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ここでは火器営の前史として、清初における火器の摂取とその運用について、先行研究にもとづいて述べておきたい。

 なお、清=後金の国号は、本文中では便宜上清に統一する。

 

  一、火器の特色

 火器の兵器としての特色を整理すれば

     

①火器は高速の弾丸と、音と光、硝煙などにより、敵に物理的・精神的に多大な打撃を与える。 

②その反面、刀剣や弓矢にくらべ複雑な機構を持ち、精緻な操作技術を必要とする。

③火器は集中的な運用によって初めて十分な効果を発揮できる。

④したがって火器の運用には数的優勢と大量の弾薬消費が必要で、国家財政の整備と高度な生産体制(製造技術、原料確保、鉱工業の発展)、輸送(補給)能力の確保が不可欠となる。

 

となる。つまり、火器とは絶大な威力を持つ反面、極めて手のかかる兵器なのである。

 

 近世以降ヨーロッパ諸国では火器に関するこれらの条件を満たすため非常な努力を払った。

 ①と②に対する回答は、軍隊における統一的な部隊編成と弾丸と砲声にもおびえぬ一糸乱れぬ規律、マニュアル化された大規模な教育訓練制度の導入であり、後には国家全体の教育制度にもその影響が広がっていった。

 ③に対する回答は騎士による個人戦に代わる方隊や横隊による火器の集団的運用であった。そのため、軍人、兵士の専門職化と君主権に直属する常備軍の整備が行われた。

 ④の条件は都市におけるマニュファクチュア(工場制手工業)の繁栄と商工業の発展、それによる火器の規格統一、絶対君主による彼らへの保護重商主義と強大な中央権力によって実現された。

  それでは、中国最後の王朝たる清(後金)は、火器のもつこれらの条件に対してどのように対処していったのだろうか。

 

   二、火器との出会い

 天命元年(1616)正月、ヌルハチ(努爾哈赤)はハン位につき、清(後金)を建国。天命三年(1618)四月、『七大恨』を発し、明に戦いを挑んだ。清はこの明軍との戦いの過程で火器と出会った。

 だが、ヌルハチ時代には清軍において火器が使用された形跡はほとんど見られない。ヌルハチも火器を軽視していたわけではなく、天命七年(1622)正月には帰順した漢人に、その管轄下の人口に応じて一定数の火砲を準備することを命じてはいた(『満文老档』太祖第三十二 天命七年正月六日)。だが、どこまで実行されたかはよくわからない。

 天命十一年(1626)正月、ヌルハチ率いる八旗は山海関前面の寧遠城を攻めたが、紅夷砲を擁する明軍の反撃に遭い敗北。その後、父ヌルハチの跡を継いだ太宗ホンタイジ(皇太極)も紅夷砲を初めとする明軍の火器によりたびたび苦杯をなめた。

  

 三、火器部隊――八旗漢軍の編成――

 冒頭で挙げた、火器の兵器としての特色の①・②・③に対して、生まれたばかりの清政権の出した回答は、火器の操作に熟達した投降漢人からなる火器部隊-「八旗漢軍」の編成であった。

  

 1、火器の製造と運用開始

 天聡五年(1631)、 皇太極は佟養性と彼の率いる投降漢人に命じて、初めて3門の紅夷砲の製造に成功し、その他の火器も徐々に製造されるようになった。

 佟養性はもともと女真族のトゥンギャ(佟佳)氏族の出である。彼の先祖は開原、のち撫順に移転し、漢人風に佟姓を名乗り、貿易活動に従事。明勢力下の東北にて大きな経済力を築きあげた。天命四年(1619)に撫順が陥落したとき一族はヌルハチに投降している(『八旗満洲氏族通譜』巻二十 佟佳地方佟佳氏)。

 佟一族は漢人の間での生活が長く、明の制度や言語習慣を熟知しており、投降漢人と満洲族支配層の仲立ちとして活躍、清の対漢人政策の中心となった。佟一族は紅夷砲製造に関しても漢人のとりまとめに活躍、そしてこの漢人集団はのちに八旗漢軍へと発展する。

 

 清は、天聡五年(1631)正月の紅夷砲完成以来、臨時編成の漢人部隊に操演を行わせ、三月二日、太宗ホンタイジ自ら火砲、鳥槍(火縄銃)の射撃訓練を観閲し、「器械精良、操演嫻熟なるを以て、帑金を出し大いに軍士を賚(ねぎら)」った(『太宗実録』巻八 天聰五年三月丁亥(十三日)) 。

 

