LINEで送る
Pocket

はじめに

 本章では、清代における火器の摂取とその運用について、先行研究に基づいて概括的に述べ、本論への導入としたい。

 

第1節 火器の特色

 

 火器の兵器としての特色を三点に整理すれば、

①火器は高速の弾丸と、音と光、硝煙等により、敵に物理的・精神的打撃を与える兵器であり、集中的な運用によって初めて効果を十全に発揮しうる。
②従って、火器の運用は、数的優勢と多量の弾薬消費を必要とし、よって国家財政の整備と高度に発達した生産体制(製造技術、原料確保、鉱工業の発展)、輸送能力の確保が不可欠となる。
③複雑な機構を持ち、精緻な操作技術を必要とすること。

となる。
 ヨーロッパ諸国では、火器に関するこれらの要件を満たすため、非常な努力を払った。①に対する回答は、騎士による個人戦に代わる、方陣や横隊による火器の集団的運用であり、そのため軍隊には統一的な部隊編成と一糸乱れぬ規律が要求された。そのため、③の要件ともあいまって、軍人、兵士の専門職化と、君主権に直属する常備軍の整備、火器の規格統一が行われた。②の要件は、都市におけるマニュファクチュア(工場制手工業)の繁栄と商人、手工業者による財政的援助、独裁君主による彼らへの保護-重商主義-と強大な中央権力によって実現された(1)近世ヨーロッパにおける火器発達とその影響については、日本では、有馬氏、前掲書、 pp309~502,第五章「東洋火器のヨーロッパへの伝流」、第六章「ヨーロッパにおける火器発達の文化史的意義」が代表的な論考である。また、火器の発達がもたらした戦争遂行能力の向上と国家、経済体制の変革については、ジェフリ・パーカー著、大久保桂子訳『長篠合戦の世界史―ヨーロッパ軍事革命の衝撃1500~1800年―』(同文館、1995。原書 Geoffrey Parkar, The mifftary revolution:Military innovation and the rise of the west,1500~1800 Cambridge University Press,1988)にて検討されている。また、同書は東アジア地域への西洋火器の伝播と受容についても、 pp157~198、第四章「非ヨーロッパ世界の軍事革命」にて言及している。
 その意味で、火器の発達と普及とはすぐれて近世史的な現象であって、それによって引き起こされた重大な歴史的変革は、しばしば「軍事革命」という言葉で形容される(2)ジェフリ・パーカー、前掲書、 pp11~113、第一章「ヨーロッパ世界の軍事革命」、第二章「戦争の需要と供給」。
本章では、中国近世最後の王朝たる清が、いかにこの「軍事革命」を受容し、火器を導入していったかについて、大掴みに述べて行きたい。

 

第2節 清初における火砲の導入

 天命元年(1616)正月、清の太祖ヌルハチ(努爾哈赤)は、ハン位に就き、清(後金)を建国し、同三年(1618)四月、『七大恨』を発し、明に戦いを挑んだ。清軍は、この明軍との交戦の過程で火器と出会ったのである。
 天命十一年(1626)正月、清軍は山海関前面の寧遠城を攻めたが、紅夷砲を擁する明軍の反撃に遭い、惨敗した。
 紅夷砲とは、明末に徐光啓の高唱により、マ力オ在住のポルトガル人より導入された火砲、およびこれをモデルとして製造されたものである。形式は前装式のカノン砲に属し、長砲身で緩焼性の火薬を使用し、射程は約1~2 kmであった(3)田中宏巳「清初に於ける紅夷砲の出現とその運用」(一)~(四)(『歴史と地理・世界史の研究』78、79、81、82、1973~74)、 pp23~30。

