ヌルハチと火器(二)

ヌルハチと火器(一)

三 火器と弾薬の供給

 では、火器部隊を編成するとして、それに必要な火器、弾薬はどこから入手していたのだろうか。

 まず、火器、火砲についてであるが、管見の限り、ヌルハチ時代の史料には火器製造に関する記事は見つからなかった。

 冒頭に引用した『実録』と『内国史院檔』の記事は事実であり、これらの火器は明軍からの鹵獲品だったと考えられる。

   元来遼東は鉄と石炭が豊富に産出され、漢人による鉱工業が盛んな土地であり、後のホンタイジ時代には漢人を組織化して大規模な火器生産が行われた(1)田中宏巳 1973-74、田中宏巳 1974。だが、アイシン国(後金、後の清朝)はこの時点ではまだそこまでの段階には達していなかったようだ。

  もともと明朝の重要軍事拠点だった遼東には多くの火器が配備されていた。しかも、明朝は、アイシン国と明朝が開戦した明の万暦四十六年(清天命三年、1618)から遼東を喪失する天啓元年(清天命六年、1621)の4年間だけでも合計約70,000もの各種火器、そして大量の弾薬を遼東に補給していた。これは明朝の工部が天啓二年(清天命四年、1622)に作成した遼東方面への武器補給のリストに記載されている。以下、火器に関する部分を引用する。

工部將發過援遼軍需自萬曆四十六年起至天啟元年止總數開具以聞、天威大將軍十位、神武二將軍十位、轟雷三將軍三百三十位、飛電四將軍三百八十四位、捷勝五將軍四百位、㓕虜砲一千五百三十位、虎蹲砲六百位、旋風砲五百位、神砲二百位、神槍一萬四千四十桿、威遠砲十九位、湧珠砲三千二百八位、連珠砲三千七百九十三位、翼虎砲一百一十位、鐵銃五百四十位、鳥銃六千四百二十五門、五龍槍七百五十二桿、夾靶槍七千二百桿、雙頭槍三百桿、鐵鞭槍六千桿、鉤槍六千五百桿、快槍五百一十桿、長槍五千桿、三四眼槍六千七百九十桿、旗槍一千桿、大小銅鐵佛朗機四千九十架、清硝一百三十萬零六千九百五十斤、硫黃三十七萬六千二百八斤、火藥九萬五百斤、大小鉛彈一千四萬二千三百六十八箇、大小鐵彈一百二十五萬三千二百箇、……(2)『熹宗実錄』巻二十 天啓二年(1622)三月十四日条

 アイシン国はサルフの戦い、そして遼東占領でこれらの火器、弾薬の多くを入手したと思われる。

 次に、弾丸であるが『満文老檔』太祖二十四 天命六年(1621)七月十三日条には、

十三日、牛荘の者が、鎧二百領、弓矢二百、火箭一千、砲弾は大きな弾丸三千個、小さな弾丸五斗、鋼鉄五十斤を持ってきた。(3)『満文老檔』太祖二十四 天命六年(1621)七月十三日条

とあり、これらの火箭、弾丸の供給源がどこかはよくわからないが、短時日で作れる数ではないことから、おそらくは明朝側が貯蔵していたものだろう。

 弾丸については、管見の限り、ヌルハチ時代には国内生産していた記事は見当たらないが、鉄や鉛を溶かして型に流し込めば完成するので、当時のアイシン国でも製造可能だったと思われる。

 第三に、火薬の原料である硫黄である。

 これはアイシン国でも自給可能であったらしく、ヌルハチも硫黄について関心を抱いていたようだ。

 ヌルハチが硫黄の製造を奨励したり、硫黄を製造したものに褒美を与えている記事が『満文老檔』に散見される。

 天命八年(1623)二月十一日にヌルハチは次のような命令を下し、硫黄の製造を奨励している(下線部筆者)。

十一日、蟒緞、糯子、補子を織るといって七十三人が出て織った蟒緞、繻子、補子をHanが見て、「織ることがなかった処で蟒緞、糯子、補子を織れば、その者は宝であるぞ。」と言って嘉し、「妻のない者には妻、奴隷、衣食 を悉く与えて、公課、兵役などに関与させず、身近に置いて養う。一年間に幾何の蟒緞、繻子を織るか。多く織れば多く賞し、少し織れば少し賞し、仕事の多少によって賞しよう。種種の公課に関与させず、兵にも徴しない。また金糸、硫黄を作る者がいれば出よ。その者も宝であるぞ。蟒緞、繻子を織る第一等の者と同等にしよう。今蟒緞、繻子を織る者がいれば出よ。種種の公課を免じよう。」と言った。(4)『満文老檔』太祖四十五 天命八年(1623)二月十一日条

 同年六月十八日には硫黄を製造した者に実際に褒美を与えている。

十八日,Ji Daseという漢人が硫黄を精錬して送って来たので、陞せて千総の職を与え、繻子三疋、毛青布、翠藍布五疋、銀十両、蟒緞の衣服、煖帽、靴を賞し与えた。(5)『満文老檔』太祖五十五 天命八年(1623)六月十八日条

