白い八旗兵――八旗俄羅斯佐領――5

五、同化――その後のロシア人たち――

    乾隆年間以後、俄羅斯佐領のロシア人は次第に自らの習慣や言語を忘れ、他の満洲旗人たちと同様に漢文化へと同化していった。道光二十九年(1849)北京を訪問し、俄羅斯佐領のロシア人たちと面会したロシア使節コワレフスキーの回想によれば、彼らの服飾・言語・容貌はすでに本国のロシア人とは全く違ったものになっていたという(1)

 そして俄羅斯文館も衰退の一途をたどった。『明清史料』 (2) 庚編 第八本所収の道光四年(1824)十月十六日付の「失名奏摺附片」には以下のように記されている。

失名奏招附片

再査、俄儸斯學由八旗挑取學生、學習俄儸斯字話。自康熙四十七年至乾隆二十九年、均係奏准挑取在京學習滿文之俄儸斯一名、協同教授。歷經遵辦在案、迨乾隆二十九年以後未經挑選俄儸斯人教授、即用本學出身之員、將所學俄儸斯文講習記誦。迄今數十餘年、為日已久、僅能以滿文章法繙寫俄儸斯字話。近日俄儸斯來文與本學抄記舊話日漸支離、遇有承繙事件査照檔案繙寫、間有疑異無從詢問。臣等公同酌議、請照歷屆成案、仍於駐京學習滿文之俄儸斯內挑取一名、協同教授。照例每月給飯食錢二串一體支領、俾學者得所傳習。如蒙兪允、臣等即將現在駐京之俄儸斯內擇取一名、協同教授、於繙來文曁教習八旗學生均有裨益。倘官生內有不勤學習者、仍分別咨革以示懲儆。臣等未敢擅便、謹合詞附片奏聞、伏祈皇上聖鑒謹奏。

[夾簽]於道光四年十月十六月奉旨、知道了、欽此

失名奏招附片

再び査するに、俄儸斯學は八旗由(よ)り學生を挑取し、俄儸斯の字話を學習せしむ。康熙四十七年自(よ)り乾隆二十九年に至るまで均しく京に在りて滿文を學習するの俄儸斯一名を挑取し協同して教授せしむるを奏准せるに係る、歷(しばしば)在案(処理済みの前例)に遵辦するを經るも、乾隆二十九年以後に迨(およ)びて未だ俄儸斯人を挑選して教授せしむるを經ず、即ち本學出身の員を用て學びたる所の俄儸斯文を將て講習、記誦せしむ。今に迄(およ)び數十餘年日已に久しき為め僅かに能く滿文の章法を以て俄儸斯の字話を繙寫するのみ。近日俄儸斯の來文と本學の抄記せる舊話は日(ひび)漸(やうや)く支離し、事件を繙(か)へるを承(うく)ること有るに遇(あは)ば檔案を査照して繙寫す。間(たまたま)疑異有らば、詢問するに從(よ)し無し。臣等公同し酌議し、請ふらくは、歷屆(れきかい)の成案に照らし仍(な)ほ京に駐まり滿文を學習せるの俄儸斯の內於(よ)り一名を挑取し、協同し教授せしめんことを。例に照らし每月飯食錢二串を給へ一體に支領せしめ、學者をして傳習する所を得させしめん。如(も)し兪允を蒙らば、臣等即ち將(まさ)に現在京に駐まりたるの俄儸斯の內一名を擇取し協同し教授せしめん。來文を繙ふること曁(およ)び八旗學生に教習するに於て均しく裨益有らん。倘(も)し官生の內に學習に勤めざる者あらば、仍(な)ほ分別して咨もて革(あらた)め以て懲儆を示さん。臣等未だ敢へて擅に便せず、謹みて詞を合せ片を附し奏聞す。伏して皇上の聖鑒を祈り謹奏す。

[夾簽]道光四年十月十六月に於て旨を奉ず、知道し了(をは)んぬ、此を欽(つつし)めり

 すなわち、乾隆二十九年(1764)以降、数十年間にもわたり新たなロシア人教師の任用がなく、俄羅斯文館所蔵のロシア語資料と現実のロシア語との乖離が激しくなり、翻訳事務に支障をきたすようになったので、北京に滞在するロシア人留学生から教師を任用するとの上奏が記されている。

 最終的に俄羅斯文館は、同治元年(1862)に、西洋諸国との外交交渉の必要から設立された中国初の近代的外国語学校「京師同文館」に吸収合併される形でその役割を終えたのである。

