第四章 火器営設立の要因

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はじめに

 

 魏源以来、火器営編成の直接の要因は、対ジューンガル戦、特に、康熙二十九年(1690)におけるウラーン=ブトン(鳥蘭布通)の戦いにおいて清の火器軍が顕著な効果を挙げたことであるとする見解が主流である(1)〔 魏源『聖武記』卷三、康熙親征準噶爾記、市村瓚次郎『東洋史統』巻四、富山房、1950、pp183~184、王兆春『中国火器史』pp265~266〕
本章ではまず、ジューンガル部の火器とその運用について、ガルダン時代を中心に述ベ、次いで、清朝の反応と火器営の編成内容との関係を検討し、ジューンガル部の火器戦術の火器営に与えた影響について言及し、火器営がむしろ対ジューンガル戦で得た戦訓に基づいて編成されたことを明らかにしておきたい。

 

第1節 ジューンガル部とその火器

 

 これまで述べてきたように、火器営の設立された康熙三十年(1691)前後、清の北西には、大きな軍事的脅威が存在していた。すなわちジューンガル部である。ジューンガル部は、オイラト(別称エルート、厄魯特)の一派であり、アルタイ山脈から天山北路、カザフスタンにかけての地域、いわゆるジュンガリアを本拠とする遊牧国家であり、ガルダン=ハーン時代(1676~97)に勢力を拡大し、清朝に対抗した(2)ジューンガル部の勃興については、羽田明「厄魯特考」(『東方学』第十、1955)、「ガルダン伝雑考」(『石浜先生古希記念東洋学論叢』同記念会、1958)、「ガルダン伝考證」(『東方学会創立十五周年記念東方学論集』、1962)、「再び厄魯特について――ジュンガル王国勃興史の一断面」(『史林』第五十四卷第四号、1971、以上三論文は同氏『中央アジア史研究』臨川書店、1982所収)、若松寛「カラクラの生涯」(『東洋史研究』第二十二卷第四号、1964)、「ツェワン・アラブタンの登場」(『史林』第四十八卷第六号、1965)、「オイラート族の発展」(『岩波講座・世界歴史』13・中世七、岩波書店、1971)、岡田英弘「ドルベン・オイラトの起源」(『史学雑誌』第八十三編第六号、1976)、宮脇淳子「十七世紀のオイラット――『ジューンガル・ハーン国』に対する疑問」(『史学雑誌』第九十編第十号、1981)、『最後の遊牧帝国――ジューンガル部の興亡』(講談社選書メチエ41、講談社、1995年)、『準噶爾史略』編写組『準噶爾史略』(人民出版社、1985)などがある。
   ガルダン以前のジューンガル部における火器の導入とその運用については、史料の制約上詳しく述べることは出来ないが、祖父ハラフラの時代(?~1634)には、ブハーラ人からの略奪品を除き、火薬や火器はほとんど存在せず、主戦力は依然として騎馬と刀、槍であったようである(3)若松寛「〔余白録〕ズーンガル(準噶爾)部の戦闘形態」(『東洋史研究』第二十五卷第一号、1966)。

 ブハーラ人とは、タリム盆地のオアシスに居住するテュルク系イスラム教徒・農耕・商業民(中央アジアの中継貿易)であり、ほぼ現在のウイグル人に当たる。彼らはロシアとの中継貿易を通して、最新兵器である火器に熟達していた(4)羽田明「ジュンガル王国とブハーラ人――内陸アジアの遊牧民とオアシス農耕民」(『東洋史研究』第十二卷第六号、1954→同『中央アジア史研究』)。なお、現在の新疆に居住していたテュルク系イスラム教徒は、清代には漠然と「回回」、「回人」と呼ばれていたが、この呼称は陝西、甘粛のイスラム教徒(現在の回族)に対しても使用されていた。本稿では、混同を避けるため、羽田氏と同様に、ロシア側の呼称である「ブハーラ人」を使用する。。 
 父バートゥル=ホンタイジ(1634~53在位)は、後年のジューンガル部興隆の基礎を築いた英主であったが、清の順治七年(1650)に、ロシア政府に大工2人、石工2人、鍛冶屋2人、鉄砲鍛冶2人、甲冑1具、大砲1門、鉛、金箔若干、鋸20挺、牡豚5頭、七面鳥雄5羽、雌10羽、鐘1を要求している。これに対し、ロシア側は金箔10ポンドと豚、七面鳥のみを与えたにとどまったが、この頃から既に火器の技術導入を考えていたことが分かる(5)同上。

