LINEで送る
Pocket

安田峰俊『境界の民――難民、移民、抵抗者。国と国の境界線に立つ人々』角川書店、2015年2月

 

 周知の通り、現代の世界は「国民国家」というルールの下で動いている。

 本書タイトルの「境界の民」とは、そうした国民国家体制の「エラー部分」により、弾き出された人たちのことをいう。

 

 著者の安田峰俊氏はそうした「境界の民」への取材を通じ、国民国家の周縁に位置する「境界の民」の視点から国民国家、そしてマジョリティ(多数派)たる日本人の姿を照射している。

 

 日本で暮らすベトナム人たち、日本人「支援者」たちにより振り回されたウイグル問題と現地の絶望的状況、日中の架け橋となりうる人材を異分子として排除してしまう「ガラパゴス」的日本企業、上海の夜の街に生きるかつての軍閥の遺民、台湾の「ヒマワリ学運」の様相と日本人の台湾への誤解……。

 

 これら「境界の民」の生き様と彼らの日本へのまなざしから見えてくるのは、日本人の中に多々見られる「見たいものしか見ない(見えない)」人たちの病理だ。本書はそうした人たちを徹底的に批判する。
 そうした人たちは、「かわいそう」であったり「親日的」な「境界の民」をダシにし、手前勝手な偏見と論理で彼らを振り回す。
 「境界の民」の姿から見えてくるのは、ほかならぬ日本人、日本社会自身の姿だ。
 

 特に、ウイグル問題についてのレポートは白眉。
 右翼的な「情念派」、イデオロギー的な「知識派」、ブラック企業の社員さながらに懸命に働くがその結果には無責任な「ネット派」、そしてウイグル問題を利用しようとする保守派勢力などなど、日本人「支援者」たちの思惑に振り回され、日本ウイグル協会が迷走していく様子が如実に綴られている。
 当のウイグル人を置き去りにした、日本人「支援者」たちと一部ウイグル人の主導権争いにより、多くのウイグル人が傷ついた。
 日本人支援者たちの行動とその顛末を見ていると、日本社会の病理というやつが全てそこに集約されているような感じさえした。

 ニーチェではないが、「日本的、あまりに日本的な」というフレーズが頭に浮かんだ。

「助けてくれるのは嬉しい。でも、君たちのケンカで私たちを振り回さないでくれ。ウイグル人のことはウイグル人に決めさせてくれ!そう考えていました」(p.100)

「正直に言って、ウイグル問題を支援する日本人は信用できないと感じざるを得ません。なかには良い人も交じっているとは思いますが、彼らにしても『運動をやりたくてやってる人』じゃないんですか?本当に支援したいと考えてくれているのか、何かに利用したくてやっているのか本心がわからないんです」(p.142)

 ある在日ウイグル人の嘆きである。

 本書を読み終えたとき、まるで鏡で自分の醜い姿を見てしまったような気がした。読み終えて、これほど重い気持ちにさせられた本も珍しい。
 正直に告白すると、過去の自分にも「支援者」たちのような心情がなかったとはいえない。
 あらためて自省したいと思った。

 著者は、そうした「見たいものしか見ない」病理と向き合いつつ、自らがそうならないよう絶えず自制・自戒している。
 台湾ヒマワリ学運に接した著者の、学生たちに共感しつつも自制し、中立的視点を保とうとする態度は非常に誠実で好感が持てた。
 これはなかなかできることではない。
 この部分を読んだとき、著者の安田氏の中では、対象に寄り添う自分と、その自分を客観的に見つめるもう一人の自分とが確立できていると思った。
 それが著者を偏見から自由にし、本書の内容をより透徹したものとしているのだろう。

 

 偏見や先入観を持たずに、ありのままに見つめる。
 簡単なようで、なんと難しいことか。