11月25日 星期五 晴

上午上两节课,下课之后顺便到校区里的干洗店把洗好的西服取回来。
 
下午我一直写《吴三桂》那篇文章的后半部分,刚才写完了。
有关吴三桂的文章写得有点辛苦。他真是一个充满矛盾的人物,再加上现存的有关吴三桂(三藩)的原始史料特别少。因为他被清朝戴“逆臣”的帽子,他自己的纪录几乎都被抹杀了。
 
傍晚把这个博客的版式和记事的分类方式改变一下,是为了更好找要看的记事和日志。
 
晚上用电话和朋友聊天。
 
明天我再去大连,当天回来。
我一定抓住就业机会!
 
 
 
 
 
 
午前中は授業2こまに出席。授業が終わったあと、ついでにキャンパス内のクリーニング店に行って、クリーニング済みの背広を受け取ってきた。
 
午後はずっと『呉三桂』の後半部分を書いていた。さっきやっと書き終わった。
呉三桂に関する文章を書くのは少々骨が折れる。彼は本当に矛盾に満ちた人物だし、その上現存する呉三桂(三藩)関係の一次史料が極めて少ない。清朝に「逆臣」の汚名を着せられたために、彼自身の記録が抹殺されてしまったからだ。
 
夕方、記事(日記)を探しやすいように、ブログのレイアウトと記事の分類方法を少し変更。
 
夜は、友人と電話でおしゃべり。
 
明日、日帰りで大連に行ってくる。
俺は絶対に就職の機会をつかんでくるぞ!
 

11月25日 星期五 晴” に対して8件のコメントがあります。

  1. より:

    はじめまして。偶然でここにきました、電羊斎さん中国語うまいね…本当にすごいです。そしてうちも瀋陽の満族人ですよwもしよければ、それからよろしくお願いします。

  2. Suzumiya より:

    恩!机会一定要好好把握!预祝你成功^^

  3. より:

    不好意思,到现在才第一次看你的网络日志。希望你能把握住每一次机会,一起努力啊!刚才看了你写的汉语,没有找到错误,很了不起呀,我也要好好学习日语了。

  4. 裕之 より:

    呉三桂についての文章面白く読みました。中国史にステレオタイプで現れてくるのは、英雄を迷わせる悪女の役回りです。西施と呉王夫差とか、妲己と殷の紂王とか。この呉三桂と陳円円の物語などはその中でもとくに取り扱われるのが多い題材です。このようなお話は、基本的に物語を面白くするために脚色されたものと理解した方がいいんじゃないかと個人的には思っています。実のところ電羊斎さんのかかれたように、明朝の末期には清に寝返った人物がそれこそ群れを成して現れており、呉三桂はたまたまその最終局面で明を裏切ったため、特にその悪名が喧伝されるようになってしまったように思います。明朝滅亡にいたる、東北地方でのさまざまな人物の去就を眺めていると、ことさらに呉三桂だけが悪かったのではないと感じます。この東北地方におけるさまざまな軍閥の動きを丁寧に見ることで呉三桂の決断の内容が理解できるという考え方に賛成です。明朝が滅亡した時点で、清はスローガンを180度変えますね。それまでは新しい王朝を開くんだという明に敵対する形でしたが、李自成により北京が陥落した直後に、明の敵を討つという方針に変えています。これは范文程による建言だといわれていますが、呉三桂が明に寝返るためには、この誘い水は非常に有効だった様に思います。若い呉三桂はもしかしたら、最後まで明に忠誠を誓うという信念だったのかもしれませんが、崇禎帝が自殺し、北京の王朝が倒れた時点で、清が明のために李自成を討とうと持ちかけられると、去就に悩んでいた呉三桂には、抗えない誘いだったように思います。清朝トップの老獪さにしてやられたという感じがしてなりません。この辺のことを時系列的に見てみるとどうなのか興味はありますが、まだ勉強できていません。清朝に寝返ってからの呉三桂については、典型的な“狡兎死して走狗煮らる”のパターンの展開で、個人的にはあまり興味をもてません。軍事的には能力があったかもしれないが、自己の政治的な危うさを見通すことのできなかった人物という印象です。次の人物伝も期待しています。

  5. 電羊齋 より:

    >K 様こちらこそよろしくおねがいします。中国語は、まだまだ低レベルです。ここには満族の方もよくいらっしゃいますよ。大学の友人にも満族やモンゴル族が多いです。友人だけで八旗が編成できますね(笑)>NT 阁下今天我终于把握了机会!成功了!>luyanrogan 様多亏你们的帮助,我找到了工作!谢谢!>阿祥 様専門的なコメントありがとうございました。自分としても、とても参考になります。>中国史にステレオタイプで現れてくるのは、英雄を迷わせる悪女の役回りです。 そうですね。中国史を読んでいると悪いことは全て女のせいにしてしまうところがありますねえ。そういう態度を見ると、それこそ「それでも男か!」と言いたくなりますな(笑)>明朝の末期には清に寝返った人物がそれこそ群れを成して現れており、呉三桂はたまたまその最終局面で明を裏切ったため、特にその悪名が喧伝されるようになってしまったように思います。自分も、呉三桂だけがことさらに悪名を以って語られるのはおかしいと思います。呉三桂のような「逆臣」は時代を追うごとに批判の度合いが強くなります。特に、乾隆以降、清の政治力にかげりが見えてきて以降、将来、清を裏切る「逆臣」が出ないよう、体制側によって彼は口を極めて批判されるようになります。「呉三桂大伝」の著者も本文中で指摘されていますが、現代の我々の歴史観も依然、清朝のそれから脱し切れていないところがありますね。>若い呉三桂はもしかしたら、最後まで明に忠誠を誓うという信念だったのかもしれませんが、自分も 阿祥さんと同じ感想を抱いています。呉三桂は当初はあくまで清から「兵を借り」て明を復興するという名目を掲げていたのですが、結局ドルゴンにうまく丸め込まれてしまいましたね。このあたりの経緯は結構複雑で、先行研究も数限りなくあるので、正直言って自分の手には負えません。次の人物伝は洪承疇か、もしくは満洲族の将軍を考えてます。お楽しみに!

  6. 裕之 より:

    洪承疇について、個人的な関心があります。僕が明末清初の時代に興味を持ったのは、台湾に住んでいたときに鄭芝龍、鄭成功父子の事績を調べたところからです。いまは、この鄭氏のことを理解するには、福建人グループの全体としての動きを見なくてはならないと考えています。ところで、洪承疇と鄭芝龍はまったくの同郷人、泉州の人で、年もそんなに離れていません。(鄭芝龍の生まれは1604年とするのが定説ですが、もう少し早く1590年代いという説もあります。どうも後者の方が正しそうです。)それで、清軍が南下してきて、福建の隆武帝政権に対したときに、この二人は互いに連絡を取り合っていたのではないか、それが鄭芝龍の清側への寝返りの主な理由だったのではないかと思っています。しかし、鄭芝龍は結局北京に送られてしまい。福建の政権は鄭成功を中心に強硬な反清政策を推し進めることになります。僕は、これは清側の大変な失策で、洪承疇の意図するところはなかったのではないかと考えています。かりに、鄭芝龍がそのまま福建に居座ることを許され、洪承疇との連携を保っていればその後の歴史は大きく変わっていたと思います。こういったシナリオが崩れたのは、武断派の満州族将軍(この南下軍の総指揮官はドドという将軍だったと聞いています)が、強行に鄭芝龍の処置を進めたからなのではないかと思っています。清朝初期の人物を見るのに、僕は仮にヌルハチとドルゴンを武人として優れた武断派、漢民族に対し非融和的な政策をとった人物として、それに対してホンタイジと順治帝を文人派、漢民族に対し融和的政策をとった人物としてみています。ホンタイジの政権では漢民族がその勢力を増し、さまざまな発言権を得ていきますが、それに反発する勢力は常に存在し、ホンタイジが亡くなりドルゴンが摂政のような形で指導体制をとっていたこの時期は、清朝の政策としても非常に不安定な時期だったろうと考えています。このドルゴンのもとで、辮髪の強要や、土地問題など漢民族との摩擦がさまざまに起こっています。この、南下派遣軍の問題を考えるのに、このような清朝内部の事情を考慮するアプローチが有効かもしれないと仮説を立てているところです。しかしながら、手元の資料ではこの南明政権に対処したときの洪承疇の考え方と、その問題というようなことについての資料がほとんどありません。もし、電羊斎が洪承疇のことを調べていく中で、こんな問題についてなんかヒントになるようなことがあれば、教えてください。

  7. 裕之 より:

    清の南下軍の将軍はポロ(博洛)でしたね。ドドはドルゴンの弟でした。

  8. 電羊齋 より:

    >阿祥 様>洪承疇と鄭芝龍はまったくの同郷人、そういえばそうでした。私も、福建人グループ全体の動きが重要だという意見に賛成です。>清軍が南下してきて、福建の隆武帝政権に対したときに、この二人は互いに連絡を取り合っていたのではないか、それが鄭芝龍の清側への寝返りの主な理由だったのではないかと思っています。私が最近読み始めた、王宏志『洪承疇伝』(紅旗出版社 1991)でも、そういう見方をしています。自分としてもボロ(博洛)のやりかたは武断的にすぎたと思っています。洪承疇もそこまでは意図していなかったでしょう。鄭成功を反清に追いやったのはボロ(あるいはドルゴン)の重大な失策でしたね。>この、南下派遣軍の問題を考えるのに、このような清朝内部の事情を考慮するアプローチが有効かもしれないと仮説を立てているところです。面白い仮説だと思います。清朝初期の歴史を見ていると、保守派(武断派)と対漢族融和派とのせめぎあいがt基本軸となっていますが、それは南下派遣軍の動向にも当然影をおとしていそうですしね。私は南方の歴史にはあまり詳しくありませんが、出来るだけがんばってみたいと思います。

コメントは受け付けていません。