 そして、この時点で俄羅斯佐領の歴史的役割も終わったといえよう。

 以下、劉小萌氏の研究により、清末俄羅斯旗人とロシア伝道団との関係、彼らの状況について大まかに述べていきたい。

 俄羅斯旗人の間ではこのころまでに正教(東方正教会・ロシア正教会)の習慣は徐々に忘れ去られてゆき、結婚や葬礼も中国式のものへと変わっていた。

 姓名も次第にロシア風の姓を漢姓(中国風の姓)に改めていった。
以下例を挙げると、

ロマノフ         Романов  →  羅 Luo
ハバロフ         Хабаров  →  何 He
ヤコヴレフ      Яковлев  →  姚 Yao
ドゥビーニン   Дубинин →  杜 Du
ホロストフ      Холостов   →  賀 He

のように、ロシア姓の第一音節と似た発音の漢字を選んでいる(3)

 しかし、清末咸豊八年(1858)に天津条約が締結され、列強各国のキリスト教団の自由な布教活動が認められて以降、北京のロシア伝道団も再び活況を取り戻し、俄羅斯佐領の旗人たちも再び正教へと回帰した。なお、清朝とロシアや列強諸国との間に国家間の近代的な外交関係が樹立されたことにより、ロシア伝道団は咸豊十四年(1864)に外交的機能を新設されたロシア公使館に移譲、以後は布教に専念することになった。

 光緖十二年(1892)の教徒名簿によれば,北京の東方正教会(ロシア正教会)教徒は計459人、そのうち俄羅斯旗人は149人、中国人は310人であった。
俄羅斯旗人の正教回帰は宗教上の理由だけでなく、生活上の必要にもよるものであった。ロシアの後ろ盾を得ている教会に入信すれば、教会の保護を受けることができるだけでなく、就職・医療・子女の教育などでもより多くの機会を得ることができたのである (4)

 光緒二十六年(1900)に義和団の乱が勃発し、北館(聖ニコライ聖堂)は徹底的に破壊されたが、乱の終息後、ロシア軍の報復により破壊された隣の履親王府跡地を初めとする付近の土地を購入し、敷地面積を大幅に拡張して再建された(図一・図二(5)

 このころ俄羅斯旗人を含む北京の正教徒はすでに3000~3500人にものぼり、後には北京を起点として中国各地で積極的に布教活動を展開した。民国七年(1918)には北京の正教徒は5587人にも達し、発展のピークを迎えている(5)

 (図一)俄羅斯佐領関係地図(『乾隆京城全圖』(東洋文庫蔵))

 (図一)俄羅斯佐領関係地図(『乾隆京城全圖』(東洋文庫蔵))

 (図一)俄羅斯佐領関係地図(『乾隆京城全圖』(東洋文庫蔵))については、ウェブサイト「ディジタル・シルクロード」の『乾隆京城全図』をGoogle Earthで閲覧し、データ及び画像を作成した http://dsr.nii.ac.jp/beijing-maps/ (2020年11月7日アクセス)。なお、胡家圏胡同(『乾隆京城全圖』では「楜椒園衚衕」)の部分は「ディジタル・シルクロード」の東洋文庫アーカイブ>II-11-D-802>V-2>カラー画像 http://dsr.nii.ac.jp/toyobunko/II-11-D-802/V-2/page/0003.html.ja にて閲覧可能(2020年11月8日アクセス)。図一のデータは筆者のGoogle Driveからダウンロードし、Google Earth Proにて閲覧可能。ファイル名は「俄羅斯佐領関係地図.kml」、リンク先は下記の通り(2020年11月8日確認)。
https://drive.google.com/file/d/1vnJYDuBoX5JUnb78UawOfCHqe1wPplxa/view?usp=sharing

<span style="color: #000000;">(図二)『詳細帝京輿圖』光緒三十四年(1908)(『老北京胡同詳細図』中国画報出版社、2006年)。清末のニコライ聖堂ー北館ー(地図では「俄国館」。敷地は赤色で示されている)の様子。履親王府の敷地を飲み込み、南西に拡張されている。</span>

(図二)『詳細帝京輿圖』光緒三十四年(1908)(『老北京胡同詳細図』中国画報出版社、2006年)。清末のニコライ聖堂ー北館ー(地図では「俄国館」。敷地は赤色で示されている)の様子。履親王府の敷地を飲み込み、南西に拡張されている。

 

 清の滅亡後、八旗制度が廃止されると、生活の糧を失った俄羅斯旗人は先祖代々住みなれた東直門を出ていった。
1950年代から60年代には羅・何・姚・杜・賀姓の俄羅斯旗人の末裔はすでに北京・天津・ハルビン・ハイラルなど各地に散らばっていた(6)