 

 このような状況に変化が起こったのはガルダン=ハーンの時代(1676~97)であった。ガルダンは、康熙十八年~同十九年(1679~80)に、ハミ、トルファンを征服。次いでタリム盆地のオアシス諸都市、いわゆるアルティ=シャフル(六城地方)を支配下に収め、カシュガル=ホージャ家のアパク=ホージャを代官に据え、保護の見返りに、年額十万テンゲ(騰格)の貢納と軍事的奉仕義務を課した。これにより、ジューンガル部の経済力・軍事力(特に火砲装備)は大幅に向上した(6)嶋田襄平「アルティ・シャフルの和卓と汗と」(『東洋学報』卷三十四 第一~四号、1952)。なお、羽田明前掲論文の論考によれば、1テンゲはほぼ清の銀一両に相当。 
 ガルダンと火器との関わりについて、康熙二十八年(1689)頃に書かれた地誌『秦邊紀略』卷八、嘎爾旦傳には以下のように記されている。

 

嘎爾旦取沙油汁、煮土成硫黄、取瀉鹵土煎硝、色白於雪。銅、連鉛、鑌鐵之屬丱入出地中。磧岸産金珠、則屏而不用。馬駿而蕃庶、四方莫或過之。……資用極備、不取給遠方、乃悉巧思、精堅其器械。作小連環瑣瑣甲、輕便如衣。射可穿、則殺工匠。又使囘囘教火器、教戰、先鳥砲、次射、次擊刺。令甲士人持鳥砲短鎗、腰弓矢、佩刀、【橐】駝駄大駁(礮)。出師則三分國中人相更番、遠近聞之、咸攝(懾)服。
(7)『秦邊紀略』(台湾国立中央図書館蔵旧鈔本影印、五卷本、京都大学人文科学研究所蔵)。なお、本書に関する論考として、内藤虎次郎「秦邊紀略の嘎爾旦傳」(『史林』第三卷第三号、1918→『内藤湖南全集』第七卷、筑摩書房、1970)、呉豊培「『西陲今略』考」(『西北史地』1983年第2期、1983)などがある。

 

 この史料からはまず、ガルダン(嘎爾旦)が、火薬の原料である硫黄、硝石を製造し、火砲の原料である金属資源も自給可能であったことがわかる(8)『欽定皇輿西域圖志』(影印本、文海出版社、1965、以下『西域圖志』とする。)卷四十三、土産、準噶爾部、金石珍賓之屬には、「金名阿爾坦、銀名孟固、銅名化斯、鐵名特穆爾、錫名圖固勒噶、鉛名和爾郭勒津。五金之中、多銅鐡錫鉛、少黄金白銀、其鐵最良。産硫黄名庫庫爾、及磠硝名察罕碩壘、鹽名達布蘇、有赤白二種。大者如枕、堅者如石。」とあり、同卷四十三、土産、回部、金石珍寳之屬にも「囘部所産五金、有黄金名阿勒屯、白金名庫穆什、紅銅名密斯、黄銅名圖特、而無青銅、有鉛名庫爾阿遜、鐵名圖摩爾。錫不多産、名喀里葉、又有水銀名斯瑪ト、砥砂名察爾克庫密、硫黄名古古爾圖、硝名碩喇。磠砂硫黄産天山中。天山爲準部南屏、囘部北屏、故準囘兩部皆有之。」と見え、ジューンガル部・回部(ブハーラ人)双方で、硫黄、硝石や鉄、銅を産出していたことが裏づけられる。
 次に、軽量かつ堅牢な鎖子甲(鎖帷子)を装備し、回回(ブハーラ人)に火器を教えさせ、鳥鎗や砲を装備し、戦術は第一に火器、次いで騎射、撃刺と展開し、騎兵による火器の運用が行われ、周辺諸国に対し重きをなしていたことが見て取れる。砲の種類とブハーラ人砲兵の存在について、乾隆年間、ジューンガル部征服後に編纂された『欽定皇輿西域圖志』(以下『西域圖志』)卷四十一、服物一、準噶爾部、攻戰之具には、