 そして、同年六月ホンタイジは明の大凌河攻撃を決断、その後漢人部隊にも出動の命が下った。漢人部隊は上述の佟養性に率いられ、紅夷砲を主力とする清朝初の重火器軍であった。漢人部隊は八月から大凌河城への砲撃を開始、城壁や櫓など構造物の破壊に目覚しい効果を挙げ、大凌河城の攻略に多大な貢献を成し遂げた。

 『太宗実録』巻十 天聰五年十月壬子(十二日)條(康熙本内閣文庫)は、大凌河城の戦いの中で行われた于子章台の戦闘を回顧して、

 

是臺連攻三日,舉紅夷大將軍砲,擊壞臺身口中砲死者五十七人,因臺內措足無地,力不能支,至第四日遂降。是臺即下,其餘各臺漢人聞風,近者歸降,遠者棄走,所遺糧糗,足供我士馬一月之費。自紅夷砲創造後,是役始攜行者,非用紅夷大將軍砲,則于子章臺,必不易克、此臺不克、則其餘各臺,不逃不降、必且固守。則糧從伺得,欲運自瀋陽,則路復遙遠。今因克此固守之于子章臺,而周圍百餘臺聞之,或逃或降,且資糧糗,士馬得以宿飽。是困守大凌河,克成此功者,皆因上創造紅夷大將軍砲故也。凡行軍,必攜紅夷大將軍砲自此始。

 

是の臺連攻すること三日,紅夷大將軍砲を舉げ,臺身、口を擊壞し、砲に中りて死する者五十七人,因て臺內足を措くに地無く,力は支うる能はず,至第四日に至り遂に降る。是臺即ち下り,其餘の各臺の漢人風を聞き,近きは歸降し,遠きは棄走し,遺す所の糧糗は,我士馬の一月の費に供うるに足る。紅夷砲創造してより後,是の役始めて攜行するものなり。紅夷大將軍砲を用いざれば,則ち于子章臺は,必ず克つこと易からず、此臺克たずんば、則ち其餘の各臺は,逃げず降らず、必ず且(しばら)く固守せん。則はち糧は伺ひて得るに從り,瀋陽より運ばんと欲せば,則ち路復(ま)た遙遠たり。今此の固守せるの于子章臺を克つに因りて,周圍の百餘臺これを聞き,或は逃げ或は降り,且つ糧糗に資し,士馬は得るに宿飽を以てす。是れ大凌河を困守し,克成せる此の功は,皆上の紅夷大將軍砲を創造せらるるの故に因るなり。凡そ行軍に,必ず紅夷大將軍砲を攜(たずさ)ふるは此れより始まれり。

(田中宏己「清初における紅夷砲の出現とその運用」より孫引き)

 

と、紅夷砲の威力を賛嘆している。この戦いこそ、清朝において紅夷砲の評価を決定付けた一大事件であり、紅夷砲の絶大な威力が証明されたことにより、以後の戦いには必ず紅夷砲を動員することが決定されたのである。

    

 2、火器の集団的運用――八旗漢軍の編成――

 この戦いの結果、従来は活躍の場が与えられていなかった漢人が火器軍として大きな期待を受けるようになり、天聡八年(1634)、投降漢人を「烏真超哈 ujen cooha」と呼ばれる火器軍に編成している。ujen cooha を直訳すると「重兵」で、重火器を扱う部隊という意味である。以後、投降漢人と火器の増加(増産と明軍からの鹵獲)により、烏真超哈は徐々に拡張され、崇德七年(1642)に八旗編成となった。すなわち八旗漢軍である。

 

 八旗漢軍は、八旗の軍制に基づき整然と編成され、簡略かつ効率的な命令系統、清代初期の清新な実力主義的な風潮の下、満洲・蒙古八旗といったその他の部隊とも協力して勇敢に戦った。

 肥大化かつ腐敗した官僚機構の下機能不全に陥っていた明軍が、互いに足の引っ張り合いをしていたのとは全く対照的であった。

 この八旗漢軍の編成こそ、冒頭で掲げた火器の兵器としての特色の①、②に対する清朝の回答であったいえよう。

 

 次に、戦術面から見れば、これまで攻城戦ではひたすら強攻策をとるのみであった後金軍が、この戦いでは大凌河城周囲に土塁や塹壕を築き、紅夷砲をはじめとする火器の集中運用によって、城壁ややぐらを破壊する戦術に切り替え、成功を収めている。

 以後、この新戦術は対明戦争において多大な効果を挙げ、明の城塞を次々と陥落させ、わずか十年後の崇德八年(1643)十月には、山海関以東の明軍は全て排除されたのだった。この新戦術、そして烏真超哈の編成こそ冒頭で挙げた火器の特色の③、すなわち火器の集団的運用に対する清朝の回答であった。