紅夷砲

紅夷砲(「紅衣砲」) 『皇朝禮器圖式』巻十六 武備

 その頃ヌルハチも火器の使用に注意し始めており、天命七年(1622)正月には帰順した漢人に命じ、その管轄下の人口に応じて、一定の数量の火砲を準備することを命じてはいたが(4)  『滿文老襠』(『滿文老襠』 II太祖2、満文老襠研究会訳注、東洋文庫、1956)太祖第三十二、天命七年正月六日條。、実行された気配はなく、史料からも、天命年間に後金軍の火器が実戦に使用された形跡は見られない〔近年の研究によると、天命年間にも火器が実戦配備・使用されていたと思われる。主な研究として、張建「清入関前黒営漢兵考辨」(『中国史研究』(北京)2016.4,2016年、pp.177-190)がある〕。   
 父ヌルハチの跡を継いだ太宗ホンタイジ(皇太極)も、明軍の火器によって度々苦杯をなめさせられていた。天聡三年(1629)から翌四年にかけて、後金軍は、内モンゴルを経由して北京を攻撃し、灤州、永平など四つの城市を占領したが、四年五月、明軍が逆襲に転じると素早く長城外に撤退した(己巳虜変)(5) 「己巳虜変」の経過は、李光濤「論崇禎二年『己巳虜変』」(『歴史語言研究所集刊』第十八巻、1948→同『明清檔案論文集』聯経出版事業公司、1986)と、渡辺修「『己巳の役』(1629~30)における清の対漢人統治と漢官」(『松村潤先生古希記念清代史論叢』松村潤先生古希記念論文集編纂委員会編、汲古書院、1994)に詳細に述べられている。
 このときも、清軍は明の紅夷砲によって手痛い敗北を喫している。田中宏巳氏は、この戦いが、明軍の紅夷砲を捕獲し、持ち帰った初めての機会であった可能性が高いとし、明清双方の史料を検討し、寧遠城の戦いの時点では、清は紅夷砲の出現を認識していないことを明らかにし、紅夷砲製造のきっかけは寧遠城の戦いではなく、この灤州、永平の戦いであったとしている(6)注(3)参照。
 そして、天聡五年正月、ホンタイジは佟養性ら投降漢人に命じて、初めて3門の紅夷砲の鋳造に成功し、そのほかの火器も徐々に製造されるようになった。
 佟養性は、もともと満洲族のトゥンギャ(佟佳)氏族に属していたが(7)『八旗滿洲氏族通譜』(影印本、遼瀋書社、1989)卷二十、佟佳地方佟佳氏。、祖先の達爾漢図墨図の時、開原に移住し、漢人風に佟姓を名乗り、貿易活動に従事するようになった(8)三田村泰助「清朝の開国伝説とその世系」(『立命館大学五十周年記念論文集』1951→同『清朝前史の研究』東洋史研究叢刊十四 東洋史研究会1965)によれば、彼は明初、永楽年間の人物で、奴児干永寧寺碑文にも「佟答刺哈」として現れており、佟一族は明の東北経営に大きく貢献した。達爾漢図墨図の子孫はやがて明・女真貿易の拠点である撫順に移って、大きな経済力を築いたのであるが、天命四年(1619)に撫順が陥落した時、佟養正は一族を率いてヌルハチに投降した。佟養性はこの佟養正の従兄弟に当たる人物であった。佟氏一族は、既に漢人の間での生活が長く、その制度・習慣を熟知していたから、ヌルハチ・ホンタイジによって重用され、清初の対漢人政策の中軸として、大きな役割を果たしている。佟養性は後にヌルハチの孫娘を娶っており、佟養正の次子佟図頼は入関後の中国平定で功を立て、その娘は順治帝に嫁ぎ(佟貴妃)、康熙帝を産んだのであった(9)注(7)参照。
 紅夷砲の製造に際しても、佟養性は漢人を取りまとめるのに大きな役割を果たしており、後に投降漢人によって八旗漢軍が編成された際、佟氏も漢軍に配属され、清朝への火器導入に大きく貢献したのである。

 

第3節 生産・輸送体制の確立

 

 さて、冒頭で挙げた火器の兵器としての特色の②は、

 

②火器の運用は、数的優勢と多量の弾薬消費を必要とし、よって国家財政の整備と高度に発達した生産体制(製造技術、原料確保、鉱工業の発展)輸送能力の確保が不可欠となる。

 