 

包 即礮也。以鐵爲腔、中施硝黄、鉛彈之屬。或高二三尺、圓徑三寸、駕於駝背施放。或高二三尺、圓徑五六寸、木架上施放。或長四尺餘、制如内地鳥鎗、手中施放。管包之人、名曰:「包沁」。

 

とあるように、鳥鎗や駱駝に乗せる砲、そしてプーチン pucin(包沁)と呼ばれる砲兵が存在したのである (9) 羽田明「ジュンガル王国とブハーラ人――内陸アジアの遊牧民とオアシス農耕民」(『東洋史研究』第十二卷第六号、1954→同『中央アジア史研究』)。『皇朝禮器圖式』卷十六、武備四、火器には、乾隆二十四年(1759)に鹵獲した「回砲」の図と説明文(図8)が記載されており、長さは5尺で、ラクダに載せることが出来、構造は鳥鎗を大型化したもののようである。同書、卷十三、武備一、甲胄にもジューンガル部の「鎖子甲」の記載あり。

回礮

図8 回砲(駱駝の背に乗せて使用する砲)(『皇朝禮器圖式』巻十六、武備五)

 

 後で述べるように、プーチンはブハーラ人を砲兵隊に編成したものであった。康熙三十五年(1696)五月十八日付けの康熙帝の満文書簡に記された、ジョーンモドの戦いでの捕虜ダンバ=ハシハの証言にも、

 

……mini sabuhangge anu katun miyoocan de goififi bucehe,dai baturjaisang poo te(de) goififi emu siran i duin niyalma fondo tucifi bucehe,bolat hoja sirdan de bucehe ,……

 

……自分の見たところでは、アヌ=ハトンは銃弾に当たって死んだ。ダイ=バートル=ジャイサンは砲弾に当たって、(その砲弾が)続けざまに四人を貫通して死んだ。ボラト=ホージャは矢で死んだ。……

(10)『宮中檔康熙朝奏摺』第八輯 pp244~254,53,康熙三十五年(1696)五月二十二日到。岡田英弘「モンゴル親征時の聖祖の満文書簡」(『内陸アジア・西アジアの社会と文化』護雅夫編、山川出版社、1983)によれば、五月十四日発。

 

とあり、当時のガルダン軍にも、ブハーラ人と思われる者が従軍していたことがわかる。

 

 また、康熙十八年(1679)、同二十二年(1683)に、ガルダンは、清朝に、それぞれ「鎖子甲、鳥鎗等物」、「厄魯特鳥鎗四桿」を貢しており、彼が鳥鎗に大きな自信を持っていたことが窺える(11)『朔漠方略』卷二、康熙十八年(1679)九月戊戌(六日)條、同二十二年(1683)七月戊戌(二十九日)條。

 ここにおいて注目されるのは、装備と戦術における火器営との類似である。前章で明らかにしたように、火器営は軽量な鳥鎗や子母砲を装備し、馬上からの鳥鎗射撃を主な戦術とする部隊であり、本節で述べた、ジューンガル部の騎兵主体の火器戦術と酷似している。このような類似がなぜ生じたかについて、次節以降で考察したい。

