ヌルハチと火器(一)
はじめに
アイシン国 Aisin gurun(後金、後の清朝)が本格的に火器を製造、使用し始めたのは、二代ハン(皇帝)ホンタイジの時代とされる。
『太宗実録』天聡五年(1631)正月壬午(八日)条の初の紅夷砲国内製造成功の記事は次のように記されている(下線部、( )内筆者、以下同じ)。
造紅衣大將軍礮成鐫曰天祐助威大將軍天聰五年孟春吉旦造督造官總兵官額駙佟養性。監造官遊擊丁啟明。備禦祝世蔭。鑄匠、王天相。竇守位。鐵匠、劉計平。先是我國未備火器。造礮自此始。
『内国史院檔』天聡五年(1631)正月十一日条もほぼ同一の内容が記されている。
同日,初めて大将軍砲を鋳造した。砲に書いた書の言。「天佑助威大将軍。金国の Sure Han(ホンタイジ)の第五年(天聡五年),春の最初の月の吉日に初めて作った。督励して作った婿の総兵官佟養性、監督して作った遊撃丁啓明・備禦祝世胤,鋳造した工匠王天相.竇守位,鉄匠劉計平」。これ以前は鳥槍さえも作っていなかった。これから砲を作り始めた。
つまり、下線部によると、太宗ホンタイジの天聡五年(1631)までには、アイシン国では火器は全く作られていなかったことになる。
では、その前の太祖ヌルハチの時代には火器について全く関心が持たれなかったのだろうか。実はそうではなく、ヌルハチも火器についてはそれなりに関心を持っていたことがわかっている。
本稿では主に張建 2016 と『満文老檔』にもとづき、ヌルハチがどのようにして火器と向き合ったのかを覚書的に書いていく。
長い記事となりそうなので、(一)・(二)・(三)・(四)の四篇に分けて記事を掲載する。
張建 2016 は『満文老檔』の原史料である『満文原檔』を使用しているが、現在私は『満文原檔』にアクセスできないので、この記事では新満文による写しである『満文老檔』の該当記事を引用する。『満文原檔』は満文老档研究会訳注版を使用し、訳文は新かな、新漢字に改める。
一 火器との出会い
ヌルハチは天命三年(明万暦四十六年、1618)に明と開戦。翌四年にサルフの戦いで明の主力軍を撃破し、さらに明の重要拠点の開原、鉄嶺を奪取し、ジュシェン(女真)で最後に残ったイェヘ部を征服し、ジュシェンの統一を達成。天命六年(明天啓元年、1621)三月に遼東への進攻を開始。わずか一ヶ月ほどで遼河以東の七十余りの城を奪い、四月初めまでに遼東地方全域を支配下に収めた。
だが、この快進撃の中で、ヌルハチは火器の威力を知ることになる。ヌルハチは遼東地方の瀋陽、遼陽を相次いで攻略したが、明軍の火器により大きな損害を出した。瀋陽では、瀋陽城攻略後に明の援軍との野戦でヌルハチの甥のヤバハイらが戦死する(1)『満文老檔』太祖十九 天命六年三月十三日、三月十六日条など多くの損害を出した。遼陽でも火器を装備した城兵の激しい抵抗に苦しみ、攻略はしたものの多数の戦死者を出している(2)『満文老档』太祖十九 天命六年三月二十日、太祖二十 天命六年四月一日条。
下の『満洲実録』に描かれている絵図では、遼陽の戦いで明軍が多くの火器を使用していたことがよくわかる。
『満洲実録』巻七 太祖率兵克遼陽 taidzu genggiyen han liyoodung be gaiha,,
ヌルハチ率いる八旗にとって、火器を装備した明軍は依然として侮りがたい敵だった。
そこでヌルハチも火器部隊の編成を試みることになる。
二 火器部隊編成の試み
ヌルハチはまず天命六年(1621)十一月四日に下記のような命令を出している。
四日に下したHanの書。「各旗の遊撃三人に言って、遊撃一人をして旗において大砲を準備させよ。各砲には馬二頭と人とを委ねよ。それから余った者を選んで、弓を帯びることができる精兵には弓を帯びさせよ。出来ない者には皆三孔の砲、鳥鎗を持たせよ」と言った。(3)『満文老檔』太祖二十八 天命六年(1621)十一月四日条
これはヌルハチが八旗に火器装備を命じた最初の命令となる。
本記事に登場する「大砲」(原文では「amba poo」)は馬二頭で運搬できる大砲と推測でき、それほど大きくはない低威力のものだったと思われる。「三孔の砲」は三眼銃と思われる。
