東方録夢――第五回 「批評」と「自説の開陳」

批評という言葉を聞くと、どうしても思い返してしまう光景がある。ネット上では、「批評」と「自説の開陳」の区別がついていない文章を、驚くほど頻繁に目にするのだ。

たとえば書評。
本来なら、その本が語ろうとするテーマや構成を丁寧に読み取り、その意義を踏まえて評価するのが書評の役割だ。しかし現実には、本の主題と無関係な話題を持ち出したり、その本にはまったく触れられていない内容を土台にして、自分の主張を展開してしまう人がいる。
それでは「書評」の形をしていても、本との対話が成立していない「自説の開陳」にすぎない。

そもそも批評とは、対象に誠実に向き合い、その内側にある構造や意味をつかんだうえで、自分の言葉で評価する営みであるはずだ。それなのに途中から「自分が言いたいこと」だけが先走り、肝心の対象が置き去りになってしまう――そんな場面に出会うたびに、少し残念な気持ちになる。

特に Amazon のレビュー、SNS や各種書評サイトを眺めていると、その傾向はより強く感じられる。
本当に読んだうえで書いているのか疑いたくなるレビューや、精読していればまず出てこないだろう感想、批判としても論点がずれてしまっている指摘……そんなものがずらりと並んでいることも珍しくない。

さらに、これは私が専門的に関わる領域だから余計に気になるのだが、中国や韓国・朝鮮に関する本になると、その傾向はいっそう際立つ。本の内容に触れないまま、反射的に偏見や一面的な見方、自分の狭い世界観をぶつけてしまうケースが実に多い。もはや「批評」どころか、本という媒介そのものが消え失せ、「ただ言いたかっただけ」の言葉が一人歩きしているように見える。

正直なところ、ああしたものには少々ウンザリしてしまう。

学会や講演会の質疑応答でも、似たような光景をしばしば目にする。
発表内容や講演内容とは関係のない自説を長々と語ってしまい、質疑応答の場を「自説の開陳」の場として私物化してしまう――あの手の人たちだ。対象よりも自分を優先してしまうという点では、ネット上の現象と根っこは同じなのだろう。

もっとも、ここまで書いておいて何だが、私自身もときに「自分が言いたいこと」がつい前に出てしまうことがある。
だからこれは他者への批判であると同時に、私自身への戒めでもある。批評を書くときこそ、まず対象に誠実であること。その姿勢を忘れず、これからも言葉と丁寧に向き合っていきたい。