第2節 ウラーン=ブトンの戦いと清朝の認識

 火器営編成の直接の理由については、前掲のように、魏源の『聖武記』卷三、康熙親征準噶爾記に、

‥‥‥(康熙)三十一年、以前征準噶爾時、火銃便利、立火器營〔第三章第1節で述べた通り「三十一年」は「三十年」の誤り〕

とあり、対ジューンガル戦、特に康熙二十九年(1690)におけるウラ―ンプトンの戦いにおいて清の火器軍が顕著な効果を挙げたことが火器営編成につながったとし、王兆春氏もこの説をほぼ踏襲している(12) 王兆春『中国火器史』pp265~266。しかし、それならば、既存の火器軍である八旗漢軍や緑営を拡張すればよく、編成の理由にはならない。
 加えて、第二章においても述べたように、火器によって大きな損害を受けたのはむしろ清軍、とりわけ漢軍火器営であった。よって、この説は到底成立しえない。

 では、清朝は、この対ガルダン戦の戦訓をどのように認識していたのであろうか。以下、清朝側の戦訓認識をまとめると、(a)火器の脅威、(b)対火器戦の訓練不足と陣法の不統一、(c)火器軍の輸送、補給問題の三つが挙げられる。 

(a)火器の脅威 

 まず、『朔漠方略』卷六、康熙二十九年(1690)六月戊子(二十九日)條には、ウルグイ(烏爾会)河の戦いについて、 

是役也、厄魯特多火器、而我火器營未至。是以不得前進‥‥‥。

と見え、清側はこの戦いの敗因を、ガルダン軍の火器の多さと火器部隊の不着としていた事が分かる〔ここでの「火器営」とは漢軍火器営を指す〕。ウラーン=ブトン戦の直後には、康熙帝自ら、議政大臣らに「軍中火器甚だ緊要に屬す。應に八旗滿兵に令し、佐領毎に護軍二名、驍騎三名を選び、鳥槍を演習せしむべし。」(13)『聖祖實録』卷一百四十八、康熙二十九年(1690)九月癸巳(六日)條。と訓示し、火器の重要性を強調し、初めて八旗の満洲兵に火器訓練を施すよう命じている。
 次に、康熙三十年(1690)二月十五日、帝は、西安の八旗駐防に新たに、満洲・蒙古旗人各1000人からなる「火器営」を増設し、鳥鎗を教習させるよう命じ(14)『朔漠方略』卷九、康熙三十年(1691)二月丁丑(十五日)條。、さらに同年、盛京駐防の八旗漢軍の火器兵を合計1824名増員(15)(104)『八旗通志』(初集)卷二十八、兵制志三、八旗甲兵二、奉天駐防兵丁に、「右本駐防來册」として、「(康熙)三十年、増八旗漢軍火器營兵各二百二十八名……。」とあり、盛京奉天府の漢軍各旗の「火器営兵」(北京の漢軍火器営とは無関係)をそれぞれ228名づつ、計1824名増員していることがわかる。するなど、ガルダンの勢力圏に接する北方、西方辺境の火器増強に意を用いている。
 第三に、康熙二十六年~同三十二年(1686~93)に中国に滞在し、康熙帝の側に仕えたイエズス会士ブーヴェは、その著『康熙帝伝』において、
 