 現在彼ら北京のロシア人の末裔の痕跡は完全に消え去ったかのようである。

 なお、彼らの最初の聖堂――ニコライ聖堂――(北館)とロシア伝道団は1955年に活動を終了し、土地・建物と財産をソ連大使館(現ロシア大使館)に譲渡し、その使命を終えたのであった(図三 (7)

 現在、ロシア大使館内に記念の十字架や高級僧侶の官邸など聖ニコライ聖堂とロシア人たちに関する若干の痕跡が残っている(8) 。東交民巷の奉献節聖堂(南館)は中国政府に移管され、その後の都市開発の波にのまれ、現在その痕跡はほとんど残っていない(9)

 彼ら、アルバジンの捕虜――八旗俄羅斯佐領――の子孫である「アルバジン人」の末裔は今も中国に住んでいる(10)
 中華人民共和国成立後、彼らの信仰する正教は政府の統制下に組み込まれ、国外から引き離された。そして「アルバジン人」の末裔は中国にやってきて少数民族「ロシア族」として残ったロシア人たちとともに
中ソ対立のあおりをうけ、さらに文化大革命により厳しい迫害を受けることになる。多くの正教教会が破壊され、イコンが破壊され、教会財産が略奪され、墓地が破壊され、多くの正教聖職者が命を落とした(11)
 改革開放開始後、中ソ関係の改善もあいまって、徐々にではあるが教会の再建、信仰の復活が始まっているが、往時には及ばないようである。現代中国で正教会の教えと習慣を維持しているのは,圧倒的にロシア族とアルバジン捕虜(「アルバジン人」)の末裔たちであるという(12)。近年、「アルバジン人」の末裔の中にはロシアに戻って姓をロシアのものに戻して敬虔な正教徒となる者、正教を学ぶためにロシアに留学する者、ルーツを求めアルバジンを訪れる者もいるという(13)

現在の様子

(図三)現代の様子 ニコライ聖堂(北館、図二の「俄国館」)の敷地は全てロシア大使館(東北角の大きな森がある地区)となっている。マーカーの位置(緯度、経度)は(図一)と同じ。『乾隆京城全図』をGoogle Earthで閲覧し、データ及び画像を作成。 http://dsr.nii.ac.jp/beijing-maps/ (2020年11月7日アクセス)

Google Earthのリンク先は下記の通り(2020年11月8日アクセス)。
https://earth.google.com/web/@39.94283075,116.41895862,49.44298732a,2977.0265389d,30y,-0h,0t,0r?utm_source=earth7&utm_campaign=vine&hl=ja

六、俄羅斯佐領の果たした役割――「媒介者」としての八旗――

 最後に、俄羅斯佐領の八旗制度における位置づけについて、現在の私の臆説を述べておきたい。
 俄羅斯佐領の果たした役割として一番大きなものはやはりロシア語に通じた人材の確保であったろう。
 俄羅斯佐領の任務は、八旗としての通常の兵役・課役以外に、ロシア語通訳・翻訳者、教師、外交交渉、そして戦時における偵察、道案内や降伏勧告などであり、おおむねロシア語・ロシア人としての特性を生かす任務についていたことがわかる。

 彼ら俄羅斯旗人は、「旗人」とロシア人という二重の特性を持ち、旗人として皇帝の手足となりながら、ロシア語・ロシア人としての特性を生かし、対露交渉や戦争に大きく貢献したのであった。

 この点は八旗古や漢軍といった満洲以外の旗人が果たした役割と非常に似通っている。清朝はその成立と拡大の過程の中でモンゴル・漢など異民族を巧みに征服・懐柔しているが、その際に満洲人支配階層とモンゴル人・漢人とをつなぐ媒介者となったのはモンゴル人・漢人からなる古旗人・漢軍旗人であった。

 古旗人は清初、八旗に編入された当初は従来どおり牧地に住み、他のモンゴル部族(ジャサク旗)と接触して暮らし、戦時には連携して戦うことによって清朝のモンゴル支配の媒介となり(14)、入関後には理藩院の官僚や藩部のさまざまな官職に積極的に登用され、モンゴル・チベット政策の実行にあたった(15)その際には「旗人」であり、モンゴル人であり、かつチベット仏教徒である古旗人は清朝と現地支配層・現地社会との円滑な関係づくりにおいて大きな役割を果たしている。

 漢軍旗人もまた「旗人」と漢人という二重の特性から、特に清初においては対漢人政策の立案・実行に大きく貢献している(16)

