大政殿と十王亭
大政殿と十王亭は図のように瀋陽故宮東側に位置。大政殿を頂点として十王亭が八の字型に並んでいる。
大政殿はハン(皇帝)が鎮座し、十王亭は八旗の諸ベイレ(beile、貝勒、旗王、八旗各旗を支配する王)や大臣たちが事務を執り行う場所で、八旗亭とも呼ばれる。大政殿の建築様式は北方騎馬民族の移動式テント(ゲル)を思わせ、また大政殿と十王亭によって構成される建築群は北方騎馬民族の幕営(本陣)を思わせる配置で、満洲人の社会・軍事制度である八旗制度を色濃く反映したものとして非常に有名。
瀋陽故宮配置図(Google Earth 衛星写真により作成 2008年4月)
今回はまず大政殿を紹介。その後で十王亭ともあわせて建築群全体の性格について書いていきたい。
一、大政殿の建築
大政殿(満文:Amba dasan i diyan)
大政殿(2005年5月撮影)
大政殿 殿額(2008年9月撮影)
左 満文:amba dasan i diyan,, 右 漢文:大政殿
大政殿は瀋陽故宮東側(東路)の北に位置する宮殿で、清朝初期はハンが八旗各旗のベイレ、大臣たちを集めて政治や軍事の諸問題について議論し、政策決定を行った。また国家的な儀式・典礼や宴会もここで行われた。
1625年ヌルハチが瀋陽に遷都後すぐに造営が始められた。清朝初期は大衙門・大殿・篤恭殿などと呼ばれていたようだが、それがいつ「大政殿」と改められたかははっきりしない。ただ、遅くとも康煕年間にはすでに大政殿と呼ばれていたらしい。
清初の史料にはこの「大衙門」や「大殿」にハンとベイレ、大臣たちが集まって会議をしている様子が数多く記載されている。これは「議政王大臣会議」とよばれるもので、当時の国家の最高の意思決定機関だった。
大政殿は高さ約18m、八角形の建物に八角形の屋根が乗っており、釘を一本も使用せずに建てられている。形状はモンゴル族など北方民族の移動式テント(ゲル)に似通っている。
また、清朝のシャーマニズムの儀式が行われた堂子の祭天殿も八角形であり、このような八角形の建物は遼陽の東京城にも建てられており、八角形の宮殿が伝統的に満洲人に好まれたことが分かる。
すなわち大政殿の様式は満洲(女真)族、モンゴル族双方の伝統的な様式にのっとったものであると言える。
屋根は黄色の瑠璃瓦が葺いてあり、緑の瑠璃瓦で縁取りがなされている。
屋根の頂点には宝珠があり、そこから放射状に8本の屋脊(隅棟)が伸びていて、その上には走獣が乗っており、火災や落雷、風水害などから建物を守護する役割を担っている。
入口の柱には二頭の竜が巻きついている。
また、大政殿はハン(皇帝)が鎮座する中心的な建築物であるにも関わらず基壇は低い位置にあり、瀋陽故宮で一番高い位置にあるのは、皇帝・皇后の居住空間である内廷、すなわち鳳凰楼と清寧宮を中心とする建築群である。これも満洲族の伝統的な様式を受け継いだものであり、北京の紫禁城に代表される漢族の宮殿建築とは大きく異なっている。
二、大政殿内部――扁額と対聯に見る過去と未来、満洲的精神と儒教的教養――
大政殿内部(2008年9月撮影)
内部には玉座(宝座)と屏風が置かれている。なお現在置かれている玉座は1970年代に北京故宮の皇極殿から移動したものという(細谷良夫 編『中国東北部における清朝の史跡――1986~1990――』p.26)
その後ろには乾隆帝御筆の扁額と対聯が掲げられている(乾隆二十二年(1757)筆)。
20世紀初めの古写真も載せておく。
大政殿内部(20世紀初 内藤虎次郎 『満洲写真帖(増補版)』
→遼寧省図書館編『盛京風物――遼寧省図書館蔵清代歴史図片集――』P30)
1.扁額
扁額には乾隆帝の力強い筆跡で
泰交景運
と記されている。
