常林・白鶴群『北京西山健鋭営』
(一)「組建健鋭営」では、第一次金川の役で現地金川人(ギャロン・チベット族)のたてこもる碉楼(石造りの高楼)に苦しめられた経験から、「香山雲梯兵」、さらに健鋭営が編成された経緯について述べている。
(二)「営区布局」では、まず「健鋭営八旗営房布局示意図」で健鋭営の全体的配置を示し、次に健鋭営隷下の八旗旗色ごとに分けられた営房の復元図を示し、各営房内の建物配置や内部状況を解説。特に営房の復元図は非常にわかりやすく描けている。
(三)「軍政管理」では、健鋭営の官制、組織について述べる。組織形態は前鋒営や火器営など他の旗営と共通点が多いことがわかる。
(四)「建築」では、旗営老屋、団城、演武場や金川式の碉楼、井戸など、現存する健鋭営の建築物を写真つきで紹介。清末以降の戦乱や大躍進、文革でかなり破壊をこうむったが、最近の文化財保護政策や観光開発の流れを受け、大分修復が進んでいるのがわかる。
(五)「営区生活」では、健鋭営の旗人の生活ぶりについて、1.経済2.住房3.飲食4.服飾5.出行6.信仰7.譜牒8.聯姻9.婦女10.選秀女11.教育12.紅事会和白帯子会13.文体活動14.商市 の14項目に分けて紹介。これらの内容は非常に豊富、かつ多岐にわたるので、私が個人的に興味を持った点だけを箇条書きにして紹介する。
俸禄の種類と額が詳細に記されている。上級旗人には新米、下級旗人には古米が与
えられたが、それで健鋭営の旗人は逆に新米より古米の味を好むようになった。
地位に応じて、家のつくり、面積や部屋数が異なる。
西側が上座とされる間取り、万字炕(「コ」の字型に配置されたオンドル)の存在
など、東北の満洲族の伝統的家屋と共通した特色がみられる。
鼻煙(かぎたばこ)の流行
餑餑(餃子に似た食品)や豚肉を熱湯で煮てしょうゆやニンニクで味付けした簡素
な料理(『韃靼漂流記』にも記載)など、東北地方・満洲族の特色を保持。
「盒子菜」と呼ばれる一種の弁当のような食品があり、大きな箱の中にいろいろな
料理が小分けされてはいっていた。山東出身の料理人が売りにやってきて、祝祭日な
どに食された。
・信仰
関羽信仰の盛行。健鋭営のどの旗の営房にも必ず関帝廟が存在。
尚武の精神を重んずる満洲族にとって武神としての関羽は受け入れられやすく、一
種の「万能神」として厚い信仰を 集めた。
・婚姻
火器営や円明園護軍営と通婚することが多かった。
漢族と比べ、家庭内での女性の地位が高かった。妻の実家の影響力が強い(満洲
族、モンゴル族に見られる特色)。
官営の義学(官学)があり、健鋭営各旗ごとに学房を設置。
女子にも教育の機会が開かれていた。
ていた。説書は『三国演義』や『岳飛伝』(説岳全伝)、『三侠五義』など忠君愛国
的内容の物語が主体で、『水滸伝』は厳禁。
音楽は、八角鼓が流行。
鳥やコオロギを飼う旗人も多かった。
・紅事会と白帯子会
会員から集めた金を積み立てて、会員の家の結婚式や葬儀の資金とする互助会。
・商市(市場)
健鋭営、火器営、円明園護軍営の「外三営」付近には、旗人の購買力にひきつけら
れた多くの商人たちが集結。これにより樹村、青龍橋、西苑、藍靛廠、肖家河など多
くの繁華街が誕生、北京西北の一大商業センターとなった。
民国時代、八旗制度が解体され、旗人の購買力が低下したことにより衰退。
健鋭営の主要な戦歴について述べる。
第一次金川の役(乾隆十二年 1747)から、ジューンガル部平定、ビルマ、第二次金川の役、甘粛のムスリム反乱、台湾の林爽文の乱、グルカ(ネパール)遠征、白蓮教徒の乱、太平天国、 捻軍、第二次アヘン戦争、日清戦争、義和団(八カ国連合軍との戦闘)、そして民国時代には「新軍」の一部として外モンゴル独立阻止のため庫倫(現ウランバートル)へ。
そしてこれらの部隊は、同時に同じ場所に投入されるケースが非常に多かった。
(火器営は健鋭営が攻城戦を行う際の突撃支援射撃担当か?)
