース記事を発見。

“马尔墩”,一个靠乾隆御旨保存下来的满语地名  
抚顺新闻网 2012-05-07 13:25:22  
http://fushun.nen.com.cn/74874736101818368/20120507/2617097.shtml

(2012.6.24閲覧)

 記事内容は次の通り。
 記事は、新賓満族自治県の満洲語地名マルドゥン Mardun(馬爾墩)の来歴について語る。
 マルドゥンはヌルハチが勇敢に戦った古戦場であった(詳しくは本ブログ記事「
『満洲実録』名場面集 その4を参照)。だが、乾隆年間には現地への漢人の流入が進み、地名もいつのまにか漢語の影響を受けた「馬二屯」となっていた。
 そこで、乾隆帝は、乾隆二十五年(1760)七月、マルドゥンが属している盛京将軍管轄区(現在の遼寧省)の地名の漢語化を禁止し、これによりマルドゥンという満洲語地名が残ったという。

 ちなみに、清『高宗実録』での該当箇所は下記の通り。

『高宗實錄』乾隆二十五年七月甲辰(二日)

又諭、「盛京瑪爾吞地方、彼處漢人俱以馬二屯呼之、盛京所屬地名、多係清語、今因彼處漢人不能清語、誤以漢名呼之、若不及時改正、日久原名必致泯滅、著傳諭將軍清保等、所有盛京滿洲地名、漢人誤以漢名傳呼者、令俱查改、仍呼原名、並嚴飭彼處人等」、知之。

(日本語訳)
また、次のように上諭を下した。「盛京(盛京将軍管轄区)の瑪爾吞(マルドゥン)地方では、現地の漢人はみなこの地を『馬二屯』と呼んでいる。盛京に属する地名の多くは清語(満洲語)であるのに、今、現地の漢人は清語ができないので、誤って漢語名で呼んでいる。即時これを正さなければ、年月が経つにつれ、元の名前が滅びるに至るだろう。将軍(盛京将軍)清保らに命じ上諭を伝達させ、盛京のあらゆる満洲語の地名を、漢人が誤って漢語名で呼んだ場合はすべて調査し、改めさせ、元の名前の通りに呼ばせるようにし、あわせて現地の者を厳重に取り締まれ」等の上諭につきこれを知らしめよ。

( )内引用者注

 この上諭が発せられた後、マルドゥンの峠に「mardun furdan 馬爾墩福勒丹」(「マルドゥン関」の意)と刻まれた満漢合璧の石碑が立てられた。「furdan 関」という地名は、清朝成立前にここにダミン関 Damin furdan(代岷関、別名「二道関」)と呼ばれる関門が設けられていたことによる。
 ダミン関は、ヤルハ関 Yarha furdan(雅爾哈関、別名「頭道関」)、ジャカ関 Jaka furdan (扎喀関、別名「三道関」)と共に「建州三関」と呼ばれる関門の一つで、撫順・サルフ方面とヌルハチの勢力圏であるフェ=アラ・ヘトゥ=アラ方面(現在の新賓満族自治県一帯)を結ぶ街道上に位置する交通の要衝だった(今西 1967)。

 乾隆帝は、『清文鑑』等の辞典の編纂、満漢対照の典籍(四書五経等)の刊行、さらには「金州」・「錦州」の地名に関する命令(詳しくは本ブログ記事「sansi、šansi、ginjeo――漢語地名の満洲語表記についてを参照)等に見られるように、満洲語の保存と規範化に力を注いだ皇帝であり、この「マルドゥン」に関する上諭と石碑の建立もその一環として位置づけることができるだろう。

 だが、残念なことに、この石碑は、1980年に道路工事での発破作業中、不注意により真っ二つに爆破されてしまった。前掲ニュース記事によると、石碑の半分は永陵文物管理所に保管されているという。
 なお、石碑の残り半分はそのまま現地の土中に埋められてしまったらしい(承志・杉山清彦 2006)。

 

 マルドゥン関とマルドゥン城については、承志・杉山清彦両氏が2005年夏に現地踏査を行なっている(承志・杉山清彦 2006)。その際、満洲族の住民の話を聞いた所、かつてヌルハチがこの高台(墩)の上で子供(児)をののしった(罵)ので「罵児墩=馬児墩(馬爾墩)」と言うのだ、と語り伝えられているという。
 前述の通り、マルドゥンは満洲語の地名であるが、結局地名自体は残ったものの、乾隆帝の努力もむなしく、現地の満洲族の間ですら漢語で解釈されてしまうようになったらしい。

・・・・・・
史料・参考文献

史料
清『高宗実録』
(『清実録』中華書局、1985~87年→『清実録』超星数字図書館CD-ROM(中華書局版を画像データ化))

参考文献
今西春秋(1967)「Jušen国域考」『東方学紀要』2、天理大学おやさと研究所:1-172
承志・杉山清彦(2006)「明末清初期マンジュ・フルン史蹟調査報告――2005年遼寧・吉林踏査行」『満族史研究』5:55-84

乾隆帝と満洲語地名” に対して2件のコメントがあります。

  1. 龍心 より:

    満洲語地名論攷、拝見致しました。乾隆帝は趣味に留まらず文化保存にも力を入れて「同文」政策を推進致しました。誤爆されてしまったのは甚だ残念ですが、なんとか保存されてはいるのですね?
    『満語研究』の1980年代に発刊されたものには、水体名称(川の名前)についての論攷があります。これは、史書などの言語資料を集めて論攷を加えたものです。
    ここ最近は出講大学が多く、それに輪をかけて学会の役員などの仕事もあり休みが取れません。大学の仕事は、形而下学の観点から言えば、肉体労働が基層にあるというのは偽らざる実感です(笑)。
    またよろしくお願いします。

    1. 電羊齋 より:

      お仕事ご苦労さまです。
      コメントをいただきありがとうございます。
      この記事は「論攷」と言えるほどのものではありません。
      単に先学の成果の拙い紹介です。
      承志・杉山清彦(2006)によると、誤って爆破されてしまった碑の下半分の写真が『清史図典』1、太祖・太宗朝(紫禁城出版社、2002年)のp.37に掲載されているそうです。
      今度こちらの図書館などで探してみます。

      これから暑い盛りとなりますが、何卒ご自愛くださいませ。

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