 楢木野宣氏による、清代の重要職官における旗人と科挙官僚の任官状況についての数量的分析によれば、清朝入関後まだ間もない順治年間においては、対漢人政策の実行者たる中国内地の総督・巡撫のポストは漢軍旗人によってほぼ独占されていた。当時の満洲人のほとんどは漢語(中国語)に習熟しておらず、漢人科挙官僚も決して信頼できる存在ではなかったため、八旗に所属する旗人でありながら漢人としての文化的背景を持つ漢軍旗人に漢人政策を任せたのである。しかし、満洲人の漢語習得・漢文化吸収が徐々に進行し、漢人科挙官僚にも清朝皇帝の権威が浸透するにつれ、満洲旗人や漢人科挙官僚の任用が次第に増加し、乾隆年間には漢軍旗人の総督・巡撫への任用は10%を割り込んでいる(17)。

 八旗蒙古や八旗漢軍はただ軍事的に清朝・満洲人に貢献したのみならず、そこから多くの忠実な旗人官僚を輩出することにより、満洲人支配階層とモンゴル人社会・漢人社会との間の媒介者としての役割をも担っていたのである。

 清朝における俄羅斯佐領も八旗の持つ「媒介者」としての性格のひとつの現れといえるかもしれない。

 

終わりに

 この拙文はまだ書きかけである。
 なにより、史料の不足が痛い。これはひとえに私の力量不足によるもので、清代の膨大な史料の山から必要な情報を探し出すだけでも一苦労する。
問題点としては、ロシア人部隊の任務のより具体的な内容、理藩院との関係、高麗佐領・番子佐領など他の少数民族(満・蒙・漢以外)佐領との比較などなど、まだまだ山積みといったところである。今後も新しい史料や情報が見つかり次第、加筆・訂正していきたい。

 ※なお、2006年9月に綿貫哲郎先生を通じ、劉小萌先生から「清代北京的俄羅斯旗人」 (発表レジュメ及びPowerpoint資料)をいただき、大変役に立ちました。今まで知りたくてもどうしようもなかったことが一目瞭然、本稿の内容を大幅に充実させることができました。両先生に心より感謝申し上げます。