 なお『満文老檔』の同年六月五日にはこのような記事もある。

五日,八旗の公の石炭を焼く Yan Man Dz、Siye Man Dzが、砲を放つ黄色火薬(原文「suwayan okto “黄色の薬”」)を精錬して送って来たので、二人に千総の職を与えて、衣服、靴、煖帽各一つ、銀各十両を賞与した。(6)『満文老檔』太祖五十三 天命八年(1623)六月五日条

 原文「suwayan okto “黄色の薬”」は満文老檔研究会の訳注では「黄色火薬」としているが、「石炭を焼く」は石炭を蒸し焼きにしてコークスを作る工程と思われ、コークス製造の工程で石炭から排出される副産物の一つが硫黄なので、ここでの「suwayan okto “黄色の薬”」は硫黄かもしれない。

 第四に同じく火薬の原料である硝石(硝酸カリウム)である。

 これもアイシン国で自給可能であった。

 元来、遼東地方の土壌には、硝酸カリウムが豊富に含まれており、表土には自然に硝酸カリウムが析出されていた。

 『満文老檔』にも、天命八年(1623)五月二十三日に下された命令として、

五月二十三日に下した都堂の書。「田は漢人に倣って二度耘(くさぎ)らず,我等の旧例通り手で草を抜いて繰り返し土寄せせよ。漢人に倣って二度耘れば,田の溝に硝が浮び,穀物の根の草が尽く取り得なる恐れがある。田を領催する jangginは速かに督促して仕事させよ。」。(7)『満文老檔』太祖五十二 天命八年(1623)五月二十三日条

と記されている。

 また、遼陽東部郊外の山地である東山は当時、硝石の産地として知られていた(8)田中宏巳 1974、p.74。後の時代ではあるが、太宗ホンタイジの時代には遼陽でも硝石の生産が行われていた記録がある。『内国史院檔』天聡五年(1631)二月二十六日には次のように記されている。

◯ 《ume》 orin ninggun de: han hendume dung jing de tehe ambasa suwe liodon hoton i fe niohuhe fu booi fajiran/ be usin tarime: ba dasame efulere be gemu nakabuha: poo i okto arara šoo [hio] fuifumbi hoton i dorgi/ tulergi be gemu nakabu: ere gisun be jurceci ambasa de weile seme takūraha:/

《書くな》二十六日,Hanが言うには,「東京に駐している大臣らよ。汝らは遼東城の旧く築いた墻や家の壁を,田土を耕作するために平らにならして壊すのをみな止めさせよ。 砲の火薬を作る硝[硝]を煮る。城の内外ともみな止めさせよ。この言葉に背いたら大臣らに罪がある」と言い送った。

(《 》内は底本の欄外に記された加筆、または付箋。/は原文の改行、[ ]内は原文の加筆部分。下線部は塗改部分)

 遼陽での硝石生産がいつ頃から行われていたかはわからず、断言はできないが、ヌルハチ時代にさかのぼる可能性はあるかもしれない。

 以上をまとめると、ヌルハチ時代のアイシン国は、漢人による鉱工業の盛んな遼東を手に入れたこと、明朝軍の火器を大量に鹵獲していたこと、火薬の原料である硝石も自然に産出し、硫黄も漢人の手を借りながらではあるが自給可能であったことにより、火器を運用する一応の条件はそろっていたとみなすことができる。

 次回はヌルハチの火器部隊編成についての試みとその挫折についてより詳しく書いていきたいと思う。

ヌルハチと火器(三)

史料

『内国史院檔』→『内国史院檔 天聡五年 I』清朝満洲語檔案史料の総合的研究チーム訳註、財団法人東洋文庫、2011年
『満文老檔』→『満文老檔』I~VII、満文老檔研究会訳註、財団法人東洋文庫、1955-63年
『熹宗実錄』→『明実録』中央研究院歴史語言研究所校印、1967年

参考文献

田中宏巳 1973-74:「清初における紅夷砲の出現とその運用」1~4『歴史と地理・世界史の研究』78、79、81、82、23-30頁、11-25、12-18頁、11-23頁
田中宏巳 1974:「清朝の興隆と満洲の鉱工業 ―― 紅夷砲製造を中心として」『史苑』第34巻1号、66-82頁

戻る1 田中宏巳 1973-74、田中宏巳 1974
戻る2 『熹宗実錄』巻二十 天啓二年(1622)三月十四日条
戻る3 『満文老檔』太祖二十四 天命六年(1621)七月十三日条
戻る4 『満文老檔』太祖四十五 天命八年(1623)二月十一日条
戻る5 『満文老檔』太祖五十五 天命八年(1623)六月十八日条
戻る6 『満文老檔』太祖五十三 天命八年(1623)六月五日条
戻る7 『満文老檔』太祖五十二 天命八年(1623)五月二十三日条
戻る8 田中宏巳 1974、p.74