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ヌルハチと火器(二)

四 「黒営」と「漢兵」

 本章では、当時、火器を装備していた部隊として史料に現れる「黒営 sahaliyan ing」と「漢兵 nikan i cooha」について述べる。

 まず、「黒営」の実態については、先行研究では大きく分けて三つの見解がある。

 第一に、天命四年(1619)のヌルハチのイェヘ部征服において、すでに「黒営」が従軍していたというものである(1)張晋藩、郭成康『清入関前国家法律制度史』(遼寧人民出版社、1988年)p.226

 第二に、「黒営」は、投降漢人により編成されたものであり、「漢兵 nikan i cooha」、さらには後の八旗漢軍とも関係があるとする見解である(2)滕紹箴「清初漢軍及其牛彔探源」(『満族研究』2007年第1期、2007年、pp.60-72)、謝景芳「八旗漢軍的名称及含義沿革考釈」(『北方文物』1991年第3期、1991年、pp.84-88)、三田村泰助「初期満洲八旗の成立過程について――明代建州女直の軍制」(『清水博士追悼記念明代史論叢』清水博士追悼記念明代史論叢編纂委員会編、大安、1962年)pp.334-335

 張建氏は、先行研究の整理と『満文老档』、『満文原档』の検討により、前者はこれら史料には「黒営」という記述はなく、単に「兵営 coohai ing」のみであるとし、後者についても、史料的な根拠が欠けていること、「漢兵 nikan i cooha」と太宗ホンタイジ時代に設置された「漢軍」一旗の旗の色が黒色(または青黒色)で共通していることからくる類推であるとして退けている(3)張建「清入関前“黒営”与“漢兵”考辨」」(『中国史研究』(北京)2016.4,2016年)pp.181-183

 第三に、「黒営」については、八旗の精鋭部隊である「バヤラ bayara(護軍)」以外の兵を指すという見解(4)鴛淵一「清初擺牙喇考」(『稲葉博士還暦記念満鮮史論叢』、稲葉博士還暦記念会、1938年)p.243、第四に、戦闘兵というより雑役兵、運搬夫としての性格が強い(5)阿南惟敬「清初バヤラ新考」(『清初軍事史論考』pp.504)という見解もあるが、これらについても『老档』、『満文原档』の検討により、退けている(6)張建「清入関前“黒営”与“漢兵”考辨」(『中国史研究』(北京)2016.4,2016年)pp.182-183

 『満文老档』太祖四十八 天命八年(1623)四月一日条には次のようにある(下線部筆者)。

四月一日に下したHanの書。「一 niruの甲士百人の内十人を白bayaraとしたい。この內二人に砲二門,三人に槍三本を持たせる。残りの九十人は分けて、四十人を 紅bayaraとしたい。この内十人に砲十門、二十人に搶二十本、残りの十人に戦車二台、水を容れる背壷二つを持たせる。黒営の五十人には、この內十人に砲十門、二十人に槍二十本、残りの二十人に戦車二台、梯子一丁、盤二丁、錐二丁、鈎二丁、鎌二丁、斧二丁、蓆四枚、差木二本、梢子棍一本、水を容れる背壷二つ、一月分の炭、綿甲十五領を持たせる。一jalanには大砲二門を持たせる。馬を放牧する時には、五niruが一処 に会し各自兵の漢人等や馬を一絡に合わせて、平虜堡以西、牛荘以東に放牧せよ。niru ごとに代子各一人を主として送れ。Jušen、漢人、蒙古人は馬十頭につき一人をして見守らせよ。馬を逃亡者が連れて行ったり、賊に盗まれたり、Jušenの馬が肥え、漢人の馬が瘦せたりすれば、率いて行った代子に罪がある。一niruには馬各二頭を繫げ。備御一人は馬各一頭、遊擊、参将は各二頭、将は各三頭、総兵官は各四頭、一等総兵官は各五頭を繫げ。」

 そして、張建氏は主にこの史料に基づき、黒営は八旗のニルに基づき編成され、バヤラとは異なる部隊で、火砲を装備しており、漢人・漢兵とは関係がない(当時の八旗のニルの甲士(兵士)には漢人は編入されていなかった)としている。また、火器だけでなく、戦車(盾車とも呼ばれ、前面に盾が装備された手押し車)、梯子等の装備から、攻城戦用の軍だったとしている(7)張建「清入関前“黒営”与“漢兵”考辨」pp.183-185