………………………………………………………………………………………
(1)葉=科瓦列夫司基著、 閻国棟等訳『窺視紫禁城』親歴中国叢書、耿昇・李国慶主編、北京図書館出版社、2004年、
p.116
(2)『明清史料』庚編、中央研究院歴史語言研究所(台北)、1958年 → 中華書局、1985年。
(3)劉小萌「清代北京の俄羅斯旗人」細谷良夫編『清朝史研究の新たなる地平――フィールドと文書を追って』山川出版社、2008年、p.82、同「関於清代北京的俄羅斯人――八旗満洲俄羅斯佐領歴史尋蹤」『清史論叢』2007年号、中国社会科学院歴史研究所明清史研究室編、p.371→同『清代北京旗人社会』中国社会科学出版社、2008年、p.486→同『清代北京旗人社会(修訂本)』中国社会科学出版社、2016年、pp.388、劉氏は、俄羅斯佐領の後裔である杜立福、羅栄禄両氏による「俄国東正教在北京的興衰」『北京市東城区文史資料選編』第四輯、1993年(筆者は未見)にもとづいて、ロシア姓から漢姓への改名のルールを述べている。
(4)劉小萌「清代北京の俄羅斯旗人」細谷良夫編『清朝史研究の新たなる地平――フィールドと文書を追って』山川出版社、2008年、p.85~86、同「関於清代北京的俄羅斯人――八旗満洲俄羅斯佐領歴史尋蹤」『清史論叢』2007年号、中国社会科学院歴史研究所明清史研究室編、p.373~374→同『清代北京旗人社会』中国社会科学出版社、2008年、p.492~494→同『清代北京旗人社会(修訂本)』中国社会科学出版社、2016年、pp.392~395
(5)同上、及び馮其利『尋訪京城清王府』文化芸術出版社、2006年、p.138「17 履親王府和植公府的変遷」。
(6)劉小萌「清代北京の俄羅斯旗人」細谷良夫編『清朝史研究の新たなる地平――フィールドと文書を追って』山川出版社、2008年、p.90、同「関於清代北京的俄羅斯人――八旗満洲俄羅斯佐領歴史尋蹤」『清史論叢』2007年号、中国社会科学院歴史研究所明清史研究室編、p.376~377→同『清代北京旗人社会』中国社会科学出版社、2008年、p.498→同『清代北京旗人社会(修訂本)』中国社会科学出版社、2016年、pp.398、及び呉洋「清代“俄羅斯佐領”考略」『歴史研究』1987年第5期、1987年、pp.83~84
(7)劉小萌「清代北京の俄羅斯旗人」細谷良夫編『清朝史研究の新たなる地平――フィールドと文書を追って』山川出版社、2008年、p.90、同「関於清代北京的俄羅斯人――八旗満洲俄羅斯佐領歴史尋蹤」『清史論叢』2007年号、中国社会科学院歴史研究所明清史研究室編、p.377→同『清代北京旗人社会』中国社会科学出版社、2008年、p.498~500→同『清代北京旗人社会(修訂本)』中国社会科学出版社、2016年、pp.398~400
(8)注(3)p.377、及び劉小萌「清代北京的俄羅斯旗人」(国際シンポジウム「アムール川流域から見た露清関係」発表レジュメ、Powerpoint資料、日本大学文理学部図書館オーバルホール、2006年9月8日)。現在大使館内の実地調査は非常に困難であり、貴重な報告である。
(9)同上。
(10)アルバジンの捕虜――俄羅斯佐領――の子孫である「アルバジン人」の末裔の現状については、劉小萌「補記:俄羅斯人的新情況(2006年10月12日)」『清代北京旗人社会』中国社会科学出版社、2008年、pp.501~505→同『清代北京旗人社会(修訂本)』中国社会科学出版社、2016年、pp.400~405、及び水谷尚子「中国正教会の歴史と現状――中国と香港の正教会とロシア、日本」立命館大学『社会システム研究』第37号、2018年、pp.97~124に詳しい。
(11)水谷尚子「中国正教会の歴史と現状――中国と香港の正教会とロシア、日本」立命館大学『社会システム研究』第37号、2018年、pp.105~108
(12)同上、pp.108~110
(13)劉小萌「補記:俄羅斯人的新情況(2006年10月12日)」『清代北京旗人社会』中国社会科学出版社、2008年、pp.502~505→同『清代北京旗人社会(修訂本)』中国社会科学出版社、2016年、pp.401~405
(14)梅山直也「八旗蒙古の成立と清朝のモンゴル支配――ハラチン・モンゴルを中心に」『社会文化史学』第四十八号、2006年、pp.85~108
(15)村上信明「乾隆朝中葉以降の藩部統治における蒙古旗人官僚」『史境』第四十七号、2003年、pp.31-50、同「乾隆四○年代後半以降の藩部統治を担当した蒙古旗人官僚」『史峯』第十号、2004年、pp.1-18、同「清朝前期における理藩院の人員構成」『満族史研究』第4号、2005年、pp.141~162、同 『清朝の蒙古旗人――その実像と帝国統治における役割』ブックレット《アジアを学ぼう》4、風響社、2007年。
(16)このテーマに関する論著は枚挙に暇がないが、代表的なものは以下の通り。楢木野宣『清代重要職官の研究――満漢併用の全貌』風間書房、1975年、遠藤隆俊「范文程とその時代――清初遼東漢人官僚の一生」『東北大学東洋史論集』6、1995年、pp.434-458、神田信夫「清初の文館について」『東洋史研究』第十九巻第三号、1960年、pp.350-366→同『清朝史論考』山川出版社、2005年、pp.78-98。
(17)楢木野宣『清代重要職官の研究――満漢併用の全貌』風間書房、1975年。

 

加筆訂正履歴
2005.9.23 柳澤明・澁谷浩一氏の研究に基づき、第四章を加筆訂正。
2005.11.27 第一章のウルスラノフ(伍朗各里)の経歴を加筆。第四章を加筆訂正。
2005.12.29 第四章以降を全面的に修正。内閣俄羅斯文館の成立年代や構成などを加筆訂正。
2006.9.13 劉小萌氏の研究発表に基づき、第一章、佐領のロシア語呼称、第二章 ロシア人の生活、第四章俄羅斯佐領の任務(「その他」以降)、第五章、清末の俄羅斯旗人の正教回帰、ロシア姓と漢姓の対照例を加筆。
2006.9.19 第一章の八旗俄羅斯佐領の成立過程を加筆訂正。
2006.11.27 第五章及び「終わりに」を加筆訂正。
2006.12.20   第六章を加筆。
2007.2.21   参考文献に劉小萌氏の論文を追加。
2007.10.31   各章に注を付け、第四章と第五章以降を分割掲載。
2007.11.1     第二(ロシア人の生活)・四・五章(ロシア伝道団の解散)を加筆訂正。参考文献リストに呉洋「清代“俄羅斯佐領”考略」を追加。
2007.11.16   第一章の俄羅斯佐領の管理者、第二・三・四章、俄羅斯文館設立と馬斉、俄羅斯佐領の任務について加筆。第一章、第二章、第四章の漢文史料読み下しを歴史的仮名遣いに修正。注、参考文献リストを大幅に加筆。
2007.12.7     第一章の俄羅斯佐領の編成過程、及び誤字を訂正。
2008.5.10   誤字を訂正、本文フォントをメイリオに変更。2008.6.3    第三章を加筆訂正。
2008.7.15   第二章を加筆訂正、『乾隆京城全圖』(東洋文庫蔵)を追加、参考文献リストにも『乾隆京城全圖』を追加。2008.7.31   第二章に『乾隆京城全図』をGoogle Earthで閲覧した画像を追加、参考文献リストにも明記。