泰交とは『周易』(易経)泰に由来する言葉で、王と臣下が親しく交わり、上下の風通しが良く、心が一つであることを意味している。『周易』泰には以下のように記されている。
泰小往大來、吉亨。
泰は小往き大來る、吉にして亨(とお)る。彖曰、泰小往大來、吉亨則是天地交而萬物通也。上下交而其志同也。
彖(たん)に曰く、泰は小往き大來る、吉にして亨るとは、則ちこれ天地交わりて萬物通ずるなり。上下交わりてその志同じきなり。
(現代語訳)
「泰は小往き大來る、吉にして亨る」。
彖に「泰は小往き大來る、吉にして亨る」とあるのは、すなわち天と地が交わりあって、万物がともに通じ合っていること、王と臣下が交わりあって心を一つにしているということである。
※彖(たん。易の卦の意味について論じたもの。周の文王の作という)
※亨(とおる(とほる)。神が受け入れる。物事が順調にいく。支障なく行われる。)
そして景運とは『晋書』巻九十九 桓玄伝や『周書』巻十六 独孤信伝などに見える言葉で、良き時代にめぐり合うことを意味する。
すなわち「泰交景運」とは皇帝と臣下が心を一つにして良き時代を実現しようという志を表したものである。
2.対聯
玉座の左右の対聯は、上聯(玉座に向かって右)には「神聖相承恍睹開國宏猷一心一德」と下聯(向かって左)には「子孫是守長懐紹庭永祚卜世卜年」と記されている。
上聯の内容は清王朝の過去の歴史を語ったものである。
神聖相承恍睹開國宏猷一心一德
神聖相い承けて恍(あたか)も睹(み)る、國を開きたる宏猷の一心一德を
(現代語訳)
神聖なる皇帝の位を代々受け継いできたが、今、わが国が建てられたとき、遠大な志の下、皆が心を一つにしていたのが目に浮かぶようだ
「一心一德」という言葉は清初から満洲族の団結と忠誠を呼びかけるスローガンとしてしばしば用いられてきたもので、入関前の満文史料にも「emu mujilen/mujilen emu」(一心、心を一つに)として頻出している。
康熙、雍正、乾隆帝も常日頃から口をすっぱくして臣下に団結と忠誠を呼びかけており、詔勅や聖訓には「一心一徳」や「一体」、「一家」といった文字がことあるごとにしつこく登場する。史料を読んでいるとき、あまりの多さに「二言目には……」といった感じすら受ける。
そしてこの一心、emu mujilenという言葉は満洲の模範たる「正しい心」という意味合いをも含んでいたらしい(谷井俊仁「一心一徳考――清朝における政治的正当性の論理――」)。
すなわち上聯は、皇帝と臣下が心を一つにして、団結して清王朝を築きあげてきたことを語っている。乾隆帝は、大政殿に集まった君臣が政治や軍事について親しく語り合い、一致団結して清朝を築き上げてきた様子を思い起こし、満洲族がもう一度初心に立ち返ることを願いながら書いたのであろう。
一方、下聯の内容は清王朝の未来への決意を表明したものである。
子孫是守長懐紹庭永祚卜世卜年
子孫是れ守りて長(とこ)しえに懐(おも)う、庭を紹(つ)ぐ永祚の卜世卜年を
(現代語訳)
我々子孫はこの王朝を守り、祖先の業績を受け継ぎ永く幸福に王朝が続いていくことを永遠に願っている
と記されている。
紹庭、庭を紹(つ)ぐとは、『詩経』周頌、訪落に由来する言葉で、祖先の業績を学び、受け継ぐことをいう。これは周の成王の作であるらしい。
訪予落止、率時昭考。於乎悠哉、朕未有艾。將予就之、繼猶判渙。維予小子、未堪家多難。紹庭上下、陟降厥家。休矣皇考、以保明其身。
予(わ)れが落(はじ)めに訪(と)うて、時(こ)の昭考に率(したが)わん。於乎(ああ)悠(とお)いかな、朕(わ)れ未だ艾(つ)くすこと有らず。將に予れ之に就かんとすれども、繼ぐこと猶判(わか)れ渙(ち)らん。維(こ)れ予れ小子、未だ家の難(なや)み多きに堪えず。庭に上下し、厥(そ)の家に陟(のぼ)り降れるを紹(つ)がん。休(よ)いかな皇考、以て其の身を保(やす)んじ明らかにせん。
