寺田隆信『紫禁城史話――中国皇帝政治の檜舞台』

寺田隆信『紫禁城史話――中国皇帝政治の檜舞台』中公新書、1999年

 本書の題名からは、紫禁城の建築に関するガイドブックのような印象を受けるが、実際は紫禁城の住人である皇帝たちを軸に明清史を概説したものである。

 語り口は単純明快で、中国史にありがちな難しい漢字の用語は極力排除してあり、気軽に読める。 ただ、内容は8割方が清朝史で、明代の紫禁城について知りたい向きにはやや物足りない。これは清朝史の概説書として読むべき本かも。

 それから、康煕~乾隆あたりの内容は著者の師である宮崎市定氏の『雍正帝』(及び宮崎氏ら京大東洋史の研究プロジェクト『雍正時代の研究』)の影響が大きいように思った。

以下、面白かった点を箇条書き

南京から北京へ
永楽帝の北京遷都後に造営された紫禁城(すなわち現在の紫禁城)は、明初南京につくられた皇城「紫禁城」のプランを全て踏襲している。それは永楽帝が自己の正当性を明確にするためであった。 ここのところは、他の類書にはあまり見られない記述なので、もう少し詳しく触れてほしかった。

 南京の「紫禁城」は太平天国の乱で破壊され、今では一部の礎石を残すのみ。

 永楽年間に紫禁城造営に活躍した建築家蒯祥の生涯
卓越した技術で工部左侍郎にまで出世。科挙出身者でない一介の工匠としては破格の待遇。

建築に用いる木材ははるばる南方から輸送

 

 紫禁城の度重なる火災
明代の大規模な火災だけでも4回(4回目は李自成による放火)。小規模なものは数知れず。
そのたびに莫大な資金と資源を傾けて再建工事が行なわれ、それが政治家や宦官たちの利権争いの的となった。そしてその負担はすべて人民にのしかかった。
明の嘉靖帝は、大火にみまわれた宮殿の焼け跡で「大明は火に滅ぶなり」と嘆いたとか。そして清代にも何度も火災に見舞われている。

 乾隆帝と香妃の関係
著者は「両者は必ずしも敵対的な関係ではなかったのでは」と推測。


 乾隆帝の華麗なる生活
食費は一年間で三万数千両。役畜であるという理由で牛肉は食べず、羊・豚・鶏・鴨肉がメインディッシュに。餑餑(ぎょうざの一種)が好物。海産物はあまり食べない。


 養心殿と三希堂。文物収集
三希堂はわずか4畳半ぐらいの狭い場所。大きな空間になれた皇帝は、こじんまりしたスペースを好む?


 「文明の主宰者」としての清朝皇帝
彼らは漢人以上に漢族文明を学び、愛した。彼らは学者文人になろうと努力し、文明の主宰者として、 文明の担当者たる官僚(士大夫)の上に立とうとした。


 西太后と「エホナラの呪い」

 ヌルハチの女真族統一に最後まで抵抗したエホナラ(イェヘナラ)氏の族長は死ぬ前に「エホナラに女一人でも残ったら必ず愛新覚羅を滅ぼす」と叫んだ。西太后はそのエホナラ氏出身であり、本当に清を滅ぼした、といううわさ。

 当時そういううわさがあったのは事実だが、はっきりいって眉唾。本書でもあくまで野史のエピソードと断っている。

※本気にしている人がいるといけないので一応注記しておくと、「呪い」は多くの本にあたかも事実のように記載されているが、清朝初期の資料にはそんな記述は一切ない。ホンタイジの生母はエホナラ出身だし、先ほどの族長の一族も、族長本人を除きほとんど助命されている。そして彼らはヌルハチに服属した後も有力氏族でありつづけ、多くの妃や宰相、高官を輩出している。

 これはどうも反西太后派が広めたデマが元ネタらしい。

寺田隆信『紫禁城史話――中国皇帝政治の檜舞台』” に対して2件のコメントがあります。

  1. より:

    お久しぶりに文化に関する記事を書きましたね。わたしも頑張っていきます。
    満州語は上手になりたくてもなれないことに悩まされています。(動詞の活用することと語彙の暗記すること)

  2. 電羊齋 より:

    >阿敏 様
    最近、実家から送ってもらった中国史の本を何冊か読んでいます。いやあ、おもしろい。
    満洲語の動詞の活用は確かに難しいと思います。現代日本語よりもっと複雑ですからねえ(日本語の古文とよく似ています)。
    あせらず少しずつがんばってください。
     

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