加之(しかのみならず)、この賢明な皇帝(康熙帝)は自国の存続に最も役立つことのできるものは、何なりとも立派に利用する道を御存じであります。洋式大砲と迫撃砲の鋳造法を御存じになるや否や、洋式を採用して、両種の火器を多数鋳造せしめられました。そのうえ毎日続けて、大砲と小砲を鋳造させ、また大砲を撃ったり、爆弾を投げたりする操作を多数の禁衛将卒に練習させられます。馬一頭、また騾馬一頭だけで曳いて行かれる青銅製の小型野戦砲も多数備えつけてあります。なお非常に軽い三脚砲架の一種を拵えさせられました。この砲架は野戦砲に必要な装薬といっしょに、他の一頭に乗せて運ばせるもので、皆、皇帝の考案になるものであります。韃靼軍がエリュート族長(ガルダン)と戦った時、韃靼軍が敵から最も損害を被った理由と、敵軍が全面的敗退に陥るのを免れた理由とは、エリュート族が立派な一斉射撃によって韃靼軍に盛んに銃火を浴びせかけ、かくて韃靼軍の騎兵を線外に撃退したことにあった事情を御存じであります。それ以来、親衛軍の騎兵の一部にも、警衛隊の憲兵にさえ、あるいは行進しながら、あるいはその場で、鉄砲と矢を発射する訓練を行わせられます。(16)(105)ブーヴェ『康熙帝伝』後藤末雄訳、矢沢利彦校注。(平凡社東洋文庫、155、1970。原書 Joach im Bouvet, Portrait,Historique del’Empereur de la Chine préesénté au Roy.Paris,1697) pp127~128。

 と記しており、ジューンガル部の火器戦術が清朝に与えた衝撃の大きさが如実に見て取れる。

 また、康熙三十五年(1696)二月、モンゴル親征を前に、康熙帝は八旗兵丁に綿甲を支給している(17)『朔漠方略』卷二十、康熙三十五年(1696)二月甲午(八日)條、丁酉(十一日)條。。綿甲とは、厚い木綿生地の中に鉄板を縫い込んだもので、風雨に耐え、火器にも耐性を持っている。帝は、その目的として、 

「……此甲朕曾親試、進退周旋、毫無阻碍、甚覺輕便、此外更加以一層鐡葉、一切鳥鎗、無有貫入之理。此甲表裏皆単層、絲綿尚易透出、或緞或布、内外再襯貼、則益覺堅好矣。……」。

と諭している(18)同書、卷二十、康熙三十五年(1696)二月丁酉(十一日)條。ことからも、清朝側が火器対策を重視していたことが理解できる。

(b)対火器戦の訓練不足と陣法の不統一

『朔漠方略』卷八、康熙二十九年(169O)九月丁酉(十日)條に、 

諭操練禁軍。
上諭大學士伊桑阿等曰:「我軍近與厄魯特戰、排列太密、爲賊人亂鎗所中、且進退併不鳴笳。此皆不習戰陣之故也。自古兵法、無不預加訓練。前者八旗之兵春秋校獵、即訓練武備之意、但校獵恐疲兵丁之馬、今即停止校獵。其令八旗兵丁春秋二季集於曠濶之地、布陣鳴笳、教演歩伐」。

とあり、第一章で既に触れたように、それまで八旗満洲・蒙古兵の軍事訓練は、春秋の二季に行われる校猟、行囲(集団での巻狩り)、騎射が中心であって、対火器戦における陣法には不慣れであった。天聡五年(1631)の大閲以来、火砲の発射訓練は八旗漢軍(烏真超哈 ujen cooha)の歩兵によってのみ行われ、騎兵は含まれていなかった。従って、当時の八旗騎兵は、野戦における火器戦術には未だに課題を残していたと思われる。

 (c)火器軍の輸送・補給問題 

 第一章でも述べたように、八旗漢軍は、そもそも明末清初期における攻城戦・陣地戦を通じて成立した火器軍であったため、その装備と編成は勢い火力重視となり、大型の紅夷砲系火砲を主力装備としていた。そのため、火砲の運用にあたっては、大規模かつ完備された後方支援体制を時間をかけて整備する必要があった。明朝の降兵を編成した緑営についても、概ね同様のことが言え、この問題は清初からの懸案であった。康熙帝を中心とする清朝首脳部も火器の威力は認めていたが、機動力に富む遊牧民族、ジューンガル部との戦いにおいてはこの点が大きな弱点となるため、「……火器は重物にして、以て時に應じて 即(ただ)ちに至ること難し」(19)同書、卷九、康熙三十年(1691)正月癸巳(七日)條。として、その即応力の低さを問題視していた。
 これに対し、清朝は康熙二十九年に子母砲202門を製造(20)雍正『大清會典』卷二百、工部四、虞衡清吏司、軍器、火器し、また康熙三十四年(1695)十二月、康熙帝が、八旗の火砲配備状況を提出させた時、
 