 このように、「黒営」とはジュシェン人(女真人)の旗人によって編成された火器部隊であった。

 

 次に、「漢兵」については、文字通り漢人の兵であり、投降漢人により編成された火砲を装備した部隊だった。前掲の『満文老档』太祖三十二 天命七年(1622)正月六日条では、ヌルハチの命令として、以下が記載されている。

六日に下したHanの書。「漢人の官人で四千人を管轄する者は兵二百人を出し、そのうち一百人に大砲十門、長砲八十門を準備し、残りの一百人を意のままに私用に使え。三千人を管轄する者は兵一百五十人を徴し、大砲八門、長砲五十四門を準備し、内七十五人を意のままに私用に使え。二千人を管轄する者は兵一百人を徴し、大砲五門、長砲四十門を徴し、内五十人を意のままに私用に使え。Jušenの官人で二千七百人を管轄する者は兵一百三十五人を徴し、その内六十七人に大砲六門、長砲四十五門を持たせ、残りの六十七人を意のままに私用に使え。一千七百人を管轄する者は兵八十五人を徴し、その内四十四人に大砲四門、長砲三十六門を持たせ、残りの四十一人を意のままに私用に使え。一千人を管轄する者は兵五十人を徴し、その内二十五人に大砲二門、長砲二十門を準備し、残りの二十五人を意のままに私用に使え。五百人を管轄する者は兵二十五人を徴し、その内十人に大砲一門、長砲八門を準備し、残りの十五人を意のままに私用に使え」

 当時、ヌルハチは、有力な重臣を「都堂 du tang(またはdutan)」に任じ、国政の中枢機関としていた。都堂は遼東の旧明領の漢人統治も管轄しており、漢人への命令はしばしば都堂を通じて漢人官僚に下され、漢人官僚たちが漢人を管理するという間接統治の形式を採っていた(8)松浦茂『清の太祖ヌルハチ』(中国歴史人物選第11巻、白帝社、1995年、pp.240-245。ここで「漢人の官人」が管轄していたのは漢人で間違いないだろう。

 ここでは漢人4000人あたり兵200人を徴兵し、うち100人に大砲10門、「長砲 cangpoo」を準備させるとしている。張建氏は、『満文老档』原文では「長砲 cangpoo」に黄色の傍線が引かれ、付箋に「謹んで考えるに、『長砲 cang poo』という言葉は、思うに『鳥槍 miyoocan』という言葉ではないか」と記されていることから、この「長砲 cangpoo」は「鳥槍」のことではないかと推測している(9)張建「清入関前“黒営”与“漢兵”考辨」(『中国史研究』(北京)2016.4,2016年)pp.187-188。筆者も、「長砲 cangpoo」は漢語の「槍砲」と発音が類似しているので、「長砲 cangpoo」は「鳥槍」または「鳥槍とその他の火器」を指すと考える。

 そして、「漢兵」は天命八年(1623)四月、モンゴルのジャルート部のアンガ=ベイレ Angga Beile征討に従軍している。『満文老档』太祖五十 天命八年(1623)四月二十六日にはその時の様子が記されている(下線、カッコ内筆者)

Angga Beileは、Genggiyen Hanが遣わした使者を道を遮って何度も殺し、また 彼のもとに遣わした使者を捕えて仇敵Yeheに引き渡して殺した。このことを憤って、 Abatai Age、 Degelei、 Jaisanggu、 Yoto の四王に Jušen 兵一千、蒙古兵一千、砲を持った漢人の兵(原文は「nikan i cooha 漢兵])八百を付け、四月十四日に出発した。二十一日の夜は徹夜して進み、 二十二日の朝、寅の刻にLooという地を過ぎ、遼河の渡し場を渡った。それから兵を放って馳せたが、前もって選び出した精兵五十ばかりに将たるDaimbu総兵官は先頭に立って馳せた。Ergeleという地に到つた時、日が出て 一竿足らず昇つていた。その地から蒙古人の村を探して進みながら百里の先に軍は到った。Daimbu 総兵官、Yahican 参将、Borjin Hiya が Angga Beile の家を目指して攻めて行くと、Angga Beileは妻子を率いて騎馬し、これに従う僚友二十余人の半は徒步、半は騎馬、車には牛を繫いで疾走し逃げ去った。そこでYahicanとBorjin Hiyaは三十余人の兵を率いて下馬しDaimbu総兵官は十余人の兵を率いて騎馬のまま立っていた。すると蒙古共は、下馬した徒歩の我が兵にはかまわず、騎馬している Daimbu総兵官のもとへ攻めて行ったが、我が兵の中に突入することができずに引き返した。その時Daimbu総兵官は独り衆に先立って敵の方へ射ていたが、一人の蒙古人が突いた槍が口に中って落馬した。衆兵士は敵を逐って行き、Angga Beile父子を皆獲て殺した。