 

 元来、八旗は満洲・モンゴル騎兵による野戦を得意としていたが、烏真超哈すなわち八旗漢軍の編成により、攻城戦にも強さを発揮するようになったのである。

 その後八旗漢軍は攻城戦や陣地戦の多い中国本土での戦いに大いに活躍することになる。

  

 ただし、入関前後当時の段階では、近世ヨーロッパで見られた野戦における騎兵・歩兵・砲兵の密接な連携、いわゆる「三兵戦術」の段階にはまだ達しておらず、野戦では満洲・モンゴル騎兵、攻城戦では八旗漢軍(火器)とはっきり分かれており、攻城・対火器戦は八旗漢軍・緑営の任務であった。 

 

 天聡七年(1633)十月七日に行われた大閲(皇帝による演習の検閲)では、紅夷砲30門と大小火砲とそれを操作する「旧漢人馬歩軍(後の八旗漢軍)」と満洲兵が参加したが、漢人部隊と満洲兵の協調はあまり密ではないし、ただ砲声を突撃の合図としているだけであり、火砲による突撃支援を行っている様子はない(『太宗実録』巻十六 天聡七年(1633)十月丙寅(七日))。

 当時の満洲・モンゴル騎兵の訓練も騎射や巻き狩りが主流であり、火器に関しては全て漢軍に任せていたようなところがある。

  

 なお、入関後に編成された緑営の火器は八旗漢軍や後の火器営のそれに比べ小型で性能も劣るものであり、清朝の信頼度も八旗には到底及ばなかった。
   
 

 四、生産・補給体制の確立

 では 、清は冒頭で挙げた④の問題にどう答えたのだろうか。すなわち火器の集団的運用に必要な火器の生産・補給体制をいかに確立したのだろうか。

 

 1、生産体制の確立 

 明代の女真人の鉱工業は極めて幼稚な段階にあり、明や朝鮮から購入した鉄製品を希望の形に打ち直すのみだった。従って、清の鉱工業部門は建国当初から漢人の協力を求めざるを得なかった。

 一方、明朝治下の遼東の鉱工業は大いに発展していた。元来遼東は鉄や石炭が豊富に産出し、古くは漢代以来漢人がさかんに進出して製鉄を行っていた。明末には、遼東の鉱工業は作業工程が分業・組織化されたマニュファクチュア的段階に到達しようとしていた。

 

 清が明軍の火器に接触してからわずかの十数年の間に量産体制を確立できた秘密は、遼東の征服により発展した鉱工業地帯を丸ごと支配下におさめることが出来たことだったといえよう。つまり、材料と技術はすでに手に入ったので、あとは捕獲した火器を真似るだけでよかったのである。

 火薬については、東北でも硝石や硫黄を産出し、明との密貿易を行っていた形跡もある。 

 

 後、崇德七年(1642)錦州を占領した直後に兵器工廠を移設し、紅夷砲35門、砲弾24000発を製造している。

 

 入関後、順治年間(16441661)には概ね明代の制度を踏襲し、中央で火器・火薬の製造が行われた。康熙帝は、紫禁城内の養心殿造辧処で火砲の研究と製造を行い、そこで製造された火器は「内造」または「御製」と称されたすぐれた物であり、宮廷内や火器営で使用された。景山と鉄廠営(現北京崇文門付近)の工廠は工部の管轄下にあり、鉄廠営では八旗漢軍の火器を生産した。

 

 火薬は工部の濯霊廠で製造された。実戦用の火薬は30万斤(約179トン)を基準とし、使用のたびに補充されていた。大型、最新の火砲は中央政府のみが製造することが出来、地方では勝手に作ることができなかった。

 八旗の各旗には順治元年、砲廠(砲局)と火薬廠が開設され、配備された火器・火薬を管理していた。砲廠と火薬廠は八旗漢軍の管理下に置かれ、旗人が輪番で警護にあたった。

 

 康煕年間にはフェルビースト(南懐仁)らイエズス会宣教師が火砲製造に貢献し、また戴梓(16491726)のような火器専門家も現れ、火器の改良に貢献した。

 

 2、補給・輸送体制 

 

 火器は絶大な威力を誇る反面、重量物であるため輸送が困難であること、さらに大量の弾薬を消費するため絶えず補給を必要とするという問題を抱えている。

 崇徳八年(1643)に錦州で製造され、現在紫禁城の午門外に安置されている「神威大将軍砲」は全長264cm、口径130mm、重さ3900斤(約2328kg)(胡建中「清代火砲」)で、康煕十四、十五年(167576)製造の紅夷砲は一門あたり5000斤(約2984kg)の巨体であった(雍正『大清会典』巻二百 工部 火器)。