張建 2016 では、ヌルハチは遼東攻略後、八旗各ニルの甲士100名を150名に拡充しているが、追加された甲兵50名の大部分が上記史料にある砲手及び三眼銃、鳥槍を扱う兵であり、かつ彼らは城の守備部隊であったとしている(4)張建 2016 、180-181頁。
次に、翌天命七年正月にはより詳しい命令を出している。
六日に下したHanの書。「漢人の官人で四千人を管轄する者は兵二百人を出し、そのうち一百人に大砲十門、長砲八十門を準備し、残りの一百人を意のままに私用に使え。三千人を管轄する者は兵一百五十人を徴し、大砲八門、長砲五十四門を準備し、内七十五人を意のままに私用に使え。二千人を管轄する者は兵一百人を徴し、大砲五門、長砲四十門を徴し、内五十人を意のままに私用に使え。Jušenの官人で二千七百人を管轄する者は兵一百三十五人を徴し、その内六十七人に大砲六門、長砲四十五門を持たせ、残りの六十七人を意のままに私用に使え。一千七百人を管轄する者は兵八十五人を徴し、その内四十四人に大砲四門、長砲三十六門を持たせ、残りの四十一人を意のままに私用に使え。一千人を管轄する者は兵五十人を徴し、その内二十五人に大砲二門、長砲二十門を準備し、残りの二十五人を意のままに私用に使え。五百人を管轄する者は兵二十五人を徴し、その内十人に大砲一門、長砲八門を準備し、残りの十五人を意のままに私用に使え」(5)『満文老檔』太祖三十二 天命七年(1622)正月六日条
この記事は火器の装備数を検討する上でも貴重だが、Jušen(ジュシェン、女真)人にも火器装備を命じている点が興味深い。
これらの二つの記事からわかるように、火器は天命六年(1621)にはすでに八旗のジュシェン兵に配備されており、後述する漢人部隊「漢兵 nikan i cooha」の創設に比べて早く、火器は「漢兵」により独占されていた武器というわけではなかった。
また、火器部隊ではないが、天命六年十一月に狼煙台の制度を定めるとともに、領内各地の狼煙台に号砲として砲を配備し、敵の侵入状況と兵数に応じた号砲の撃ち方を定めている(6)『満文老檔』太祖 二十九 天命六年(1621)十一月二十五日条、なお趙志強 2000、322-324頁では、サルフの戦いで捕虜となり、翌年帰国した朝鮮人である李民寏が記した『建州聞見録』の記述を引いて、号砲としての砲の使用は遼東を支配下に収める以前からも行われていたことを指摘している。
このことから、当時のジュシェン人にも砲を運用するノウハウを持つものは少数とはいえ存在しており、ジュシェン人の火器装備も全く不可能というわけではなかったと考えられる。
史料・参考文献
史料
『太宗実録』→『清実録』中華書局、1985-86年
『内国史院檔』→『内国史院檔 天聡五年 I』清朝満洲語檔案史料の総合的研究チーム訳註、財団法人東洋文庫、2011年
『満文老檔』→『満文老檔』I~VII、満文老檔研究会訳註、財団法人東洋文庫、1955-63年
『満洲実録』→『清実録』中華書局、1985-86年
参考文献
張建 2016「清入関前“黒営”与“漢兵”考辨」『中国史研究』(北京)2016年第4期、177-190頁
趙志強 2000:趙志強「清入関前的烽燧制度及其文化」『第二届国際満学研討会論文集』(下)、2000年、317-348頁
注
戻る1 | 『満文老檔』太祖十九 天命六年三月十三日、三月十六日条 |
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戻る2 | 『満文老档』太祖十九 天命六年三月二十日、太祖二十 天命六年四月一日条 |
戻る3 | 『満文老檔』太祖二十八 天命六年(1621)十一月四日条 |
戻る4 | 張建 2016 、180-181頁 |
戻る5 | 『満文老檔』太祖三十二 天命七年(1622)正月六日条 |
戻る6 | 『満文老檔』太祖 二十九 天命六年(1621)十一月二十五日条、なお趙志強 2000、322-324頁では、サルフの戦いで捕虜となり、翌年帰国した朝鮮人である李民寏が記した『建州聞見録』の記述を引いて、号砲としての砲の使用は遼東を支配下に収める以前からも行われていたことを指摘している |