2008.8.1     第二章加筆訂正、参考文献リストの誤字訂正。
2008.8.3     第一章本文(ロシアとロシア人の呼称)と注の加筆、第二章の本文と注の訂正、『乾隆京城全図』のGoogle Earth画像修正。参考文献・サイトを増補。
2008.8.4 第二章本文・注の加筆。図の増補。参考文献リストに『詳細帝京輿圖』を追加。
2008.8.18   第五章本文・注・参考文献を加筆訂正。
2008.8.28   第五章に写真と画像を追加、第五章本文の加筆訂正。参考文献を増補。
2009.3.7    参考文献(論文・著作)を増補し、著者名を五十音・ピンイン順に並べ替え。第五章本文及び注を加筆訂正。
2009.4.3     本文誤字・脱字の訂正。
2009.11.26 第一章・第五章本文・各章表題・各章注・参考文献を加筆訂正。
2010.3.25  第一章・第六章を加筆訂正。
2010.4.7 第一章・第二章・第四章を加筆訂正。
2010.4.12   ロシア語の人名表記を修正。第一章注(4)及び参考文献リストに『異域録――清朝使節のロシア旅行報告』・『満漢異域録校注』を追加。第一章・第二章の誤字訂正。
2010.4.24 第六章の「仲介者」を「媒介者」に修正。その他第六章に加筆訂正。
2010.10.1 ブログ移転に伴う表示のずれ、フォント表示の不具合を訂正。第二章・第五章以降を加筆訂正。
2010.10.7 第六章を加筆訂正。参考文献・サイトを訂正。
2010.12.13 第一章・第二章・第四章~第六章の本文・注を加筆訂正。
2011.2.16 本文・注の満文固有名詞の表記を修正。第四章を加筆訂正。
2011.2.17 第六章を加筆訂正。
2011.6.18 第四章を加筆訂正。
2011.8.5 第二章・第五章を加筆訂正。
2011.11.23 第一章~第四章の名詞表記・フォント表示の不具合を修正。第三章の文章を加筆訂正。
2012.1.14 参考文献の表記を修正。
2012.6.5 第二章・第四章を加筆訂正。
2012.7.3 第五章を加筆訂正。加筆訂正履歴のタイトルを「(加筆、訂正)」から「加筆訂正履歴」とした。「終わりに」以降の各項目の間隔を一部手直し。
2014.3.5 第一章~第六章の本文を加筆訂正。第一章のウルスラノフの人名のロシア語表記を追加し、注にも根拠を加筆。その他本文・注のブログ移転に伴う表示のズレ・不具合及び
写真表示の不具合を修正。
2017.11.9 本文全体の表示のずれ、改行位置のずれを手直し。写真の表示・キャプションを手直し。
2020.9.27 本文全体の表記の不統一を修正、第一章、第四章を加筆修正し、第一章、第四章での人名表記を一部修正。参考文献を追加、変更。外部サイトへのハイパーリンクを解除。本文全体の表示のずれを修正。
2020.9.30 第一章の注に俄羅斯佐領に関する先行研究を追加。第二章注のハイパーリンクを解除。第五章注の参考文献の変更。参考文献を追加、変更。
2020.11.7 第一章~第五章の本文・注の加筆訂正。第二章、第五章の画像を差し替え、Google Mapsのリンクを追加。第五章に中華人民共和国成立後の状況を加筆。参考文献を追加。
2020.11.9 本文の文字色調整。第二章、第五章の画像を差し替え、Google MapsのリンクをGoogle earthのリンクに変更。参考文献・サイトの加筆訂正。第一章、第二章、第五章の本文、注を加筆訂正。
2020.11.14 第一章、第四章、第五章本文を加筆訂正。参考文献・サイトを加筆訂正。
2021.6.25 第一章本文を加筆訂正。
2023.10.4 第二章、第五章の誤字・脱字の修正。第二章、第五章の画像表示の不具合を修正。

