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 年代:甲申年(1584年、明万暦十二年)~乙酉年(1585年、明万暦十三年)
 画像は『満洲実録』第二巻から

 今回から『満洲実録』第二巻の内容に入ります。

manju i yargiyan kooli,jai debtelin,

・枠内
[満:manju i yargiyan kooli,jai debtelin,(満洲の実録、二巻)]
[漢:滿洲實錄 卷二]
:        ]

taizu oncoi orgoni, loko be ujihe,,

・左枠
[満:taizu oncoi orgoni, loko be ujihe,,(太祖は寛大にもオルゴニ、ロコを生かした)]
[漢:太祖宥鄂爾果尼洛科(太祖鄂爾果尼、洛科を宥(ゆる)す)]
:        ]

・挿絵:
 右側のひざまずかされている人物
(左)満:orgoni(オルゴニ)
   漢:鄂爾果尼
(右)満:loko (ロコ)
   漢:洛科

 傷の癒えたヌルハチは改めてオンゴロ城を攻め、今度は首尾良く陥落させた。ヌルハチを射たオルゴニとロコも捕らえられた。部下は二人を殺すことを主張したが、ヌルハチは「戦のときは敵に勝とうとして、自分の主人のためにわたしを射たのだろう。今わたしの側に付けばわたしのために他の者を射るだろう。このようなすばらしく、強い男を戦いで殺してしまうのは惜しいぞ。わたしを射たからといってなぜ殺す」と言い、オルゴニとロコを許し、ニルイ=エジェン nirui ejen(niru ejen  ニル=エジェン(牛彔額真)、ニルの長 )に任じた。

  なお、八旗の基本単位である男子三百人を統轄する単位のニル niru という単語が清朝の史料に最も早く登場するのはこの部分であり、『満洲実録』本文ではわざわざ「三百人を治めるニルイ=エジェン」と断っている。
 だが、ほかならぬ『満洲実録』第三巻に、辛丑年(1601年、明万暦二十九年)に男子三百人を統轄する組織としてニルを設立し、ニル毎にエジェン(長、主)を置いたと記されている。従ってこの時の「ニル」は三百人のニルではなく、ニルイ=エジェンも三百人を統轄する長ではない(清朝側の他史料も同様)。「三百人を治めるニルイ=エジェン」という文言は『満洲実録』編者の蛇足というべきだろう。 
 しかも、ここまで書いてきたとおり、当時のヌルハチの動員兵力は多くても数百人単位であり、投降者にいきなり三百人もの手勢を預けるとは考えにくい。
 三田村泰助氏は「初期満洲八旗の成立過程」において、各種文献史料を総合して、当時のニルは十人一組の集団であり、ニルイ=エジェンは十人の長であったとしているが、当時の情況を考えれば妥当な見解と思われる。

 

taidzu nesin, bamuni be waha,,

・左枠
[満:taidzu nesin, bamuni be waha,,(太祖はネシン、バムニを殺した) ]
[漢:太祖戰殺訥申巴穆尼(太祖、訥申、巴穆尼を戰殺す)]
:        ]

・挿絵:右側の落馬した人物
 (左)満:nesin(ネシン)
    漢:訥申
 (右)満:bamuni(バムニ)
    漢:巴穆尼

 

 乙酉年(1585年、明万暦十三年)二月、ヌルハチは鎧を着た兵二十五人、その他五十人の兵を率い、ジャイフィアンの村に略奪に出かけたが、事前に襲撃を察知して防備を固めており、何も得る所がなく引き返した。
 その時、ジャイフィアン、サルフ、ドゥンギャ Dunggiya(棟佳城)、バルダの四城の城主が四百の兵を率い、弓を射ながら追撃してきた。ヌルハチは後退しつつ戦い、ジャイフィアンの南のタイラン Tairan (太蘭)の丘の湿地の端に至った時、追手の徒立ちの兵を率いていたネシン、バムニが前に突出してきた。
 これを見たヌルハチは馬に鞭を当ててネシンへと突き進んだ。ネシンはヌルハチの隙をついて斬りかかり、ヌルハチが手に持っていた鞭を断ち切った。ヌルハチはネシンの肩に斬りつけ、馬から落とした後、素早く身を翻して弓でバムニを射抜いた。
 ネシンとバムニが殺されたのを見て追手の兵はいったん後方に下がった。