「……前烏蘭布通所攜大礮太重。今次出師、應撰比前輕者、…‥」(21)『朔漠方略』卷十八、康熙三十四年(1695)十二月己亥(十一日)條。

 と諭し、軽量火砲の選択に特に意を用いるなどの解決策を講じている。

 このような軽量火砲の整備の背景には、康熙帝自身が戦争において補給と輸送を事のほか重視していたことがあった。時期的に近い、黒龍江流域での対ロシア戦においても、彼は、早期攻撃を主張する黒龍江将軍ら現地指揮官を押さえ、数年かけて東北の水運機構を整備し、紅夷砲や食料を輸送し、勝利を得ている(22)阿南惟敬「清初の黒龍江における露清衝突の素描」上・下(『防衛大学校紀要』第九輯、十輯、1964~65→『清初軍事史論考』甲陽書房、1980)、吉田金一『ロシアの東方進出とネルチンスク条約』(近代中国研究センター、1984) pp174~210、第七章「康熙帝の沿アムール作戦」。し、モンゴル親征の際にも、近臣の于成龍に中路軍の補給の全権を与え、 加えて膨大な輸送部隊の組織とその護衛にも重点をおいていた(23)解立紅「論康熙帝北方辺防的軍事戦略」(『清史研究』1992年第3期、1992)。

 

 第3節 火器営編成の要因

 本節でこれまでに挙げた、清朝、特に康熙帝の戦訓認識を検討すれば、対ジューンガル戦に向けて、火力と機動力・即応力とを兼備した火器軍を求めていたことが明らかとなる。そして、これらの要素を備えた部隊こそは、康熙三十年(1691)に編成された火器営であった。
 また、編成に至る経緯・背景を思えば、火器営の装備・戦術がジューンガル部と酷似しているのは、清朝がその火器戦術を取り入れ、火力と機動力の融合を図ったためであろう。
『朔漠方略』卷十八、康熙三十四年(1695)十二月己亥(十一日)條には、清軍の火砲整備の記事の末尾に、撰者の評として、

 

臣謹按:「軍器之中、無猛於鳥鎗火礮者。其勢甚烈、其力甚大、誠戰陣之利器也。皇上深念、勦滅噶爾丹、當以火器爲要。特廣設鎗礮、別建一營、不時訓練。又以舊礮重滯、艱於運致、新鑄礮式。輕便易行、力準大礮、後擊敵時、得火器之利居多。昔之用兵者、雖嘗用火攻。而制度精妙、士卒嫻習、未有如今日者。良由聖慮周詳、無微不到、隨機制械、以利大兵之用、是以能破敵、而奏膚功也」。

 

という按語を載せているが、この文こそ清朝の火器に対する認識と火器営編成の意義を最も端的に述べたものであろう。

 

 おわりに

 

 清朝は対ジューンガル戦の教訓により、塞外での戦闘に適した機動力と火力とを兼備した火器軍を必要としており、この軍事的要請に応じて編成されたのが、火器営にほかならない。
 そして、火器営の戦術は、ジューンガル部の火器戦術と酷似しているが、これは一連の戦いで得た戦訓により、その火器戦術を導入したことによるのである。
 火器と火器戦術の伝播については、これまで、明代後半のオスマン帝国からの「魯蜜銃」の伝来に関する研究(24)和田博徳「明代の鉄砲伝来とオスマン帝国――神器譜と西域土地人物略」(『史学』第三十一卷、第一~四号、1958)、王兆春、前掲書、 pp142~152、第四章第四節「趙士禎及其対火縄槍的研製」。を除き、南方の海洋からのルートのみが注目されてきたが、ロシア→ブハーラ人→ジューンガル部→清朝というル-トも存在したのである。
 前章で述べたように、火器営編成の意義は、高い機動力と火力とを兼備した、三兵戦術の担い手たる火器軍の誕生であり、また清初以来の懸案であった火器の輸送、補給問題に対する一つの回答であった。そして、直接この「回答」をもたらしたものは、ジューンガル部の火器戦術の衝撃であった。

