范文程

○八旗人物○

 

范文程(はんぶんてい fan4 wen2 cheng2)

明万暦二十五年(1597)~清康煕五年(1666)
字、憲斗、号、輝嶽。諡、文粛。漢軍鑲[金襄]黄旗人。

北宋の名臣范仲淹の後裔を称す(遠藤隆俊 1995に詳しい)。ヌルハチ・ホンタイジ・順治・康煕の四代にわたって仕え、清初の対漢人統治の確立に大きく貢献した。

范文程の先祖は明初、江西から瀋陽に流され、曽祖父總[金へん]は明嘉靖年間に兵部尚書に上った。彼は幼い頃から読書を好み、十八の年に生員となった。

清天命三年(1618)ヌルハチの撫順攻略時に兄とともに後金に降った。この時、ヌルハチは左右のベイレたちをふりかえって「此れ名臣の後なり、善く之を遇せ」と言い、以後重く取り立てることとなる。文程もまたこれによく応え、遼陽、西平、広寧など遼東諸城の攻略において、常にヌルハチのそばにあって献策にあたったという。

太宗ホンタイジの時代になると、漢人のブレーン集団のリーダー格として、文館(後の内三院、内閣)で活躍し、華北進攻、チャハル部(内モンゴル)征服、孔有徳と耿仲明の来帰、さらには科挙の実施など、多くの重要事項に献策を行うようになった。

崇徳元年(1636)、ホンタイジが中国的王朝「大清」を旗揚げし、文館を内三院と改めると、文程は秘書院大学士となった。ホンタイジの彼への信頼ぶりは「大政を議する毎に、必ず籌画に資す。各国に宣諭する勅書は、皆文程の手に出づ」と記されているほどである。

崇徳八年(1643)、漢軍鑲[金襄]黄旗に編入。

順治元年(1644)、ドルゴン率いる清軍が山海関に進攻した時、明の混乱ぶりを見て華北への積極進攻策を提案する。その後崇禎帝が自殺、李自成が北京を占領するや「大順」政権の腐敗を的確に見抜き、明のために仇を討つ「義軍」として入関する方針に転換、これにより北京占領、華北の征服は抵抗らしい抵抗もなく完了した。その功績により翌年、三等梅勒章京を授けられ、以後、華北での科挙実施、人材登用、官制の整備、さらに屯田による財政基盤の確立に勤めた。

官は順治九年(1652)には議政大臣、一等精奇尼哈番(子爵)に累進し、十一年(1654)に少保兼太子太保を加えられ、同年九月、病により官を退いた。順治帝は彼の功績を絶賛し、いたわりの言葉をかけ、さらに太傳兼太子太師の官を授け、自ら調合した薬を賜った。

康煕元年(1664)、命を奉じて太宗の陵に祭告(先祖への祭祀と即位報告)をおこなったとき、その場に伏して慟哭し、しばらく立ち上がれなかったという。彼自身、ホンタイジとの信頼関係を思い起こし、感慨深いものがあったのだろう。

康煕五年(1668)八月に病死、享年七十歳。北京北方の懐柔県に位置する紅螺山に葬られた。墓道には御製の碑文が立てられ、後、祠堂には御筆の「元鋪高風」の額を賜った。

彼の性格は廉潔で度量が深く、喜怒哀楽を表に出さず、ひたすら清朝の縁の下の力持ちとして、漢人統治の実行に当たった。入関前は、皇帝も彼を尊んで名を呼ばず、ただ「范章京」とのみ呼んだという。

范文程は満洲貴族、八旗制度と漢人社会相互の矛盾を一手に引き受ける立場にあったが、その難しい課題を見事にこなしたといえるだろう。
(モンゴル(元)における耶律楚材、耶律阿海にあたる存在か?)