であった。本節では、清朝がいかにしてこの要件を満たすようになったかについて、(a)生産体制の確立、(b)輸送問題への対策の二つに分けて論じたい。
(a)生産体制の確立
 明代の満洲人の鉱工業は極めて幼稚な段階にあり、外国(主に明)から購入した鉄製品を、希望の形に打ち直すのみであった。従って、清朝の鉱工業部門は、建国より周辺諸民族、就中漢人の協力を求めざるを得なかったのである。
 一方、明朝治下で、東北の鉱工業は大いに発達していた。明代に至って、東北には山東布政司に属する25の衛所が設置され、各衛所内には、鉄の採掘と精錬に従事する鉄場が設置され、明代中期以降、衛所が必要な鉄を現地で、民間から買い上げるようになった。田中氏は、その背景には、この頃から本土内で普及しつつあった、炉戸、炉首によって率いられ、作業工程が分業・組織化されたマニュファクチュア的生産集団が鉄と銀を求めて東北に流入してきた事情があったことを明らかにし、このようなマニュファクチュア的生産形態に達しようとする東北の鉱工業を、清朝は国家発展の政治的、経済的基礎構造として八旗制度(八旗漢軍)に組み込んでいったとしている(10)佐久間重男「明代後半期の製鉄業―民営企業を中心に―」(『青山史学』第二号1972)、田中宏巳、前掲論文。
 後、崇徳七年(1642)には、錦州を占領した直後に兵器工廠を移設し、紅夷砲35門、砲弾24000発を製造している。なお、この年、投降漢人の増加により、新たに八旗漢軍が編成されている(11)序注(3)参照〔及び田中氏前掲論文〕。田中氏は『八旗通志』(初集)(李洵、趙徳貴主点校、東北師範大学出版社1985)卷一百七十二、名臣列傳三十二、鑲黄旗漢軍世職大臣、馬光輝に見える生産数に基づいている。
 順治年間(1644~1661)は、概ね明代後期の制度を踏襲し、中央で火薬・火器の製造が行われた。火薬の製造は工部の濯霊廠によって行われ、石碾(石臼)200盤が設けられ、臼1盤毎に火薬30斤(約17.9 kg)を置き、3日問挽いたものを実戦(軍需)用として保管し、1日挽いたものは演習に用いた。実戦用の火薬は30万斤(約179t)を基準として、使用の度に補充されていた。火器は、兵部所定の形式により、工部によって製造されるようになった(12)乾隆『大清會典則例』(影印本、『欽定四庫全書』史部、政書、上海古籍出版社、1987)卷一百三十、工部、火藥。
 順治元年(1644)五月、山海関を越えて北京に入城したドルゴン(多爾袞)は直ちに、八旗の各旗に砲廠(砲局)と火薬廠を開設し、八旗に配備された火薬・火器を管理させている。入関前の伝統を引継ぎ、八旗の砲廠と火薬廠は清代を通じて八旗漢軍の管轄下に置かれ、各旗から旗人が派遣され警護に当たった。この点は地方の八旗駐防も同様であった(13) 『八旗通志』(初集)卷二十五、營建志三、八旗礮廠、八旗火薬廠には、各旗に一力所、計八力所づつ設置された礮廠、火薬廠の位置と面積について記載し、注(15)の史料によれば、設立は「順治初年」である。これらの火器は、李自成、南明政権や台湾の鄭氏との戦いに使用され大きな効果を挙げたのである(14)(17)王兆春『中国火器史』(軍事科学出版社、1991)、p255。
 この外、順治元年にはさらに兵器製造を管理する「鞍楼」が設立され、順治十一年(1654)に兵仗局、十八年(1661)に武備院に改められた。武備院は、内務府に属し、御鳥鎗処と内火薬庫が設けられ、皇帝御用の火砲と火薬を収蔵していた(15)田中克己「対国姓爺合戦における漢軍の役割」(『和田清博士古希記念東洋史論叢』同論叢編纂委員会編、講談社、1960)。氏は、主に『八旗通志』(初集)の漢軍旗人の列伝を史料として、対鄭氏戦において火器を使用する漢軍が大いに活躍したことを明らかにしている。
 康熙年間(1662~1722)には、順治年間の制度に一定の調整が加えられ、三か所の砲廠が設立された。紫禁城内の養心殿造辧処と景山の二ヵ所で鋳造した砲は「内造」、または「御製」と称せられ、優れた性能を持ち、主に宮廷内や本稿で述べる火器営によって使用された。鉄匠営(現、北京市崇文区崇文門付近)の砲廠は、漢軍や緑営兵の使用する鉄製火砲を製造し、「廠制」と称せられた。養心殿造辧処は清代において最も重要な火砲製造拠点であり、重要な砲については、皇帝自ら官員を指定して火砲製造を監督させたが、一般的には工部より官員が派遣され、景山と鉄匠営の砲廠は工部によって管理されていた(16)王兆春、前掲書、p259。
 火砲の製造数は、その時々の状況によって定められ、一定の制度は全くなく、ヨーロッパ諸国とは異なり、火器、及び弾薬の規格統一も厳密に行われてはおらず、雍正年間(1723~1735)以降は、補給と運用の際に大きな支障を来した(17)頼福順『乾隆重要戦争之軍需研究』(故宮叢刊甲種之卅一、国立故宮博 物院、1984) pp293~300第五章、第一節「軍器之供給」。また、『上諭八旗』(影印本、『欽定四庫全書』史部、詔令奏議類、上海古籍出版社、1987)卷十、雍正十年(1732)三月三日には、当時、対ジューンガル戦の最前線である西部モンゴルに駐屯する北路軍の兵丁が、鳥鎗と弾丸の口径が合わないとの不満を述べたことが、前線から戻った侍衛によって報告され、それに対し雍正帝が「各該處を著て、現今、軍營に運送する器械を將て、悉く式の如く製造令しめよ。」と弾薬の規格を遵守させるよう命じている、という事例が見出せる。しかし、頼氏の著書によれば、乾隆年間以後も火器、弾薬の規格統一は依然、厳密さを欠いていたようである。
 三藩の乱勃発の翌年の康熙十三年(1674)八月、康熙帝は兵部に「大軍進剿せば、急ぎ火器を須(もと)めん。暦法を治理せる南懐仁を著(し)て火礮を鋳造せしめよ。」(18)『聖祖實録』(影印本、『清實録』、中華書局1985~87)卷四十九、康煕十三年八月壬寅(十一日)。と諭し、イエズス会士フェルビースト(南懐仁)に火砲の鋳造を命じている。
 フェルビーストの鋳造した火砲は、紅夷砲と基本的な設計は同じであるが、江南の複雑な地形を想定して、軽量化が図られている。彼は康熙十三年から同二十六年(1687)五月に没するまで火砲の製造を指揮し、その数は各種合わせて566門にも上るという(19)舒理広・胡建中・周静「南懐仁与中国清代鋳造的大砲」(『故宮博物院院刊』1989年第1期、1989)。
 当時は、社会・経済が日増しに繁栄の度を加え、科学技術水準もそれに応じて向上し、戴梓のような著名な火器専門家が出現した。戴梓(1649~1726)は浙江の人で、三藩平定の時「布衣」の身分をもって従軍し、その博才多芸によって康熙帝に召され、大学士の職街に任命され、南書房に詰めた。とりわけ戴梓は「子母砲」の製作により帝の高い評価を得ている。子母砲は明代にポルトガルから伝来した「佛郎機〔フランキ砲〕」と同系統の軽量砲で、弾丸・火薬を詰める部分(子砲)と弾丸を発射する砲身(母砲)に分離されており、母砲の後の長方形の穴に子砲をはめ込み、点火するのみで発射されるため、発射間隔が短いという長所を持っており(20)胡建中「清代火炮」正・続(『故宮博物院院刊』1986年第2・4期、1986)。、後で述べるように、火器営編成後、計40門が装備されている。
 雍正・乾隆『會典』等に基づき子母砲の兵器としての特色を検討してみると、以下の様に要約できる。子母砲の特色であるが、