(現代語訳)
余(周の成王)は初めに政治について相談したとき、父王(周の武王)を見習おうとしたが、ああ、父にはまだほど遠い。余はまだ父に近づけていない。父王を見習おうとはするが、まだまだ心が散漫で見習えていない。息子である余はまだ家の多くの悩みを引き受けきれない。朝廷に昇り降りし、家に昇り降りする父の霊魂を受け継ごう。良き父王よ。余を守り、輝かせたまえ。( )内引用者(以下同じ)。「紹庭上下、陟降厥家」については色々な解釈があり、これはあくまで一例
永祚とは『詩経』大雅、既酔に由来する言葉「永錫祚胤」の略で、王室の子々孫々にまで永く福が及ぶという意味である
其類維何、室家之壷、君子萬年、永錫祚胤
其の類(よ)きこと維(こ)れ何ぞ、室家の壷(みち)あり。君子萬年までに、永く祚胤(そいん)を錫(たま)わん
(現代語訳)
その良いところは何だろうか、(周)王室が大いに栄えることだ。王は万年にわたって、子々孫々に至るまで永く福を受けるだろう
卜世卜年とは『春秋左氏伝』宣公三年の記事に由来する言葉で、王朝の徳により天命が永く続くという意味である。これは有名な「鼎の軽重を問う」の故事の一部である。
春秋五覇の一人、楚の荘王は野心に燃え、周の定王が派遣した大夫の王孫満に対し、夏王朝以来代々の王に受け継がれ、王位の象徴とされていた鼎の重さについて尋ねた。これは、鼎を運搬するにあたって重さを知っておきたい、すなわち鼎を自分が受け取り、自分が王になってやるという脅しである。
だが、王孫満は、夏の桀王に徳がなかったので鼎は商に移り、殷の紂王は暴虐だったので鼎は周へと移ったのであって、重さではなく徳が大事であると語り、最後に以下の言葉によって、荘王の脅しをはねつけた。
天祚明德、有所底止。成王定鼎于郟鄏、卜世三十、卜年七百、天所命也。今周德雖衰、天命未改。鼎之輕重、未可問也。
天の明徳に祚(そ)するや、底止(ていし)する所有り。成王、鼎を郟鄏(こうじょく)に定め、世を卜(ぼく)するに三十、年を卜するに七百なり。天の命ずる所なり。今周の徳衰(おとろ)うと雖(いえど)も、天命未だ改まらず。鼎の軽重、未だ問う可(べ)からざるなり。
(現代語訳)
天が(周の)明徳に報いて、ようやく鼎はひとつの場所に留まったのだ。成王は鼎を郟鄏に安置し、自分の治世の長さを占ったところ三十年、王朝の長さを占ったところ七百年であった。これは天が命じたものである。今、周の徳が衰えたといえども、天命はまだ改まっていない。鼎の軽重はまだ問うべきではない。
このように、下聯の「紹庭」・「永祚」・「卜世卜年」はいずれも儒教において理想的な世とされている周代の故事にちなんだ言葉で、清を周になぞらえつつ、上聯で示された清朝の過去の業績を受け継ぎ、王朝を未来にわたって永続させようという決意を表明したものである。
以上、対聯は上聯で皇帝と臣下が心を一つにして(一心一德)国を開いたことを思い起こし、下聯では清朝を周になぞらえ、王朝を未来にわたって永続させようという決意を表明している。過去と未来、満洲的精神と儒教的教養が併存した対聯は、乾隆帝と当時の満洲人の心のありようを知る上で非常に興味深い。
三、十王亭(八旗亭)
大政殿と十王亭 南側から撮影(2004年4月撮影)
大政殿、十王亭配置図(Google Earth 衛星写真により作成 2008年4月)
十王亭は八旗の左翼王と右翼王、八旗の諸ベイレと大臣たちが各旗の事務をとり行う場所で、それゆえ「八旗亭」とも呼ばれている。典礼の際にはベイレや大臣が自分の所属する旗の旗亭の前に整列し、ハンに謁見した。
建物の配置を見ると、大政殿を頂点に十王亭が八の字形に配置され、北方騎馬民族の幕営、戦陣を思わせる。
入関前の清朝は、八旗がすなわち国家であった。