著者の統計によれば、清代の健鋭営出身の高官、将軍は66人にも上る(領侍衛内大臣、掌鑾儀衛事内大臣9人、都統、将軍、提督33人、統領、副都統、総兵23人、布政使1人)。巻末に付録として、66人の一覧表あり。
健鋭営は、戦争(紛争、反乱)発生、または一般の部隊が苦戦している場所にいち早く派遣される一種の「緊急展開部隊(特种应急部队)」であった(私の考えでは、火器営もそういった性格の部隊だったと思われる)。
そのため、常に有力な近臣により指揮され、柔軟な運用が可能となり、思う存分実力を発揮できた。
特に創立者である乾隆帝はしばしば部隊視察に訪れ、将兵を激励。
前述の66人のうち、乾隆、嘉慶、道光年間に生きたものは58人、咸豊、同治、光緒年間の人物は8人に過ぎない。66人のうち乾隆年間に官歴の起点が存在するものは49人。
健鋭営の訓練場は当時としては一流の環境。
そこで厳格な訓練を施され、高い技量を身につけていたるところで活躍。
度重なる戦争が健鋭営将兵に実力発揮の機会を与えた。
また、清軍の上級指揮官が大量に戦死したことにより、穴埋めの必要が生じ、健鋭営出身者が緑営の総兵はじめ他部隊の指揮官に抜擢されることも多かった。
清の人事政策では、八旗出身、特に満洲八旗、上三旗出身者が優遇された。
前述の66人のうち、八旗満洲49人、蒙古16人、漢軍1人。上三旗出身45人、下五旗出身は20名、その他1人。
1.「番子営」の歴史
第二次金川の役後の入京者は、楽工(楽団)が多く、その中には女性や子供も含まれていた。彼らは歌舞が得意でしばしば円明園(のち頥和園)に呼ばれて、宴会で「番子楽」の公演を行った。彼らはいわば大小金川からの「貢物」だった。
現在はチベット族、羌族として分類規定されているが、著者はその独特の歴史的背景と文化から彼らを古羌人の一派である土着ギャロン人とし、その他のチベット族とは区別し、本文中でも「金川人」または「嘉戎蔵族(ギャロン・チベット族)」という呼称を使用している。
次にチベット仏教の活仏は妻を娶らず転生により継承が行われ、活仏は寺院内部の事務のみを担当するのに対し、金川人のボン教ではラマが妻を娶ることによる世襲制の継承が行われ、寺院内部だけでなく寨、村落のさまざまな事務も担当し、精神的のみならず政治的なリーダーともなっていたことである。
著者は、金川の役で金川人が清軍をたびたび撃退できたのは、こうしたボン教とラマが金川人の結束のよりどころとなったことによるとしている。
戦時の際は、一戸ごとに一人を出し、武器を自弁、また金川人は高い冶金技術をもち、刀剣、銃、弓矢、石弓などの武器を製造した(私が大学院時代に読んだ史料では、中国内地からの密輸品も多かったらしい)。
「番兵」はグルカ(ネパール)、台湾、甘粛など色々な戦場で活躍した。北京香山の「番子営」は、一定数の石匠、銀匠、ラマ以外は、他の八旗兵丁と同じく兵役や雑務に従事。そして、老若男女すべてが宮廷で「番子楽」の公演を行わねばならなかった。
2.蒙古旗人、シベ族のチベット仏教寺院
健鋭営は頥和園付近にあった湖(現在は陸地化)で水戦の演習も行い、「健鋭営八旗水師」と呼ばれ、天津、福建の水師(水軍)から漢人教官が招かれた。
ソロン;満洲語で「射手」を意味し、現在のダグール、エヴェンキ、オロチョンなどの民族の総称で、健鋭営とともに勇戦敢闘した。
そして、著者は清朝と八旗、ひいては健鋭営の「民族団結」や中華民族への貢献を大いに強調し、最後に現在の健鋭営の様子に触れて、結びとしている。この部分は、漢族を中心とする現代中国人の清朝、満洲族へのマイナスイメージへの強い抗議であろう。
一般向けの本で八旗制度についてこれほど詳しい本も珍しいのでは。清朝史、特に八旗制度に興味のある方は必読。
“常林・白鶴群『北京西山健鋭営』” に対して5件のコメントがあります。
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本の中に書いてあった地名は現在までも残っている。暇なときに順番で見に行くつもりです。
清朝の兵制について詳しく記載されたのはやっばり「八旗通志」や「兵部則例」などの書物だと思います。
>阿敏 様
私も以前藍靛廠(外火器営)を訪れたことがあります。
街道委員会の方が暖かく歓迎してくださいました。
私も『八旗通志』をもう一度読み直してみるつもりです。
水滸伝が厳禁・・・そういう時代があったとは聞いておりますが・・・。
まあ、政府に反乱しても最後は帰順するんだから、いいじゃん!とはいえないのですかね。
すいません↓の名無しは阿Qです。
>阿Q 様
まあ、「厳禁」とは言っても、実際はみんな隠れて読んでいたようですが。
禁止されたものほど読みたくなるのが人情というものでして。
民国以降、清代に「禁書」に指定されて全て廃棄されたはずの本が、中国のあちこちで発見されてますしね。
あと、清代中国で流布していた『水滸伝』は、一〇八星が梁山泊に集結するところまでで終わっているんですよ(いわゆる「七十回本」)。
政府に帰順して、反乱討伐に動員されたりするエピソードが入っているもの(「百回本」や「百二十回本」)は、清代にはほとんど失われており、二十世紀になってから再発見されています。現在の中国や日本では、原型に一番近いとされる「百回本」が普及しています。
そういえば、文革のころ「水滸伝批判」というのがあって、その内容は「政府に帰順するのは日和見主義だ!」というものだったそうですが。
(実際は文革路線に軌道修正を加えようとする鄧小平らに対する当てこすりだったようですけど)