 

①重量は、80斤~100斤(約48~60kg)(康熙二十九年製)と軽量であり、 輸送が容易、駄載可能であること(21)雍正『大清會典』卷二百、工部四、物料、虞衡清吏司、軍器、火器。
②一発の発射には僅かに4両~6両(約149g~223g)の弾丸(康熙二十九年製)、と2両(約75g)程の弾薬を消費するのみで、補給の負担は比較的軽い(22)乾隆『大清會典則例』卷一百三十、工部、鑄礮。
③射程(約四、五百歩(約666m~833m)、後述)は紅夷砲に劣るものの発射速度が早いこと。

 

以上三点が挙げられる。以後清代の火器製造は、紅夷砲を中心とする重砲と、子母砲を中心とする軽量の野砲という二系統に分化していった。雍正・乾隆年間(1736~1795)の火砲の製造量も大きかったが、製造技術、性能などの面では、康熙年間の水準を超えることはなかった。
 入関後の火砲の製造と運用の財政的基盤は、中国本土を支配したことによって得られる潤沢な租税収入によって、盤石のものとなった。また、清代には、山西商人が政商として、国家財政に大きな影響力をもっていたが、康熙年間以降の度重なる外征の際、彼らは軍需物資の調達や多額の捐輸(資金援助)を提供しており(23)佐伯富「清朝の興起と山西商人」(『社会文化史学』第一号1966→『中国史研究』第二巻 東洋史研究叢刊二十一 東洋史研究会1971)。 佐伯氏は、同論文で『清鹽法志』によって、雍正十年(1732)から光緒三十三年(1907)までに、両淮塩商人が軍需を助けるために、銀約2420万両、  米2150O石、長蘆塩商人も銀300万両近くの巨額の捐輸を行ったことを明らかにし、その中の山西商人の占める割合が少なくないとしている。、そのことが火砲の運用にも大きく寄与したと恩われる。この事実は、近世ヨーロッパにおいて、商人が軍事費や軍需物資の調達に果たした役割と非常に似通っており、誠に興味深い。
(b)輸送問題への対策
 火器は優れた貫徹力を持ち、敵に物理的・精神的打撃を与えるという点で当時の諸兵器の中では並外れた存在であった。ところが、重量物であるために輸送が甚だ困難であること、また大量の弾薬を消耗するために絶えず補給を必要とするという問題を抱えていた。
 崇徳八年(1643)に錦州で製造され、現在、紫禁城の午門外に安置されている「神威大将軍砲」は全長264 cm、口径130mm、重さ3900斤(約2328 kg)である(24)注(20)参照。
 雍正『大清會典』卷二百、工部、火器に見える、康熙十四、五年(1675、76)製造の紅夷砲は一門当たり5000斤(約2984 kg)の巨体であった。
モンゴル親征を翌年二月に控えた康熙三十四年(1695)十二月、康熙帝は、兵部と漢軍都統、副都統らに命じ、八旗の現存火砲の種類と数を提出させている。
 『親征平定朔漢方略』(25)『親征平定朔漢方略』(影印本、西蔵社会科学院西蔵学漢文文献編輯室編、西蔵学漢文文献彙刻第四輯、中国蔵学出版社、1994)。以下、『朔漠方略』とする。なお、同書は康熙四十七年(1708)に成立しており、時代的にも近いので、本史料のデータはほぼ信用してよかろう。(以下『朔漠方略』と略す)卷十八、康熙三十四年十二月己亥(十一日)条には、

