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 満洲族の祖先はかつて金朝を築いた女真族であり、明代末期には金朝にちなんだ国号を持つ「後金(金)」、のちの清朝を建国している。なお「後金」という国号は後世の人間が金朝と区別するために名付けた呼称とみなされる場合が多いが、これは誤解で、同時代史料にも「アマガ=アイシン=グルン(後金国)」という名で登場している。

 ヌルハチ、ホンタイジも臣下への詔勅や訓示でよく金朝の故事を引用したり、国家事業として『金史』の満洲語訳を行うなど、金を自らのルーツとして位置づけていた。 

 さて、石橋崇雄氏は、ヌルハチのマンジュ国(建州女真)統一以前の動向を伝える後金(後の清朝)時代の史料『先ゲンギェン=ハン賢行典例(中国第一歴史档案館蔵、以下『賢行典例』と略す)を発見、そこにはこれまで知られてきたヌルハチ一代記『満洲実録』や『太祖実録』とは異なる内容が多く含まれていることを紹介している。なお『賢行典例』は本文で「ジュシェン(女真)」という呼称を使用しているが、太宗ホンタイジの天聡九年(1635)十月にジュシェン=女真という呼称が禁止され、「マンジュ(満洲)」に改称されているので、編纂年代は天聡九年十月以前と考えられる。

 

 今回はそのなかでも特に目立った相違点、愛新覚羅(アイシン=ギョロ) 氏の始祖神話について紹介したいと思う。

 まず、『満洲実録』、『太祖実録』での始祖神話を簡単に紹介する。

 

 長白山にあるブクリ山のブルフリ池で水浴びをしていた三人の天女のうちフェクレンという天女が、神のカササギが衣服の上に落とした赤い実を食べて妊娠し、生まれた子供が愛新覚羅氏の始祖ブクリ=ヨンションだった。ブクリ=ヨンションは混乱している国を治めるために天が遣わした天命の子で、彼を見た人々は争うのをやめ、ブクリ=ヨンションをベイレ(王)に推戴した。ブクリ=ヨンションはオモホイ野のオドリ城に住みマンジュ(満洲)国のベイレとなった。

 のちにブクリ=ヨンションの子孫が民を虐げたため反乱が起こり、一族はみな殺されたが、ただ一人ファンチャというものが脱出した。天は神のカササギをファンチャの頭上に止まらせたので、追っ手はファンチャを枯れ木と見間違って引き返していった。

 その後数世代を経て、ドゥドゥ(都督)=メンテムというものが生まれ、オモホイの野のオドリ城の西千五百里の先にあるスクスフ部のヘトゥアラ(赫図阿拉)に一族の敵をおびき寄せて半分は殺し、半分は人質とし、そのままそこに住んだ。

 (以下、ヌルハチの祖先の系譜へと続く)

 

 次に『賢行典例』での始祖神話の冒頭部分をかいつまんで紹介する。

 ブクリ山のブルフリ池で水浴びをしていた三人の天女のうちフェクレンという天女が、神のカササギが衣服の上に落とした赤い実を食べて妊娠し、生まれた子供が愛新覚羅氏の始祖ブクリ=ヨンションだった。ブクリ=ヨンションは混乱しているジュシェン(女真)国を治めるために天が遣わした天命の子で、彼を見たジュシェン人たちは争うのをやめ、ブクリ=ヨンションをエジェン(君主、主人)に推戴した。ブクリ=ヨンションはオモホイ野のオドリ城に住みマンジュ(満洲)国のベイレ(王)となった。

 のちにブクリ=ヨンションの子孫がジュシェンの民を虐げたため反乱が起こり、一族はみな殺されたが、ただ一人ファンチャというものが脱出した。天は神のカササギをファンチャの頭上に止まらせたので、追っ手はファンチャを枯れ木と見間違って引き返していった。

 その後数世代を経て、ドゥドゥ(都督)=メンテムというものが生まれ、オモホイの野のオドリ城の西千五百里の先にあるスクスフ部のヘトゥアラ(赫図阿拉)に一族の敵をおびき寄せて半分は殺し、半分は人質とし、そのままそこに住んだ。

 

 このように『満洲実録』、『太祖実録』とほぼ同内容。だが『満洲実録』、『太祖実録』ではブクリ=ヨンションが降臨した場所は単に「国」、彼をベイレに推戴した人々はただ単に「人々」、「国人」としか記されていないのに対し、『賢行典例』でははっきりと「ジュシェン(女真)国」、「ジュシェン人」と記すことによって女真族を民族のルーツとして明確にアピールし、しかもドゥドゥ=メンテムの事跡の次に以下のような註(石橋崇雄氏訳)も付加されている。

 

 マンジュ[アイシン(金)の]国の始祖が出現させられてからこの方アイシン(金)の[太祖]アグダ帝以来支配した[に至るまで]両者の間には[アイシン国には]書物がないまま暮らしたのである[であったのである]。アイシンの第三代の熙宗皇統帝は、その祖先が住んでいた会寧府の故郷を捨て、漢人(の地)の汴京城に移った。第十代の時に道理が崩壊したために、国民は皆モンゴル人、漢人となって、官・民・文・武の道理は全く絶え果てた。故地に残った国人は皆、エジェンもなく、道理もなく、勝手に暮らして[暮らし]、世代については全く判らなくなって、判然とはしないものの多くの世代があったということである。会寧府とオモホイ野は共に白山の日が昇る側(=東方)にある。アイシン皇帝の姓はワンギャ[ワン=ヤン(完顔)]で、ゲンギェン=ハン(ヌルハチ)の姓はアイシン=ギョロ(愛新覚羅)である。姓が異なる[とはいえ]、国の起源が生じたところは同一の地である。古の聖人に及ぶか及ばないかをどうして知り得ようか。太祖ゲンギェン=ハン(ヌルハチ)も亦、古の聖人よりも甚だ劣ることなどどうして有り得ようか。