参考文献・サイト
(史料)(順不同)
『清實録』中華書局、1985~87年
『康熙起居注』中国第一歴史档案館整理、中華書局、1984年
『八旗通志(初集)』東北師範大学出版社、1985年
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『八旗満洲氏族通譜』遼瀋書社、1989年
『jakūn gūsai manjusai mukūn hala be uheri ejehe bithe』(『八旗満洲氏族通譜』満文本、東京大学総合図書館所蔵本)2020年9月27日アクセス
https://iiif.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/repo/s/asia/item?search=%E5%85%AB%E6%97%97%E6%B0%8F%E6%97%8F%E9%80%9A%E8%AD%9C
『平定羅刹方略』(『朔方備乘』本 、何秋濤校訂) 『筆記小説大觀』十三篇、新興書局、1976年
康熙『大清會典』康熙二十九年(1690) 天理図書館所蔵本
乾隆『大清會典』(四庫全書本) 『欽定四庫全書』上海古籍出版社、1987年
『康熙帝伝』ブーヴェ著・後藤末雄訳・矢沢利彦校注、 平凡社東洋文庫155、1970年
『日下舊聞考』北京古籍出版社、1981年
『癸巳類稿』兪正燮、上海商務印書館、1957年
『明清史料』庚編、中央研究院歴史語言研究所(台北)、1958年 → 中華書局、1985年
『窺視紫禁城』葉・科瓦列夫司基著・ 閻国棟等訳、親歴中国叢書、耿昇・李国慶主編、北京図書館出版社、2004年
今西春秋撰『校注異域録』天理大学おやさと研究所、1964年
『詳細帝京輿圖』(『老北京胡同詳細図』中国画報出版社、2006年)
『乾隆京城全圖』(東洋文庫蔵)興亜院華北連絡部政務局調査所(北京)、1940年
(財団法人東洋文庫 「東洋文庫所蔵」図像史料マルチメディアデータベース、2020年11月9日アクセス)
http://dsr.nii.ac.jp/toyobunko/II-11-D-802/map/ (地図リスト目次URL)
(「東洋文庫所蔵」図像史料マルチメディアデータベース、古都北京デジタルマップ、2008年7月14日アクセス)
『乾隆京城全図』をGoogle Earthで閲覧 (2020年11月8日公開)
http://dsr.nii.ac.jp/beijing-maps/

(著作・論文)
(日本語文献)(著者名五十音順)
梅山直也「八旗蒙古の成立と清朝のモンゴル支配――ハラチン・モンゴルを中心に」『社会文化史学』四十八号、2006年
pp.85~108
遠藤隆俊「范文程とその時代――清初遼東漢人官僚の一生」『東北大学東洋史論集』6、1995年
、pp.434-458
岡田英弘『康熙帝の手紙』中公新書559、 1979年→同『康熙帝の手紙』藤原書店、2013年
神田信夫「清初の文館について」『東洋史研究』第十九巻第三号、1960年、pp.350-366→同『清朝史論考』山川出版社、2005年、pp.78-98
澁谷浩一「ロシア帝国外交文書館の中国関係文書について」『満族史研究』第1号、2002年、pp.92~112
楢木野宣『清代重要職官の研究――満漢併用の全貌』風間書房、1975年
羽田明「ジュンガル王国とブハーラ人――内陸アジアの遊牧民とオアシス農耕民」『東洋史研究』第十二巻第六号、 1954年、pp.513~532→同『中央アジア史研究』臨川書店、1982年、pp.252~274
水谷尚子「中国正教会の歴史と現状――中国と香港の正教会とロシア、日本」立命館大学『社会システム研究』第37号、2018年、pp.105~108
宮脇淳子「十七世紀清朝帰属時のハルハ・モンゴル」『東洋学報』第六十一巻第一・二号、1979年、pp.108~138
宮脇淳子『最後の遊牧帝国――ジューンガル部の興亡』講談社選書メチエ41、講談社、1995年
村上信明「乾隆朝中葉以降の藩部統治における蒙古旗人官僚」『史境』第四十七号、2003年、pp.31~50