 田中宏己氏の論考によると、当時重量5000斤の紅夷砲1門を輸送するのに1214頭の牛を必要としたという(馬で牽引する場合はもう少し少なくて済んだようだ)。参考ながら、第二次世界大戦時の日本軍の砲兵分隊で九〇式野砲(1400kg)を6頭の馬で牽引していることを考えれば、3トン近い紅夷砲を牽引するにはやはり12頭程度の牛馬は必要だったろう(参考サイト 大砲と装甲の研究 大砲研究室)。

 

 崇徳四年(1639)二月、清軍は27門の紅夷砲を擁して松山城を攻撃したが、激しい砲撃のため程なく弾薬の枯渇をきたし、直ちに弾薬の補給が命じられている。その内訳は砲弾10000発、火薬50000斤(約30t)であった。砲弾の重量は10斤(約6kg)とされていたから、10000発で10000斤(約60t)、火薬50000斤と合せて実に150000斤(約90t)にも達した。田中氏の推計によれば、これらを輸送するには延べ900頭のラバ(に相当する家畜)を必要とするという。

 

 このため、火器の輸送と補給は清朝にとって非常に大きな負担となり、入関前には前線に近い錦州への兵器工廠移転、入関後には北京での工廠(砲廠)建設やイエズス会士らによる火砲の軽量化が行われた。だが、これらの施策は一定の効果を挙げたものの、問題の完全な解決には程遠く、火器の輸送、補給問題は清朝にとって懸案であり続けた。

   

 また、火器の製造数および性能・要目はその時々の状況によって定められ、一定の制度は全く存在しなかったし、ヨーロッパ諸国とは異なり、火器および弾薬の規格統一も厳密には行われていなかった。そのため、雑多な火器がたくさん製造されていくにつれ、補給や輸送に支障をきたすことも多かったようだ(頼福順『乾隆重要戦争之軍需研究』pp293300)。

 

 3、経済的基盤

入関後の火器の製造と運用の財政的基盤は、豊かな中国本土を手に入れたことによって得られる潤沢な租税収入により磐石なものとなった。また、清代には山西商人が政商として国家財政に大きな影響力を持っていたが、康煕年間以後の度重なる外征の際、彼らは軍需物資の調達や多額の資金援助を提供しており、そのことが火器の運用にも大きく寄与したものと思われる(佐伯富「清朝の興起と山西商人」)。

 この事実は、近世ヨーロッパにおいて商人が軍需物資や軍事費の調達に果たした役割と非常に似通っており、まことに興味深い。 

 

  五、終わりに

 清朝は明との戦争で火器の威力を知り、火器の導入を決意し、佟養性ら漢人を巧みに利用しつつ、火器の運用がもたらすさまざまな問題をクリアし、火器戦術を自分のものとした。その過程には近世ヨーロッパ諸国との興味深い類似が見られる。

 しかしながら、戦術面では依然三兵戦術の段階には達していなかったし、火器の輸送と補給は依然として困難な問題であり続けた。

  

 

 

     参考文献・サイト (順不同)

史料

『満文老档』満文老档研究会訳註、財団法人東洋文庫、1956年

『清実録』中華書局、198587年

雍正『大清会典』(天理図書館所蔵)

『八旗満洲氏族通譜』遼瀋書社、1989年 

 

参考文献

王兆春『中国火器史』軍事科学出版社、1991年

頼福順『乾隆重要戦争之軍需研究』故宮叢刊甲種之三十一、国立故宮博物院(台北)、1984年

ジェフリー=パーカー著・大久保桂子訳『長篠合戦の世界史――ヨーロッパ軍事革命の衝撃――15001800年』同文館、1995年

胡建中「清代火砲」正・続(『故宮博物院院刊』(北京)1986年第二・四期)

田中宏己「清初における紅夷砲の出現とその運用」1~4(『歴史と地理・世界史の研究』78・79・81・82、19731974年

三田村泰助「清朝の開国伝説とその世系」(『立命館大学五十周年記念論文集』1951年→同著『清朝前史の研究』東洋史研究叢刊十四、東洋史研究会、1965年

佐伯富「清朝の興起と山西商人」(「社会文化史学」1、1966年→同『中国史研究』第二巻、東洋史研究叢刊二十一、東洋史研究会、1971年

 

 

サイト

大砲と装甲の研究2007.10.6アクセス)

http://sus3041.web.infoseek.co.jp/index.html