 このように「砲を持った」漢兵800人が従軍している。

 ただ、この戦いにおいて漢兵が具体的にどのような役割を果たしたについては、史料の欠乏のため、これ以上の情報は得られなかった。

 

 以上のように、ヌルハチの時代にも火器部隊が編成され、少なくともその一部は実戦にも参加していたことがわかる。

 また、「黒営」と「漢兵」との関係は不明瞭だが、火器を装備した兵が城郭、要地に配備され、守備に当たっていたこともうかがえる。

 例えば、『老档』太祖五十 天命八年(1623)四月二十七日条には、

Baduri総兵官は八旗の遊擊八人,砲八十門,兵一千を率い,北境外の遼河沿岸の渡し場を人が往来するので,そこに壕を掘りに行った。

とある。

 だが、それにもかかわらず、ヌルハチの火器導入、火器部隊の編成は結局挫折に終わることになる。

 その要因については、次回詳しく検討したい。

 

(後記)本記事は、上、中、下の3回とする予定でしたが、予定よりかなり長くなりそうなので、一、二、三、四の4回構成とすることにしました。

ヌルハチと火器(四)

史料

『満文老档』→『満文老档』I~VII、満文老档研究会訳註、財団法人東洋文庫、1955-63年

参考文献

(中文)
張晋藩、郭成康『清入関前国家法律制度史』(遼寧人民出版社、1988年)
滕紹箴「清初漢軍及其牛彔探源」(『満族研究』2007年第1期、2007年、pp.60-72)
謝景芳「八旗漢軍的名称及含義沿革考釈」(『北方文物』1991年第3期、1991年、pp.84-88)
張建「清入関前“黒営”与“漢兵”考辨」(『中国史研究』(北京)2016.4,2016年、pp.177-190)

(和文)
阿南惟敬「清初バヤラ新考」(『史学雑誌』80-4、1971年、pp.1-39→阿南惟敬『清初軍事史論考』、甲陽書房、1980年、pp.495-537)
鴛淵一「清初擺牙喇考」(『稲葉博士還暦記念満鮮史論叢』、稲葉博士還暦記念会、1938年、pp.217-268)
松浦茂『清の太祖ヌルハチ』(中国歴史人物選第11巻、白帝社、1995年)
三田村泰助「初期満洲八旗の成立過程について――明代建州女直の軍制」(『清水博士追悼記念明代史論叢』清水博士追悼記念明代史論叢編纂委員会編、大安、1962年、pp.315-355→三田村泰助『清朝前史の研究』東洋史研究会、同朋舎、1965年、pp.283-322)

   [ + ]

1. 張晋藩、郭成康『清入関前国家法律制度史』(遼寧人民出版社、1988年)p.226
2. 滕紹箴「清初漢軍及其牛彔探源」(『満族研究』2007年第1期、2007年、pp.60-72)、謝景芳「八旗漢軍的名称及含義沿革考釈」(『北方文物』1991年第3期、1991年、pp.84-88)、三田村泰助「初期満洲八旗の成立過程について――明代建州女直の軍制」(『清水博士追悼記念明代史論叢』清水博士追悼記念明代史論叢編纂委員会編、大安、1962年)pp.334-335
3. 張建「清入関前“黒営”与“漢兵”考辨」」(『中国史研究』(北京)2016.4,2016年)pp.181-183
4. 鴛淵一「清初擺牙喇考」(『稲葉博士還暦記念満鮮史論叢』、稲葉博士還暦記念会、1938年)p.243
5. 阿南惟敬「清初バヤラ新考」(『清初軍事史論考』pp.504)
6. 張建「清入関前“黒営”与“漢兵”考辨」(『中国史研究』(北京)2016.4,2016年)pp.182-183
7. 張建「清入関前“黒営”与“漢兵”考辨」pp.183-185
8. 松浦茂『清の太祖ヌルハチ』(中国歴史人物選第11巻、白帝社、1995年、pp.240-245
9. 張建「清入関前“黒営”与“漢兵”考辨」(『中国史研究』(北京)2016.4,2016年)pp.187-188