ヌルハチと火器(四)

ヌルハチと火器(三)

五 対漢人政策の迷走

 だが、ヌルハチによる火器導入は、思わぬ要因により頓挫することになる。それは対漢人政策の迷走であった。
ヌルハチは、遼東の漢人社会を支配下に収めた当初、漢人への「善政」により、漢人の人心掌握を狙った。だが、主観的には「善政」であっても、価値観と社会構造が異なる漢人にとってはそうは映らなかった。

 例えば、当時の漢人社会でよく見られたように、漢人官僚らは租税以外にさまざまな名目を設けて農民から金品を巻き上げており、彼らの多くはこの手の金品をいわば俸給の一部とみなしていた。しかしヌルハチはそれを認めず、漢人官僚を厳しく取り締まった。

 農民に対しては、満洲旗人に対するのと同様に徭役(労働)を強制したが、明朝の漢人社会ではすでに貨幣経済が浸透しており、徭役の代わりに銀を納付し、政府がその銀で労働者を雇用する形を採っていた。このように徭役の銀納化が一般化していた漢人農民らは徭役を忌避したり、官僚に金品を贈って目こぼしをしてもらっていた。だが、貨幣経済が浸透していない社会に育ったヌルハチにとっては、それは理解できないことだった。

 さらに、漢人農民の強制移住、移住してきた満洲人による漢人への虐待や強奪、過酷な徭役も加わって、漢人官僚、漢人農民の心は次第に離れていった。
その上、このような人心動揺につけこんだ明朝側や毛文龍による調略やゲリラ戦もさかんに行われ、特に天命八年(1623)以降、漢人官僚の内通、漢人農民の逃亡・反乱が頻発するようになっていく。

 これに対し、ヌルハチはこれまでの政策をかなぐり捨て、漢人への大弾圧に転じることになった。

 天命九年(1624)以降、ヌルハチは頻発する漢人の反乱に対し殺戮で応じた。

 天命十年(1625)年十月には、反乱の指導者となりうる明のときの官僚、挙人・生員らインテリ層、土豪らをほとんど殺害した。そして農民たちは「トクソ tokso」(荘田)と呼ばれる単位に編入され、ヌルハチと属下のベイレ(諸王)たちに属することになった(1)石橋秀雄 1989、137-157頁、松浦茂 1995、276-279頁。 

六 火器導入の挫折

 そして、「漢兵」もこの動きとは無縁ではいられなかった。

 『満文老檔』太祖四十八 天命八年(1623)四月六日条には次のような命令が記されている。

四月六日に下した都堂の書。「漢人の兵士(原文 nikan i coohai niyalma)、白身の者は、すべての者の有する弓箭、腰刀、槍、砲などの兵器を二十日までに、各自管轄する官人のもとに送って来い。二十日以後、兵器を送って来ず蔵していると吿発されれば重罪とする。漢人の工匠等は、箭、 腰刀、槍などの兵器を売るのをやめよ。十日以後に売れば売った者に罪があり、買えば買った者に罪がある。官人等は、各自の属下の者が兵器を送り来終ったと、二十日に書を上れ。」

 ここでの「漢人の兵士」は前述の「漢兵 nikan i cooha」であり、火器を装備する「漢兵」でさえ、砲の提出を求められているのである。この時期は漢人による反乱が頻発していた時期であり、ヌルハチが漢人への不信感を高めつつあった時期であった。

 張建 2016 では「漢兵 nikan i cooha」が最後に資料に登場するのは「満文原檔」の同年5月の記事であり、「漢兵」の解散がいつかは不明瞭ではあるが、上記の漢人への殺戮、トクソ編入から考えれば、天命九年(1624)から天命十年(1625)ではないかとしている(2)張建 2016、189頁。このころには、漢人は弾圧の対象であり、彼らによる火器部隊編成などすでに考えられなくなっていたと思われる。

 一方、ジュシェン(女真人)による火器部隊「黒営」も前述の『満文老檔』太祖四十八 天命八年(1623)四月一日条を最後に史料から姿を消す(3)張建 2016、p.185。

 これも漢人に対する大量殺戮により、火器を運用するだけの基礎条件が整わなくなったことによるものだろう。

 天命十年(1625)八月、コルチン部のオーバ=タイジは、ヌルハチに砲手千人の派遣を要請したが、それに対しヌルハチが派遣したのは漢人の砲手わずか八名だった(4)『満文老檔』太祖六十五 天命十年八月九日、八月十日条