 

‥‥‥八旗礮局所有、成威永固大將軍礮六十一門、鐵紅衣礮十八門、臺灣解到大銅礮十九門、神威無敵大將軍礮十七門、大銅礮五十四門、西洋銅礮七門、木鑲銅礮十九門、神濟將軍礮四十門、諸礮重八千觔至一千觔有差。冲天礮三門、臺灣解到小銅礮八門、神威礮一百六十門、得勝礮、法功礮、鐵心銅礮、小銅礮、共一百四門、諸礮重八百觔至一百觔有差。査軍中現備火礮、八旗滿洲毎旗馬駄子母等礮各五門、漢軍毎旗馬駄子母等礮各九門、龍礮各一門。‥‥‥

 

と見えており、前半の紅夷砲系(前装式カノン砲)火砲の重量は、8000斤(約4774 kg)から1000斤(約597 kg)、後半の軽量野砲も800斤(約477 kg)から100斤(約60 kg)とある。なお、八旗満洲各旗の子母等砲各5門は、後で述べるように火器営の装備品であったと恩われる。
 このように、紅夷砲を始めとする火器は大変な重量物であったから、その威力を最大限に引き出すためには確固たる輸送・補給体制の確立が是非とも必要であった。
火器の輸送問題は、早くから清朝にとって懸案となっていたらしく、田中宏巳氏によると、入関前、重量5000斤程の紅夷砲1門を輸送するのに、12~14頭の牛を使役し、またその他の火器の輸送にも相当多数の牛を使役したようである。(26)注(3)参照。例えば、崇徳元年(1636)から二年にかけての第二次朝鮮侵攻では、八旗の牛だけでは足りず沿道の朝鮮人の牛を徴発して、紅夷砲、将軍砲を牽引させている(27)『太宗實録』卷三十二、崇徳元年(1636)十二月己亥(二十九日)條。が、そのために「義州従り定州(朝鮮、平安北道)に至るまで、牛隻絶えて少なし」(28)『太宗實録』卷四十五、崇徳四年(1639)二月甲寅(二十六日)條、乙卯(二十七日)條。という状況を呈している。
 崇徳四年(1639)二月には、清軍は27門の紅夷砲を擁して明の松山城を攻撃したが、間もなく激しい砲撃のため弾薬の枯渇を来たし、直ちに弾薬の補給が命じられている。その内訳は砲弾10000発、火薬50000斤(約30 t)であった。紅夷砲の砲弾の重量は10斤(約6 kg)とされているから、10000発で100000斤(約60 t)、火薬50000斤と合わせてその総重量は実に150000斤(約90 t)に達し、田中氏の推定によれば、これらを輸送するには、実に延ベ900頭のラバに相当する家畜が必要であるという(29)注(3)参照。
 このように、火器の運用は、清朝に大きな負担をもたらし、入関前には、前線に近い錦州への兵器工廠の移転などの対策を打ち出し、入関後には北京での砲廠建設やイエズス会士による火砲の軽量化が行われた。しかしながら、これらの施策は一定の効果をあげたものの、完全な解決には至らず、火器の輸送・補給問題は清朝にとって依然懸案となっていた。

 

 

第4節 八旗漢軍の編成

 

 冒頭でも挙げた、火器の兵器としての特色の①と③は、

 

①火器は高速の弾丸と、音と光、硝煙等により、敵に物理的・精神的打撃を与える兵器であり、集中的な運用によって初めて効果を十全に発揮しうる。
③火器は、複雑な機構を持ち、精緻な操作技術を必要とすること。

 

