北京遊記之一 ―北京内城東南角城壁―
10月31日から11月2日まで、翻訳会社のレクチャー参加と友人に会うために北京に行ってきました。
まずは10月30日~10月31日の出来事から。
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10月30日~10月31日
10月30日夜、家からタクシーで大連駅へ。発車までまだ一時間半もあったので、駅前の勝利広場の吉野家で牛丼セット(牛丼並+茶碗蒸+キムチ 18元)を食べて腹ごしらえ。
食べ終わった後、大連駅の候車室(待合室)へ移動し、9時ごろに北京行きK681次列車の硬臥(B寝台)に乗車。内部は片側が寝台、片側が通路となっている。私の乗った車輌は背広を着たビジネスマンが多かった。やっぱり普段乗ってる硬座(二等車)とは客層が全然違う。
取引先の日本人からもらったらしい名刺を眺めているビジネスマンもいた。
列車は9時半に定刻通り出発、私のベッドは3段ベッドの中段で上下空間がかなり狭いので、窓際の補助椅子(上段、中段ベッドの乗客用)に座って本を読んだ。倉沢進・李国慶著『北京ー皇城の歴史と空間ー』(中公新書 2007)、北京の都市史と社会史を扱った本。
10時ごろに中段ベッドに寝転がり、10時半の消灯まで引き続き読書。
最近生活が夜型なので、寝台車で眠れるかどうか心配だったが、気がついたら寝ていた。
翌朝6時半、車内放送と革命歌曲「歌唱祖国」(オリンピックの開会式で女の子が口パクで歌った)の勇ましいメロディでたたき起こされた。いつの時代や?朝から革命歌曲かいな?
朝食に、勝利広場のコンビニで買っておいたパンを食べる。それからレクチャー参加のため、背広に着替えた。
私のそばでは背広を着たビジネスマン二人がクリアファイルに綴じた資料を読みながらあれこれ議論していた。プレゼンの資料だろうか。
列車は朝8時40分ごろ北京駅に到着。向かいにCRH和谐号(中国版新幹線)が停車していた。本当に新幹線そっくりだった。
レクチャーは午後なので、午前中は北京駅の近くの城壁跡公園を見学することにして、改札口付近の預かり所にバッグを預けた(20元)。預かり代20元とは、さすが北京。大連なら10元ぐらいだろう。
身軽になったところで、北京駅の大時計の鐘が聞こえてきた。もう9時か。
メロディはなんと「東方紅」。ずいぶんひさしぶりに聞いた。中国は建前上はまだ毛沢東主義らしい。
駅前広場にはカバン代わりに荷物を詰め込んだ肥料袋を担いだ出稼ぎ農民らしき集団がたくさんいた。
そのまま歩いて北京駅の近くの城壁跡公園、北京明城牆遺址公園へ。
明城牆遺址公園は北京の内城城壁(位置は地下鉄2号線の路線とほぼ同じ)の東南角にあたる。北京は明代以降高い城壁に囲まれてきたが、1960年代までにほとんどが撤去され、現在残存しているのは内城の東南角(北京駅付近)と西南角のみとなっている。前夜に『北京』で、城壁保存を訴えた梁思成のエピソードを読んだところだったので、感慨もひとしお。
11時ごろまで城壁を見た後、北京駅前に戻り、少し早めに昼食
昼食後預かり所でバッグを受け取り、午後のレクチャーへ。
北京明城牆遺址公園入口(北京站東街、建国門内大街十字路)
内城東南角 角楼(東南方向から撮影)
角楼内部
内部には各城門の模型や当時の武器などを展示
城壁が鉄道で寸断
火車券洞
民国時代、1915年に京師環城鉄路(正陽門(前門)―東直門―西直門)が敷設された際に城壁に開けられた鉄道用出入口。京師環城鉄路は戦後廃線となり、この火車券洞は現存する唯一の遺構。
1916年当時の路線図 京师街道并环城铁路图 – 交通 – 京城舆图 – 北京记忆首页
火車券洞内側
東南角楼から北京駅を望む。
左は火車券洞。環城鉄路は現在の線路が走っている場所を横切る形で走っていた。画面奥に見えるのが北京駅。
京奉鉄路信号所
北京と奉天(現瀋陽)を結ぶ京奉鉄路は、正陽門(前門)を起点とし、内城城壁の南を通過していた。1959年、現在の北京駅建設と正陽門駅廃止により当区間の線路を撤去。
京奉鉄路については、こちらのサイトがよくまとまっている。
京奉鉄路のレールと説明
崇文門付近の切れ目。内側の版築構造と外側の煉瓦の組み合わせ方がよくわかる。
煉瓦層の厚みは約1.5~2mぐらい