 

参考文献・サイト

(史料)

『八旗通志』(初集)卷一百七十二 名臣列傳 范文程

  (『八旗通志』鄂爾泰 等 奉敕撰 乾隆四年(1739) 東北師範大学出版社 1985)

(論文)

遠藤隆俊「范文程とその時代―清初遼東漢人官僚の一生―」

(『東北大学東洋史論集』6 1995)

神田信夫「清初の文館について」

(『東洋史研究』第十九巻第三号 1960→神田信夫『清朝史論考』山川出版社 2005)

(サイト)

中央研究院 漢籍電子文獻 二十五史 『清史稿』

http://www.sinica.edu.tw/ftms-bin/ftmsw3


 
 
最近、自分は清に仕えた漢人に興味をもっています。自分自身も異文化の中で生きているからでしょうか?
次は、呉三桂あたりを取り上げてみようかな。

范文程” に対して10件のコメントがあります。

  1. KEN より:

    勉強になったわ!

  2. Belinda より:

    電羊斎さんの気持ちに同感できる部分があります。また歴史人物のこと教えてください。

  3. Steven より:

    勉強になりました!!!電羊斎さまこの様な文章を載せてつづければ、このスペース絶対人気になると思いますよ。外人として中国、満清の歴史をそんな詳しいですが、とっても「崇拜」していますよ。

  4. 電羊齋 より:

    >1Touken81 様こちらこそ。自分もまだまだ勉強が必要です。>糠漬け 様外国での「異民族」は、往々にして両民族の板ばさみになってしまうところがありますね。自分も時々「日本人として」中国で生きていくにはどうすればいいのか、一晩中悩むことがあります。糠漬け様も異国の地で何かと大変だとは思いますが、お互いがんばりましょう。>行走乾坤-wanderer 様「崇拝」だなんて、照れてしまいます。有点不好意思!大変だとは思いますが、出来るだけこういう文章をたくさん載せていきたいと思っています。

  5. Steven より:

    >自分も時々「日本人として」中国で生きていくにはどうすればいいのか、一晩中悩むことがあります。同感、同感! 異文化の中に生きるのはもっとも難しい技、いわゆるもっとも難しい修練だと思っています。

  6. Belinda より:

    「一晩中悩む」(!?)かなり悩んでますね。ストレスは万病の源だから、少なくても不眠症にならないようにしましょう。

  7. 裕之 より:

    >電羊斎さま阿祥といいます。徹夜城さんの所のかきこからこちらのブログを知りました。清朝初期の歴史に惹かれていろいろ調べているのですが、この時代のことを書いてある日本のHPなんてほとんどなく、中国語圏でもあまり密度のあるものは見当たりません。昔、日本語のよいページがあったのですが、なくなってしまい残念に思っていたところ、こちらのコーナーを見つけて大喜びです。しかも現地で勉強しているなんて、うらやましいかぎりです。これからも、面白い評伝をいろいろ載せてください。僕は、清初の漢人では洪承田壽が気になってます。中国のドラマでは“孝荘秘史”でも“順治皇帝”でも一癖ある腹黒い人物で描かれています。台湾の歴史小説で明末清初を扱ったものがあるんですが、そこでは、政治にまるで理想をもたない、自分の懐を暖めるのに汲々としている人物になっています。中国で買った伝記では、その辺の胡散臭いところは描かれていず、一代の英雄です。僕は、満州族の王朝が漢民族を統治していくことを是としたうえで、どれだけ漢人のステイタスを上げるかということに腐心した人物だったと思っています。電気羊さんはこの人物についてはどんな風に思われますか?瀋陽には2年前に行ったことがあります。発展途上の大都市という感じでした。今、たまたま仕事で瀋陽オリンピックスタジアムのコンペに関わっています。これからもいろいろ建築ラッシュなんでしょうね。

  8. 電羊齋 より:

    > 阿祥 様自分も清朝史関係のホームページの少なさや密度の薄さに不満を覚えています。日本でも、中国でも(瀋陽を除く)、一般に清朝はあまり人気のある王朝ではないんですよね。まだ始めたばかりですが、なんとかがんばっていきたいと思います。洪承疇について>中国のドラマでは“孝荘秘史”でも“順治皇帝”でも一癖ある腹黒い人物で描かれています。台湾の歴史小説で明末清初を扱ったものがあるんですが、そこでは、政治にまるで理想をもたない、自分の懐を暖めるのに汲々としている人物になっています。以前は「滅満興漢」または台湾の「大陸反攻」のスローガンの下、清に寝返った「弐臣」を必要以上に貶める風潮がありましたが、その名残でしょうか?自分も最近范文程や洪承疇[田壽]や呉三桂といった清に仕えた漢人たちに大変興味を持っています。洪承疇ですが、仕える相手が明であれ清であれ「プロの政治家、軍人」として、職務に忠実に働き、漢人社会をいい方向に持って行こうとした人だったように思います。(それが「節操がない」と映るのでしょうが)自分の中では、五代十国時代の馮道のようなイメージがありますね。瀋陽は今建設ラッシュ。街のあちらこちらで新しいビルや高層マンションが建設中です。ただ、私の好きな張作霖時代の「中洋折衷」建築がどんどんなくなっていくのはさびしい限りです。なんだか、どの街も北京や上海のようになっていくのがたまらなく悲しいですね。

  9. 裕之 より:

    >電羊斎さま後ろの方で“電気羊”になっていました。失礼しました。>瀋陽は今建設ラッシュ。街のあちらこちらで新しいビルや高層マンションが建設中です。ただ、私の好きな張作霖時代の「中洋折衷」建築がどんどんなくなっていくのはさびしい限りです。>なんだか、どの街も北京や上海のようになっていくのがたまらなく悲しいですね。電気羊さんは瀋陽らしさってどの辺にあると思われますか?僕が瀋陽を歩いた時に気づいたのは、やたらと奇抜なデザインが目立ったことです。特に丸い外観の金融なんとかビルとか、空中にタワーが浮遊している裁判所の建物とか、映画のセットか何かかと思ったぐらいです。(北京にも空中楼閣のような駅がありましたね)もちろん“清朝一条街”では、清朝の昔の雰囲気をかもし出していてそれなりに観光資源とはなっているようですが、どうもテーマパークっぽくて、直裁に過ぎます。張作霖の御屋敷は、なるほど僕も感心した記憶があります。あんな時代にあれだけの建物を建てられたのは、大財閥とも言えるぐらいの経済力があったのでしょうね。ぼくが瀋陽に持っているイメージというのは、大草原の中にできた開拓村。満州族の中華帝国が成立するまでに、都は確か4回ほど移っていますよね。瀋陽以前の都はほとんど跡形もなくなってしまったと聞いています。瀋陽は唯一清朝の東北時代の都として現在に続いているわけですが、それも偶然残ったというか、歴史の歯車が違えば、瀋陽も跡形もなくなっていたのかもしれないという感じです。街の源としての渾河があり、街の記憶として故宮があり、金羊斎さんは他に瀋陽からイメージされることってありますか?

  10. 電羊齋 より:

    大草原の中の開拓村。言いえて妙ですね。黄砂吹き荒れる荒涼とした草原の中に立つ近代都市。瀋陽はまさにそういう街ですね自分の感じる「瀋陽らしさ」は、瀋陽故宮と付近の「中街」(旧四平街)や張作霖邸に代表される中洋折衷建築、中国的城郭都市の痕跡と、瀋陽駅付近の「満鉄附属地」に見られる欧風・日本風な都市とが違和感なく同居しているところでしょうか。それから「清朝一条街」は確かに取ってつけたようにテーマパーク的で、自分も「いかがなものか」という感想を持っています。阿祥様もおっしゃるように、最近は奇抜なビルが本当に多いですね。特に 瀋陽北駅付近の丸い外観(古銭をかたどったらしい)のビルはいまや瀋陽のランドマークと化してますねえ。何十年後かには文化財指定かもしれませんね(笑)>糠漬け 様「一晩中」はすこし大げさですが、悩みは多いですね。でも、まあ、これが「外国人」の宿命ですから(笑)外国で生きていく以上は、必ず通る道ですしね。

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