の二つであった。この二つの要件に対する清の回答は、火器の操作に熟達した投降漢人からなる八旗漢軍の編成であった。
 清は、天聡五年(1631)正月の紅夷砲完成以来、臨時編成の漢人部隊に操演を行わせ、三月二日、太宗ホン夕イジ自ら火砲・鳥鎗の射撃訓練を観閲し、「器械精良、操演嫻熟なるを以て、帑金を出し大いに軍士を賫(ねぎら)った」(30) 『太宗實録』卷八、天聰五年(1631)三月丁亥(十三日)條。。そして、同年六月、ホン夕イジは明の大凌河城攻撃を決断し、漢人部隊にも出動の命が下った。漢人部隊は、上述の佟養性によって率いられ、紅夷砲(3門ほどであったと思われる)と大将軍砲計40門を主力とする清朝初の重火器軍であり、八月から大凌河城への砲撃を開始し、その後九月には紅夷砲3門や将軍砲が増強され、城壁や墩台など城の構造物の破壊にめざましい効果をあげた(31)注(3)参照。
 大凌河城の戦いこそ、清朝において火器の評価を決定づけた一大事件であった。『太宗實録』卷十、天聰五年(1631)十月壬子(十二日)條は、この戦いを回顧して、

 

……至紅衣大礮、我國創造後、攜載攻城自此始、若非用紅衣大礮擊攻、則于子章臺、必不易克、此臺不克、則其餘各臺、不逃不降、必且固守、……。以是久圍大凌河、克成厥功者、皆因上創造紅衣、大將軍礮故也。自此凡遇行軍、必攜紅衣、大將軍礮云。

 

と賛嘆している。大凌河城の戦いにおける紅夷砲の運用は、試験的性格が濃厚であったが、その絶大な威力が証明されたことにより、以後の行軍に必ず紅夷砲を携行することが決定されたのである。
 さらに、火砲の生産・導入による後金軍の戦術変化も注目される。清軍は、寧遠城の戦いにおいて、強攻策を取り、大きな損害を被った。しかし、大凌河の戦いでは、大凌河城の周辺に塹壕や土塁を築き、紅夷砲を始めとする火器の集中運用によって、城壁・敦台を破壊する戦術に切り替え、成功を収めている(32)序注(3)参照、李鴻彬「皇太極与火砲」(『歴史襠案』 1997年第2期、1997)。
 以後、この新戦術は、対明戦争において多大な効果を挙げ、明の城塞や陣地を次々と陥落させ、わずか十年後の崇徳八年(1643)十月には、山海関以東の明軍は全て排除されたのであった。
その結果、従来活躍の場が与えられて来なかった漢人が火器兵として大きな期待を受けるようになり、天聡八年(1634)、投降漢人を「烏真超哈 ujen cooha」とよばれる火器軍に編成している。以後、投降漢人と火器の増加により、烏真超哈は徐々に拡張され、崇徳七年(1642)に、八旗編成となった。すなわち、八旗漢軍である。
 このように、八旗漢軍は、明軍との攻城戦・陣地戦の過程の中で編成された部隊であり、紅夷砲や将軍砲など重砲を主力装備とする火器軍であった。漢軍は攻城戦や陣地戦の多い中国本土での戦いで大いに活躍した。元来、八旗は満洲・蒙古騎兵による野戦を得意としていたが、八旗漢軍の編成により、攻城戦にも強さを発揮するようになったのである。
 順治元年(1644)十二月、予親王ドド(多鐸)は陝西に退いた李自成を追撃し潼関に至ったが、当時の戦況について『世祖實録』卷十四、順治二年(1645)二月乙卯(二日)條には、

定國大將軍和碩予親王多鐸等奏報:「大兵以元年十二月十五日、追流賊李自成兵至陝州、‥‥‥二十一日、師距潼關二十里立營、候紅衣砲軍。賊渠李自成率援兵至。‥‥‥。二年正月‥‥‥、初九日、紅衣砲軍至。十一日、遂進逼潼關口、賊衆鑿重壕、立堅壁、截我進師之路。于是挙紅衣砲攻之、賊衆震恐、我軍相継衝入、殺賊無算、‥‥‥。」。

 

と見え、紅夷砲を装備する八旗漢軍が、李自成軍の塹壕や堅壁の攻略に威力を発揮したことがわかる。
 しかし、訓練や大閲において披露された戦術についていえば、騎兵・歩兵・火砲〔砲兵〕の三兵種の協調はこの時点ではそれほど重視されてはいなかったようである。『太宗實録』卷十六、天聰七年(1633)十月丙寅(七日)條には、

 