       [ + ]

    1. 〔 魏源『聖武記』卷三、康熙親征準噶爾記、市村瓚次郎『東洋史統』巻四、富山房、1950、pp183~184、王兆春『中国火器史』pp265~266〕
    2. ジューンガル部の勃興については、羽田明「厄魯特考」(『東方学』第十、1955)、「ガルダン伝雑考」(『石浜先生古希記念東洋学論叢』同記念会、1958)、「ガルダン伝考證」(『東方学会創立十五周年記念東方学論集』、1962)、「再び厄魯特について――ジュンガル王国勃興史の一断面」(『史林』第五十四卷第四号、1971、以上三論文は同氏『中央アジア史研究』臨川書店、1982所収)、若松寛「カラクラの生涯」(『東洋史研究』第二十二卷第四号、1964)、「ツェワン・アラブタンの登場」(『史林』第四十八卷第六号、1965)、「オイラート族の発展」(『岩波講座・世界歴史』13・中世七、岩波書店、1971)、岡田英弘「ドルベン・オイラトの起源」(『史学雑誌』第八十三編第六号、1976)、宮脇淳子「十七世紀のオイラット――『ジューンガル・ハーン国』に対する疑問」(『史学雑誌』第九十編第十号、1981)、『最後の遊牧帝国――ジューンガル部の興亡』(講談社選書メチエ41、講談社、1995年)、『準噶爾史略』編写組『準噶爾史略』(人民出版社、1985)などがある。
    3. 若松寛「〔余白録〕ズーンガル(準噶爾)部の戦闘形態」(『東洋史研究』第二十五卷第一号、1966)。
    4. 羽田明「ジュンガル王国とブハーラ人――内陸アジアの遊牧民とオアシス農耕民」(『東洋史研究』第十二卷第六号、1954→同『中央アジア史研究』)。なお、現在の新疆に居住していたテュルク系イスラム教徒は、清代には漠然と「回回」、「回人」と呼ばれていたが、この呼称は陝西、甘粛のイスラム教徒(現在の回族)に対しても使用されていた。本稿では、混同を避けるため、羽田氏と同様に、ロシア側の呼称である「ブハーラ人」を使用する。
    5. 同上。
    6. 嶋田襄平「アルティ・シャフルの和卓と汗と」(『東洋学報』卷三十四 第一~四号、1952)。なお、羽田明前掲論文の論考によれば、1テンゲはほぼ清の銀一両に相当
    7. 『秦邊紀略』(台湾国立中央図書館蔵旧鈔本影印、五卷本、京都大学人文科学研究所蔵)。なお、本書に関する論考として、内藤虎次郎「秦邊紀略の嘎爾旦傳」(『史林』第三卷第三号、1918→『内藤湖南全集』第七卷、筑摩書房、1970)、呉豊培「『西陲今略』考」(『西北史地』1983年第2期、1983)などがある。
    8. 『欽定皇輿西域圖志』(影印本、文海出版社、1965、以下『西域圖志』とする。)卷四十三、土産、準噶爾部、金石珍賓之屬には、「金名阿爾坦、銀名孟固、銅名化斯、鐵名特穆爾、錫名圖固勒噶、鉛名和爾郭勒津。五金之中、多銅鐡錫鉛、少黄金白銀、其鐵最良。産硫黄名庫庫爾、及磠硝名察罕碩壘、鹽名達布蘇、有赤白二種。大者如枕、堅者如石。」とあり、同卷四十三、土産、回部、金石珍寳之屬にも「囘部所産五金、有黄金名阿勒屯、白金名庫穆什、紅銅名密斯、黄銅名圖特、而無青銅、有鉛名庫爾阿遜、鐵名圖摩爾。錫不多産、名喀里葉、又有水銀名斯瑪ト、砥砂名察爾克庫密、硫黄名古古爾圖、硝名碩喇。磠砂硫黄産天山中。天山爲準部南屏、囘部北屏、故準囘兩部皆有之。」と見え、ジューンガル部・回部(ブハーラ人)双方で、硫黄、硝石や鉄、銅を産出していたことが裏づけられる。