 だが、ここにきて、敵に追われ続けたヌルハチ側も馬の疲労が激しく、これ以上撤退できなくなってしまった。
 ヌルハチは一計を案じ、まず兵を下馬させ、相手からは見えない坂道の向こう側で馬を休ませるよう命じた。次に自らネシン、バムニの遺体の横たわる場所まで行き、遺体を収容しようとする敵兵を挑発し、さらに撤退しつつ七人の部下に命じて物陰からわざと兜を露出させ、伏兵がいるかのように見せかけて時間を稼いだ。追手の兵は伏兵を警戒してそれ以上追撃せず、ヌルハチは疲れた馬を一頭も残さず全て連れ帰ることができた。
 

 

taidzu duin niyalma jakūn tanggū cooha be gidaha,,

・左枠
[満:taidzu duin niyalma jakūn tanggū cooha be gidaha,,(太祖は四人で八百の兵を破った) ]
[漢:太祖四騎敗八百兵(太祖四騎もて八百の兵を敗れり)]
:        ]

・挿絵
矢を射ている四人
 (左上)満:yambulu(ヤムブル)
     漢:延布祿
 (右上)満:murhaci(ムルハチ)
     漢:穆爾哈齊
 (左下)満:uringga(ウリンガ)
     漢:武凌噶
 (左上)満:taidzu(太祖)
     漢:太祖

 

 四月、ヌルハチは歩兵と騎兵からなる合計五百の兵を率い、ジェチェン部 Jecen i aiman への遠征に出発したが、その途中で河川の氾濫に遭ったので、大部分の兵士を戻らせて、綿甲を着た兵五十人、鎧を着た兵三十人の計八十人の兵だけを率い、ジェチェン部の略奪に出かけた。
 綿甲とは、綿や絹の布地の中に薄い鉄板を仕込み、銅の鋲で固定した鎧で、防御力と防寒性に優れ、当時の女真人(満洲人)に好んで使用された。後の八旗兵も綿甲を使用している。

 八旗綿甲
 八旗兵の綿甲 北京 軍事博物館(2006.5.6撮影)
 

  ところがヌルハチの進軍を密かに通報した者がおり、トモホ tomoho (托漠河)、ジャンギャ、バルダ、サルフ、ジャイフィヤンの五城が合計八百人の兵を出してヌルハチの背後を襲った。ヌルハチはもちろん背後に見張りを置いており、見張りも敵兵を発見していた。だが、ヌルハチへの通報に走った見張りが誤ってヌルハチ本人のいた場所を通りすぎてしまい、敵兵発見の知らせはヌルハチには届かなかった。ヌルハチ勢は背後に見張りがいるので安心していたところに突然敵が現れた。
 不意を突かれたヌルハチ勢は狼狽し、一族のジャチン、サングリの二人(五祖ボーランガの孫)は着ていた鎧を脱いで他の兵に着せる始末だった。
 ヌルハチは激怒して「お前たちは普段は兄弟や村人の中で強がって見せているくせに、いざ大軍を見たら怖気づいて着ている鎧を他人に着せるのか!」と言い放ち、弟ムルハチとヤムブル Yambulu(延布禄)、ウリンガ Uringga(武凌噶)ら三人と先頭に立ち、敵兵の中に突っ込んだ。四人は二十人近くの敵兵を打ち倒し、敵兵は渾河を渡って逃げ始めた。
 ヌルハチはあまりの暑さに目がくらみ、兜を脱ぎ、鎧のひもを解くのももどかしく、ひもを引きちぎって鎧を脱ぎ、その場で涼み始めた。そこへ他の兵たちが追いついてきたので、少し休憩してから、兵たちと一緒に再び逃げる敵を追撃し、さんざんに打ち破った。

 ヌルハチは「今日、四人で八百の兵を打ち破ったのは正しく天の助けによるものだ」と言い、兵を納めて引き上げた。
 九月、ヌルハチはスクスフ部のアントゥ=グワルギヤ Antu Gūwalgiya を攻め取った。

(つづく)
・・・・・・
史料・参考文献
史料
『満洲実録』(『清実録』中華書局、1985~87年→『清実録』超星数字図書館CD-ROM(中華書局版を画像データ化))
今西春秋訳『満和蒙和対訳満洲実録』刀水書房、1992年

参考文献
(中国語)
閻崇年『努爾哈赤伝』北京出版社、1983年
(日本語)
松浦茂『清の太祖 ヌルハチ』中国歴史人物選、第十一巻、白帝社、1995年
三田村泰助「初期満洲八旗の成立過程」『清朝前史の研究』東洋史研究叢刊十四、東洋史研究会、1965年