‥‥‥丙寅大閲時、滿洲行營兵未出。八旗護軍、舊漢人馬歩軍、滿洲歩軍、倶集。分八旗護軍爲左右翼、舊漢人馬歩軍爲一營、滿洲歩軍爲一營、倶四面環列。前設紅衣礮三十位、及各種大小礮。隊伍既成、乃奏聞。上擐甲乘馬、率大貝勒代善及諸貝勒、周覽衆軍畢。上御座、命大員勒代善坐於側。諸貝勒率護軍兵如對敵状。護軍在前、貝勒率親軍立於後、吶喊三次。随傳令曰:「聞礮聲三、即喊而進、聞蒙古角聲即退。」。於是衆軍皆依令而進、復依令而退。次舊漢人馬歩軍、亦如對敵。三喊而進攻。礮軍、礮軍亦聲礮對戰。‥‥‥

 

とあり、この陣法は入関後も受け継がれている(33)『聖祖實録』卷一百二十三、康熙二十四年(1685)十一月甲成(十八日)條には、同日に行われた大閲の様子が記されているが、記述内容には大きな変化は見られない。。この大閲では、紅夷砲30門と大小各種の火砲が登場し、「旧漢人馬歩軍(後の八旗漢軍)」が参加している点が注目されるが、第三章第5節で取り上げる康熙三十四年(1695)の大閲とは異なり、騎兵、歩兵、砲兵の三兵種は、割合独立して訓練を行っている。また、満洲・蒙古兵丁も、訓練は騎射や巻狩り(行囲)が主流であり(34)清代の満洲・モンゴル族の狩猟の軍事訓練的性格については、川久保悌郎「清代満洲の囲場」上、中、下(『史学雑誌』第五十編第九、十、十一号1939)に詳しい。、この時点では対火器戦は漢軍の任務となっていた。
 なお、入関後には、明の降兵・旧衛所をもとに緑営を編成したが、後で述べるように、緑営の火器は八旗漢軍のそれに比べて、小型で性能も劣るものであり、清朝の信頼度も八旗には到底及ばなかった(35)王兆春、前掲書 p281。

 

おわりに

 

 清朝は明との戦争で火器の威力を知り、火器の導入を決意し、佟養性ら投降漢人を利用しつつ、火器の運用がもたらすさまざまな問題をクリアしていった。
 しかしながら、火器の輸送と補給は、依然清朝にとって困難な問題であり続けたし、八旗漢軍も、攻城戦や陣地戦には強さを発揮したが、野戦においてはいまだ満洲・蒙古騎兵が主要な位置にあった。

   [ + ]