村上信明「乾隆四○年代後半以降の藩部統治を担当した蒙古旗人官僚」『史峯』第十号、2004年、pp.1~18
村上信明「清朝前期における理藩院の人員構成」『満族史研究』第4号、2005年、pp.141~162
村上信明『清朝の蒙古旗人――その実像と帝国統治における役割』ブックレット《アジアを学ぼう》4、風響社、2007年
柳澤明「内閣俄羅斯文館の成立について」早稲田大学大学院『文学研究科紀要』別冊第16集、哲学・史学編、1989年、横書pp.75~86
柳澤明「17~19世紀の露清外交と媒介言語」『北東アジア研究』別冊第3号、2017年、pp.147~162
吉田金一「清初におけるロシア人捕虜について」『軍事史学』通巻18号第5巻第2号、1969年、pp.31~43
吉田金一『ロシアの東方進出とネルチンスク条約』近代中国研究センター、 1984年
劉小萌「清代北京の俄羅斯旗人」細谷良夫編『清朝史研究の新たなる地平――フィールドと文書を追って』山川出版社、2008年、pp.74~95
若松寛「オイラート族の発展」『岩波講座世界歴史13・中世7』 岩波書店、1971年、pp.73~101
(中国語文献)(著者名ピンイン順)
陳鵬「清代前期俄羅斯佐領探賾」『民族研究』2012年第5期、2012年、pp.74~84
馮其利『尋訪京城清王府』文化芸術出版社、2006年
劉小萌「清代北京的俄羅斯旗人」 (国際シンポジウム「アムール川流域から見た露清関係」 発表レジュメ、日本大学文理学部図書館オーバルホール2006年9月8日)
劉小萌「関於清代北京的俄羅斯人――八旗満洲俄羅斯佐領歴史尋蹤」『清史論叢』2007年号、中国社会科学院歴史研究所明清史研究室編、 2007年→劉小萌『清代北京旗人社会』中国社会科学出版社、2008年、pp.475~505→劉小萌『清代北京旗人社会(修訂本)』中国社会科学出版社、2016年、pp.379~405
劉小萌「補記:俄羅斯人的新情況(2006年10月12日)」『清代北京旗人社会』中国社会科学出版社、2008年、pp.502~505→同『清代北京旗人社会(修訂本)』中国社会科学出版社、2016年、pp.401~405
呉洋「清代“俄羅斯佐領”考略」『歴史研究』1987年第5期、1987年、pp.83~84
肖玉秋「北京俄羅斯旗人的歴史与命運」『南開学報』2017年第2期、2017年、pp.80~88
張雪峰「清朝初期俄羅斯佐領融入中華文化進程考」『西伯利亜研究』2007年第4期、2007年、pp.56~58
張雪峰「阿爾巴津人在中俄関係史上的地位」『西伯利亜研究』2009年第5期、2009年、pp.72~74

(英語文献)
Tatiana A.PANG,“The“Russian Company” in the Manchu Banner Organization”,in Central Asiatic Journal  Vol. 43, No. 1 (1999):132-139

(サイト)
「アルバジン小史」(Samovarの旅ページ アムール流域 http://samovar.sakura.ne.jp/Amur/zatsugaku/albazin.htm)(2020年11月7日アクセス)

(追記)
大学院在学中、私は康熙・雍正年間の軍事史や北方民族史を少しばかりかじっておりまして、ロシア人捕虜や清露交渉についての史料もいくつか発見してはいたのですが、修士論文では構成の都合で、結局使用することはありませんでした。今回は、長い間パソコン内に眠っていたこれらの史料に日の目を見させる目的もあって、この拙文を書いてみた次第です。いわば修士論文の副産物という感じです。

白い八旗兵――八旗俄羅斯佐領――5” に対して2件のコメントがあります。

  1. より:

    私は2006年の10月に、つまり歴史系設立50周年祭の時に、同学部の皆さんと一緒に先輩である劉先生から「清代北京におけるロシア八旗」の講座を受けました。実に面白かった講座であります。
    ロシア人の捕虜>満州化(上三旗満州に編入され)>旗人化(満漢が融合し)>漢人となった過程が確かに不思議な真実ですね。

  2. 電羊齋 より:

    >阿敏様ロシア人の捕虜>満州化(上三旗満州に編入され)>旗人化(満漢が融合し)>漢人となった過程。自分もこの点は非常に面白いと思います。満洲族や八旗について、これまでの研究では満洲化と漢化のみが注目されてきましたが、やはり「旗人化(満漢融合)」も見逃せない要素だと思います。八旗や旗人の文化は、明代の女真族のもの、漢族、モンゴルその他いろいろな要素が合わさって完成した独特なものです。女真のものでもないし、漢族とも、モンゴルとも違う独特の集団が出来上がったのです。民国時代、満洲族を「旗族」と呼ぶべきだという提案がなされたのも当然かもしれません。

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