下線部は原文の塗り消された個所 [ ]は原文における加筆個所  ( )は石橋氏による補足

石橋崇雄「無圏点満洲文檔案『先ゲンギェン=ハン賢行典例・全十七条』」p87

 

 すなわち、愛新覚羅氏発祥の地の「オモホイ野」が金の都であった会寧府(黒龍江省ハルビン市阿城)と同じ白山(長白山)の東方にあり、金の皇帝とヌルハチは姓は違うが起源は同じだとし、さらにヌルハチは「古の聖人」つまり金の皇帝たちに勝るとも劣らない君主であると強調している。

  これらは『満洲実録』や『太祖実録』といった後世の史料には見られない記述で、愛新覚羅一族のマンジュ(満洲)国と後金のヌルハチを、かつて女真族の統一国家を築いた栄光ある祖先、金の完顔阿骨打(ワンヤン=アグダ)に直結させようとする意図がうかがえる。

  このように後金は王朝の始祖神話においても女真族と金朝を自らのルーツとして位置づけていたのだった。これは女真族の統合と団結を図ろうとしたものだろう。

 

  だが、ホンタイジと後金政権が女真族の民族国家から満洲・モンゴル・漢の諸民族を包摂した多民族国家への脱皮を図る上で「後金」はあまり好ましい名称とはいえない。特にかつて金と戦った岳飛を英雄として崇拝するなど、女真族や金への根強い敵愾心とネガティブイメージを持つ漢族を統治するにあたって「女真」という民族名や「後金」という国号はマイナスでしかなかった。

 

 そこで、天聡九年(1635)十月にホンタイジの命によりジュシェン(女真)という民族呼称が「マンジュ(満洲)」に改称され、翌崇徳元年(1636)に国号が「大清」、満洲語で「ダイチン=グルン」へと変更されるなど、国家が金を自らのルーツとして位置づける風潮は次第に廃れていった。

  皇帝たちも詔勅で金の故事を引くことが少なくなったし、清朝によって編纂された公式の歴史史料も、清=満洲族と金=女真族とのつながりを示す記述を注意深く取り除くようになった。

 その一番よい例が先ほど引用した愛新覚羅一族の始祖神話で、乾隆年間に現在の形となった『満洲実録』や『太祖実録』冒頭に記された始祖神話からは、先ほど引用した『賢行典例』の註の内容がバッサリと削除されている。

 さらに、『賢行典例』、『旧満洲檔』、『満文老檔』(乾隆年間に作成された『旧満洲檔』の写し)など後金時代の史料に登場する「アマガ=アイシン=グルン(後金国)」あるいは「アイシン(金)」という国号、および「ジュシェン(女真)」という民族名は、後世の官撰史書では全て「マンジュ(満洲)」に修正され、清朝と金、女真とのつながりを示す記述は完全に消去されてしまった。

 また、これは余談だが、入関後には清朝自らかつて金の敵だった岳飛の廟を保護したり、満洲旗人の間でさえ『説岳全伝』が流行するなど、ジュシェン=女真アイデンティティを表に出さなくなった。筆者も2004年、2006年に杭州の岳飛廟を見学した際、清朝の地方官による岳飛廟や秦檜像修復の顛末を記した石碑を見たことがある

 

 後金すなわち女真族は、ジュシェン=女真アイデンティティを強調し、金朝の栄光の歴史を利用することによって民族の統一、統合を図ったが、民族の統一、統合がほぼ完成し、モンゴル・漢など諸民族を包摂した多民族国家を支配する課題に直面したとき、自らの栄光の歴史をあえて捨て去ったのだった。

 清朝が圧倒的多数派の漢族の大海の中で長期政権を保てた秘訣は、このような情況適応力にあるのだろう。

 

参考文献(順不同)

『清実録』中華書局 1985~87

満文老檔研究会 訳『満文老檔』財団法人東洋文庫 1955~63

今西春秋 訳『満和蒙和対訳満洲実録』刀水書房  1992

石橋崇雄『大清帝国』講談社選書メチエ174 講談社 2000

常林、白鶴群『北京西山健鋭営』学苑出版社(北京) 2006

神田信夫「満洲(Manju)国号考」(『山本博士還暦記念東洋史論叢』山川出版社 1972 → 神田信夫『清朝史論考』山川出版社 2005、pp.22~pp.33)

石橋崇雄「無圏点満洲文檔案『先ゲンギェン=ハン賢行典例・全十七条』」(『国士館史学』8号 2000、pp.96~pp.48)

井黒忍「満訳正史の基礎的検討―『満文金史(aisin gurun i suduri bithe)』の事例をもとに―」(『満族史研究』第3号 2004、pp.112~pp.130)