大政殿と十王亭からなる東路はハンと八旗各旗のベイレや大臣たちが国家の政治や典礼を行う場所であり、それゆえ建築様式や建築配置は北方騎馬民族の伝統、そして八旗制度に則ったものとなっている。
八旗は左右翼四旗ずつに分かれており、それぞれ左翼王・右翼王により統率されていた。部族を左右翼に分けて統率するのは匈奴以来の北方アジア騎馬民族の伝統的な慣習で、南を正面として東側が左翼、西側が右翼とされていた。
八旗の場合は
左翼:鑲黄旗・正白旗・鑲白旗・正藍旗
右翼:正黄旗・正紅旗・鑲紅旗・鑲藍旗
という構成となっており、現在の瀋陽故宮の十王亭の配列もこの原則に従っている (※)。
大政殿と左翼五王亭
(奥から手前へ順に、大政殿・左翼王亭・鑲黄旗亭・正白旗亭・鑲白旗亭・正藍旗亭)
(2012年8月撮影)
大政殿と右翼五王亭
(奥から手前へ順に、大政殿・右翼王亭・正黄旗亭・正紅旗亭・鑲紅旗亭・鑲藍旗亭)
(2012年8月撮影)
各旗亭の内部には八旗各旗の旗印(旗纛)や甲冑・武器・文物が展示してある。
個人的に面白かったのは弓矢で、以前大三島の大山祇神社で見たモンゴル弓(蒙古襲来時のもの)とそっくりだった。
各旗亭内部には、八旗各旗の旗や甲冑、武器、文物を展示(2005年5月撮影)
(フォトギャラリーにも写真をUPしてあります)
(※)
以前(1980~90年代ごろ)の十王亭の配列は
左翼:左翼王亭・正黄旗亭・正紅旗亭・鑲藍旗亭・鑲白旗亭
右翼:右翼王亭・鑲黄旗亭・鑲紅旗亭・正藍旗亭・正白旗亭
という配列とされており、これは乾隆年間の修復記録に基づいたものだという(細谷良夫編『中国東北部における清朝の史跡――1986~1990――』p.27)
なお、ヌルハチ時代の八旗左右翼の配列は
左翼:正黄旗・正紅旗・正藍旗・鑲藍旗
右翼:鑲黄旗・鑲紅旗・正白旗・鑲白旗
で、ホンタイジ即位後に現在知られる通常の左右翼配置になったという(白新良「努爾哈赤時期八旗左右翼小考」)。
以前の十王亭の左右翼の配列はこのヌルハチ時代のものに近いが、鑲白旗が左翼に、正藍旗が右翼に属している点が異なっている。
なお、村田治郎『満洲の史蹟』等多くの文献や現在の瀋陽故宮では、十王亭に通常の左右翼配列を採用している。
参考文献・サイト(順不同)
(参考文献)
中国語(著者名ピンイン順)
白新良「努爾哈赤時期八旗左右翼小考」『歴史檔案』1981年第4期→白新良『清史考辨』人民出版社、2006年
杜家驥『八旗與清朝政治論稿』国家清史編纂委員会研究叢刊、人民出版社、2008年
遼寧省図書館編『盛京風物――遼寧省図書館蔵清代歴史図片集――』国家清史編纂委員会・図録叢刊、中国人民大学出版社、2007年
孟森「八旗制度考実」『歴史語言研究所集刊』6-4、1936年→孟森『明清史論著集刊』上、中華書局、1959年
羅麗欣:文・佟福貴:図『瀋陽故宮』遼寧世界遺産画廊、瀋陽出版社、2005年
佟悦編著『瀋陽故宮』清文化叢書、一宮三陵系列、瀋陽出版社、2004年
日本語(著者名五十音順)
谷井俊仁「一心一徳考――清朝における政治的正当性の論理――」『東洋史研究』63-4、2005年
内藤虎次郎 『満洲写真帖(増補版)』小林写真製版所出版部、1935年
細谷良夫編『中国東北部における清朝の史跡――1986~1990――』平成2年度科学研究費補助金・総合研究B「中央ユーラシア諸民族の歴史・文化に関する国際共同研究の企画・立案」成果報告書No.3、1991年
村田治郎『満洲の史蹟』座右宝刊行会、1944年
(サイト)
占いの玉手箱、易経の解説(2010年10月7日アクセス)
http://www.e-tamatebako.com/eki/index4.html
中央研究院(台北)漢籍電子文献、十三経、『十三経注疏』、『周易』巻二、泰(2010年10月7日アクセス)
http://hanji.sinica.edu.tw/index.html