 たった二年前の天命八年四月には八百名の漢人砲手を動員できたのに、漢人砲手たった八名はあまりに少ない。

 やはり、漢人への大弾圧がアイシン国(清)全体の火器運用能力をも衰退させていたと考えるのが適切だろう。

 そして、ヌルハチは天命十一年(1626)の寧遠城の戦いで、袁崇煥率いる明軍の紅夷砲の前に苦杯をなめることになる。

おわりに

 明との戦いの中で火器の威力を知ったヌルハチは、自軍の火器の整備を図り、一応の成果を上げている。ヌルハチは火器について無関心であったわけではない。

 だが、それは自らの漢人への大弾圧により、挫折に終わった。

 ヌルハチの後を継いだホンタイジは、漢人弾圧をとりやめ、漢人を積極的に登用し、漢人の持つ技術力、火器運用能力を引き出す政策へと転じた。漢人たちはホンタイジに協力し、やがてそれは紅夷砲を始めとする火器の自国生産、自国領域・勢力の飛躍的拡大へと結実していく(5)田中宏巳 1973-74、
田中宏巳 1974

 ヌルハチとホンタイジの火器導入の失敗と成功は、対漢人政策の失敗と成功の差にほかならないということだろう。

【追記】

 本稿の執筆の途中で、『満文原檔』にて、太祖ヌルハチ時代の火器のアイシン国内製造を示す可能性がある史料を確認した。張建氏の論文にも引用されている(6)張建 2016、p.183。以下に掲げる(筆者訳)。

《ere be ūme》
○**han i bithe tofohon de wasimbuha:…/
○*tutan i bithe wasimbuha:nikan i [cooha] orin niyalmade emu niyalma ilibubikai / ilihabikai,jiramin halukan etuku obu:tuweri bigan de yabuci beikuwen / de tosorakū:morin be saikan tarhū tarhubu:morin eden niyalma / wacihiyame uda:coohai niyalma beri jebele ūme dagilara:gemu boo miocan jafa: / boo miocan akū oci : nikan i faksi de jūsen i faksi de acabubi tubu:/cooha miyalma de gemu jūsen doroi uksin tū:
(《 》内は底本の欄外に記された加筆、**は二字抬頭、*は一字抬頭、…は筆者による省略、/ は原文の改行,[ ]内は原文の加筆箇所、下線部は塗改部分(内容は推測))

《これを書くな》
ハンの書を十五日に下した。(略)
都堂の書を下した。漢兵 nikan i cooha を二十人に一人立てたのであるぞ。厚い暖かい着物とせよ。(さもなければ)冬に野外を行く時寒さを防げない。馬をよく肥やせ。馬が欠けている者は(馬を)ことごとく買え。兵丁は弓えびらを備えるな。みな砲、鳥槍(火縄銃)を執れ。砲、鳥槍がないなら、漢人の工匠をジュシェンの工匠に立ち会わせて打たせよ。兵丁にはみなジュシェンの道(製法による)の鎧を打て。
(《 》内は底本の欄外に記された加筆。( )内筆者)
(『満文原檔』列字檔、天命八年(1622)正月十五日条)

 しかし、第一にこの個所は他の記事と一緒に枠で囲まれ、枠の左外に「これを書くな」と付記がある。第二に管見の限り当時の火器の製造数、製造実績を明確に示す史料が発見できていない。第三に前述の通りこの史料以外では太祖ヌルハチ時代の火器自国製造について確認できない。そして第四に、アイシン国(清朝)側の史料が口を揃えて、太宗ホンタイジの時代に初めて火器の製造に成功したと記している。

 従って、この命令がどの程度実行されたものかはよくわからない。

 おそらくは火器製造は実行に移されなかったか、火器を製造していたとしてもごく少数だったのではなかろうか。

史料

『満文老檔』→『満文老檔』I~VII、満文老檔研究会訳註、財団法人東洋文庫、1955-63年
『満文原檔』→『満文原檔』第一冊~第十冊、国立故宮博物院編、国立故宮博物院、2006年

参考文献

(中文)
張建 2016:「清入関前“黒営”与“漢兵”考辨」『中国史研究』(北京)2016年第4期、177-190頁

(和文)
石橋秀雄 1961:「清初の対漢人政策――とくに太祖の遼東進出時代を中心として」『史艸』2号、1961→石橋秀雄 1989:『清代史研究』緑蔭書房、1989、137-157頁
田中宏巳 1973-74:「清初における紅夷砲の出現とその運用」1~4『歴史と地理・世界史の研究』78、79、81、82、23-30頁、11-25、12-18頁、11-23頁
田中宏巳 1974:「清朝の興隆と満洲の鉱工業 ―― 紅夷砲製造を中心として」『史苑』第34巻1号、66-82頁
松浦茂 1995:『清の太祖ヌルハチ』中国歴史人物選第11巻、白帝社

戻る1 石橋秀雄 1989、137-157頁、松浦茂 1995、276-279頁
戻る2 張建 2016、189頁
戻る3 張建 2016、p.185。
戻る4 『満文老檔』太祖六十五 天命十年八月九日、八月十日条
戻る5 田中宏巳 1973-74、
田中宏巳 1974
戻る6 張建 2016、p.183