1. 近世ヨーロッパにおける火器発達とその影響については、日本では、有馬氏、前掲書、 pp309~502,第五章「東洋火器のヨーロッパへの伝流」、第六章「ヨーロッパにおける火器発達の文化史的意義」が代表的な論考である。また、火器の発達がもたらした戦争遂行能力の向上と国家、経済体制の変革については、ジェフリ・パーカー著、大久保桂子訳『長篠合戦の世界史―ヨーロッパ軍事革命の衝撃1500~1800年―』(同文館、1995。原書 Geoffrey Parkar, The mifftary revolution:Military innovation and the rise of the west,1500~1800 Cambridge University Press,1988)にて検討されている。また、同書は東アジア地域への西洋火器の伝播と受容についても、 pp157~198、第四章「非ヨーロッパ世界の軍事革命」にて言及している。
2. ジェフリ・パーカー、前掲書、 pp11~113、第一章「ヨーロッパ世界の軍事革命」、第二章「戦争の需要と供給」。
3. 田中宏巳「清初に於ける紅夷砲の出現とその運用」(一)~(四)(『歴史と地理・世界史の研究』78、79、81、82、1973~74)、 pp23~30。
4.   『滿文老襠』(『滿文老襠』 II太祖2、満文老襠研究会訳注、東洋文庫、1956)太祖第三十二、天命七年正月六日條。
5. 「己巳虜変」の経過は、李光濤「論崇禎二年『己巳虜変』」(『歴史語言研究所集刊』第十八巻、1948→同『明清檔案論文集』聯経出版事業公司、1986)と、渡辺修「『己巳の役』(1629~30)における清の対漢人統治と漢官」(『松村潤先生古希記念清代史論叢』松村潤先生古希記念論文集編纂委員会編、汲古書院、1994)に詳細に述べられている。
6, 26, 29, 31. 注(3)参照。
7. 『八旗滿洲氏族通譜』(影印本、遼瀋書社、1989)卷二十、佟佳地方佟佳氏。
8. 三田村泰助「清朝の開国伝説とその世系」(『立命館大学五十周年記念論文集』1951→同『清朝前史の研究』東洋史研究叢刊十四 東洋史研究会1965)によれば、彼は明初、永楽年間の人物で、奴児干永寧寺碑文にも「佟答刺哈」として現れており、佟一族は明の東北経営に大きく貢献した
9. 注(7)参照。
10. 佐久間重男「明代後半期の製鉄業―民営企業を中心に―」(『青山史学』第二号1972)、田中宏巳、前掲論文。
11. 序注(3)参照〔及び田中氏前掲論文〕。田中氏は『八旗通志』(初集)(李洵、趙徳貴主点校、東北師範大学出版社1985)卷一百七十二、名臣列傳三十二、鑲黄旗漢軍世職大臣、馬光輝に見える生産数に基づいている。
12. 乾隆『大清會典則例』(影印本、『欽定四庫全書』史部、政書、上海古籍出版社、1987)卷一百三十、工部、火藥。
13. 『八旗通志』(初集)卷二十五、營建志三、八旗礮廠、八旗火薬廠には、各旗に一力所、計八力所づつ設置された礮廠、火薬廠の位置と面積について記載し、注(15)の史料によれば、設立は「順治初年」である。
14. (17)王兆春『中国火器史』(軍事科学出版社、1991)、p255。
15. 田中克己「対国姓爺合戦における漢軍の役割」(『和田清博士古希記念東洋史論叢』同論叢編纂委員会編、講談社、1960)。氏は、主に『八旗通志』(初集)の漢軍旗人の列伝を史料として、対鄭氏戦において火器を使用する漢軍が大いに活躍したことを明らかにしている。
16. 王兆春、前掲書、p259。
17. 頼福順『乾隆重要戦争之軍需研究』(故宮叢刊甲種之卅一、国立故宮博 物院、1984) pp293~300第五章、第一節「軍器之供給」。また、『上諭八旗』(影印本、『欽定四庫全書』史部、詔令奏議類、上海古籍出版社、1987)卷十、雍正十年(1732)三月三日には、当時、対ジューンガル戦の最前線である西部モンゴルに駐屯する北路軍の兵丁が、鳥鎗と弾丸の口径が合わないとの不満を述べたことが、前線から戻った侍衛によって報告され、それに対し雍正帝が「各該處を著て、現今、軍營に運送する器械を將て、悉く式の如く製造令しめよ。」と弾薬の規格を遵守させるよう命じている、という事例が見出せる。しかし、頼氏の著書によれば、乾隆年間以後も火器、弾薬の規格統一は依然、厳密さを欠いていたようである。
18. 『聖祖實録』(影印本、『清實録』、中華書局1985~87)卷四十九、康煕十三年八月壬寅(十一日)。
19. 舒理広・胡建中・周静「南懐仁与中国清代鋳造的大砲」(『故宮博物院院刊』1989年第1期、1989)。
20. 胡建中「清代火炮」正・続(『故宮博物院院刊』1986年第2・4期、1986)。
21. 雍正『大清會典』卷二百、工部四、物料、虞衡清吏司、軍器、火器。
22. 乾隆『大清會典則例』卷一百三十、工部、鑄礮。
23. 佐伯富「清朝の興起と山西商人」(『社会文化史学』第一号1966→『中国史研究』第二巻 東洋史研究叢刊二十一 東洋史研究会1971)。 佐伯氏は、同論文で『清鹽法志』によって、雍正十年(1732)から光緒三十三年(1907)までに、両淮塩商人が軍需を助けるために、銀約2420万両、  米2150O石、長蘆塩商人も銀300万両近くの巨額の捐輸を行ったことを明らかにし、その中の山西商人の占める割合が少なくないとしている。
24. 注(20)参照。
25. 『親征平定朔漢方略』(影印本、西蔵社会科学院西蔵学漢文文献編輯室編、西蔵学漢文文献彙刻第四輯、中国蔵学出版社、1994)。以下、『朔漠方略』とする。なお、同書は康熙四十七年(1708)に成立しており、時代的にも近いので、本史料のデータはほぼ信用してよかろう。
27. 『太宗實録』卷三十二、崇徳元年(1636)十二月己亥(二十九日)條。
28. 『太宗實録』卷四十五、崇徳四年(1639)二月甲寅(二十六日)條、乙卯(二十七日)條。
30. 『太宗實録』卷八、天聰五年(1631)三月丁亥(十三日)條。
32. 序注(3)参照、李鴻彬「皇太極与火砲」(『歴史襠案』 1997年第2期、1997)。
33. 『聖祖實録』卷一百二十三、康熙二十四年(1685)十一月甲成(十八日)條には、同日に行われた大閲の様子が記されているが、記述内容には大きな変化は見られない。
34. 清代の満洲・モンゴル族の狩猟の軍事訓練的性格については、川久保悌郎「清代満洲の囲場」上、中、下(『史学雑誌』第五十編第九、十、十一号1939)に詳しい。
35. 王兆春、前掲書 p281。