    9. 羽田明「ジュンガル王国とブハーラ人――内陸アジアの遊牧民とオアシス農耕民」(『東洋史研究』第十二卷第六号、1954→同『中央アジア史研究』)。『皇朝禮器圖式』卷十六、武備四、火器には、乾隆二十四年(1759)に鹵獲した「回砲」の図と説明文(図8)が記載されており、長さは5尺で、ラクダに載せることが出来、構造は鳥鎗を大型化したもののようである。同書、卷十三、武備一、甲胄にもジューンガル部の「鎖子甲」の記載あり。
    10. 『宮中檔康熙朝奏摺』第八輯 pp244~254,53,康熙三十五年(1696)五月二十二日到。岡田英弘「モンゴル親征時の聖祖の満文書簡」(『内陸アジア・西アジアの社会と文化』護雅夫編、山川出版社、1983)によれば、五月十四日発。
    11. 『朔漠方略』卷二、康熙十八年(1679)九月戊戌(六日)條、同二十二年(1683)七月戊戌(二十九日)條。
    12. 王兆春『中国火器史』pp265~266
    13. 『聖祖實録』卷一百四十八、康熙二十九年(1690)九月癸巳(六日)條。
    14. 『朔漠方略』卷九、康熙三十年(1691)二月丁丑(十五日)條。
    15. (104)『八旗通志』(初集)卷二十八、兵制志三、八旗甲兵二、奉天駐防兵丁に、「右本駐防來册」として、「(康熙)三十年、増八旗漢軍火器營兵各二百二十八名……。」とあり、盛京奉天府の漢軍各旗の「火器営兵」(北京の漢軍火器営とは無関係)をそれぞれ228名づつ、計1824名増員していることがわかる。
    16. (105)ブーヴェ『康熙帝伝』後藤末雄訳、矢沢利彦校注。(平凡社東洋文庫、155、1970。原書 Joach im Bouvet, Portrait,Historique del’Empereur de la Chine préesénté au Roy.Paris,1697) pp127~128。
    17. 『朔漠方略』卷二十、康熙三十五年(1696)二月甲午(八日)條、丁酉(十一日)條。
    18. 同書、卷二十、康熙三十五年(1696)二月丁酉(十一日)條。
    19. 同書、卷九、康熙三十年(1691)正月癸巳(七日)條。
    20. 雍正『大清會典』卷二百、工部四、虞衡清吏司、軍器、火器
    21. 『朔漠方略』卷十八、康熙三十四年(1695)十二月己亥(十一日)條。
    22. 阿南惟敬「清初の黒龍江における露清衝突の素描」上・下(『防衛大学校紀要』第九輯、十輯、1964~65→『清初軍事史論考』甲陽書房、1980)、吉田金一『ロシアの東方進出とネルチンスク条約』(近代中国研究センター、1984) pp174~210、第七章「康熙帝の沿アムール作戦」。
    23. 解立紅「論康熙帝北方辺防的軍事戦略」(『清史研究』1992年第3期、1992)。
    24. 和田博徳「明代の鉄砲伝来とオスマン帝国――神器譜と西域土地人物略」(『史学』第三十一卷、第一~四号、1958)、王兆春、前掲書、 pp142~152、第四章第四節「趙士禎及其対火縄槍的研製」。

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