『満洲実録』名場面集 その9

満洲語&清朝史普及計画

 清の太祖ヌルハチの一代記『満洲実録』から、挿絵を抜き出してアップロード。
画像は断りのない限り以下の文献からの引用です。
『満洲実録』(『清実録』中華書局、1985~87年)第二巻

 なんと七年ぶりの更新となります。

 少しずつコツコツ更新していく所存です。

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 年代:辛卯年(1591、明万暦十九年)~癸巳年(1593、明万暦二十一年)

  ヌルハチが次に目をつけたのは、長白山から鴨緑江流域にかけて広がる白山部 Šanggiyan Alin i aiman だった。辛卯年(1591、明万暦十九年)、ヌルハチは白山部西部の鴨緑江方面を攻め、住民をマンジュ五部の地に移住させた。

  そして、マンジュ五部の統一を果たしたヌルハチはフルン Hūlun 四部(フルン国 Hūlun gurun 、海西女真)のハダ部、ウラ部、ホイファ部、イェへ部との対立をしだいに深めていく。

  ここでいったん時間を巻き戻し、ジュシェン(女真、女直)社会の勢力図を説明しておきたい。 

女直内部の各勢力略図(松浦茂『清の太祖ヌルハチ』p.87)

女直(ジュシェン)内部の各勢力略図(松浦茂『清の太祖ヌルハチ』p.87)

  『満洲実録』名場面集 その2で触れたように、16世紀当時のジュシェン社会は、商業ブームの中で旧勢力が没落し、新興勢力が次々と勃興していた。そこに明、朝鮮、モンゴル、後には日本(文禄・慶長の役)という周辺勢力の動向もからみ、ジュシェン社会は群雄割拠の戦乱の時代へと突入していった。

  『満洲実録』巻一は、ヌルハチが父から自立した時の状況をこう記している。

その時方々の国が乱れ、マンジュ国のスクスフ部、フネへ部、ワンギヤ部、ドンゴ部、ジェチェン部、白山地方 Šanggyan Alin i golo のネイェン Neyen 部、鴨緑江 Yalu Giyang 部、東海地方 Dergi Mederi golo(現在の沿海州)のウェジ Weji、ワルカ Warka、クルカ Kūrka 部、フルン国 Hūlun gurun のウラ Ula 部、ハダ Hada 部、イェヘ Yehe 部、ホイファ Hoifa 部の方々で盗賊がミツバチのように群れをなして起こった。各々がハン、ベイレ、アンバンを自称し、村ごとに長となり、一族ごとに頭となって、互いに攻め合い、兄弟同士でさえ殺しあった。一門の数が多く強い者が弱く臆病な者を虐げ、奪い、掠め、大いに乱れていた。その方々の乱れた国を、マンジュ国の太祖ゲンギイェン=ハン Taidzu Genggiyen Han(ヌルハチ)が、逆らう者たちは武力で討ち、従順な者たちは徳により従えて一つに統べて、大明国を討ち、ついに遼東、広寧の地を得た。

( )内は引用者による注(以下同じ)

 フルン四部もまたそうした勢力だった。

 ヌルハチの勢力拡大に危機感を抱いたイェへのナリムブル Narimbulu は、ヌルハチに使者を送り、マンジュのエルミン Elmin 、ジャクム Jakūmuの両地域のいずれかをイェヘに割譲するよう要求した。

 エルミン、ジャクムはマンジュ五部、フルン四部と白山部、鴨緑江方面を結ぶ要衝であり、イェへとしてはこれら地域を押さえておきたかったらしい。

 イェへの使者は「一つの言葉を語る国に、ウラ、ハダ、イェへ、ホイファ、マンジュの五人のハンが生きる道理がなおもあるのだろうか。あなた方は大きい国で、我々は小さい。そちらのエルミン、ジャクムの二つの土地のいずれか一つを与えよ」と要求した。

 ヌルハチは「我らはマンジュ国 Manju gurun であり、あなた方はフルン国 Hūlun  gurun だ。あなた方フルン国が大きいからといって、私が(土地を)与えよと言えるのか。我々マンジュ国が大きいからといって、そちらに与えるのか。馬や牛ではあるまいし、国を分かち与える道理があるか。お前たちはお前たちのベイレ(君主)を諌めもしない。面汚し者が何を言いにやってきたのか」と叱責して使者を追い返した。

  イェへ、ハダ、ホイファのベイレたちは協議の上、再度使者を派遣した。使者はヌルハチが催した宴会の席上で「あなたの国を分割して与えよと言ったが与えず、従えと言っても従わない。両国が戦争になれば、私はマンジュの境上に立ってみせようが、あなたはイェへの境上に立てるか」とナリムブルの言葉を伝えたので、ヌルハチは激怒して刀を抜いて机を激しく斬りつけ言い返した。

「イェへの婿たちよ。あなた方の内の誰が戦で二匹の馬を交え、二人で鎧かぶとの袖が抜け落ちるまで斬り合いをしたことがあるのか。二人の幼子がガチュハ(動物の骨で作った玩具)で対戦するようにハダのメンゲブル menggebulu とダイシャン daišan が内紛を起こした時、あなた方が(ハダを)討ち従えたのと同じように簡単だとでも思っているのか。あなたの田土の周りに柵、関所を作ったのか。私は昼間行けなければ、夜に行ってあなたの境上に立って帰ってくる。そのときはどうするのか。あなたはどうしてそんな大口を叩くのか。漢人はわが父を殺したら、遺体に勅書三十通、馬三十匹を添えて送ってきた。次いで左都督(という位を与える)勅書を送ってきたのを居ながらにして受け取った。その後龍虎将軍という(位を与える)大いなる勅書を送ってきて、毎年銀八百両、十五匹の蠎段を受け取っている。漢人はあなたの父を殺したのだぞ。(それなのに)あなたは父の遺体を取り戻したのか」。

 『満洲実録』巻二

   「漢人はあなたの父を殺したのだぞ。あなたは父の遺体を取り戻したのか」というくだりは、ナリムブルの父ヤンギヌ Yangginu とナリムブルの兄ブジャイ Bujai の父チンギヤヌ Cinggiyanu が癸未年(1583年、明万暦十一年)に李成梁の計略により殺害された出来事を指す。ヌルハチはイェヘ部の痛いところをついて、牽制球(というかビーンボール)を投げたのだろう。

  ヌルハチはその言葉通りに手紙を書き、イェヘに送った。手紙を受け取ったブジャイはこの手紙を弟のナリムブルには見せなかったという。両国の関係のこれ以上の悪化を防ぎたかったらしい。

 ちょうどそのころ白山部のジュシェリ部、ネイェン部がイェヘの支援を得て、ヌルハチの勢力の東端のドゥン Dung という寨 gašan を略奪した。

 ヌルハチは「衝かば衝け。川が山を貫いて流れることがあるか。火が川を越えて燃えることがあるか。我らの同じ国の人が他国のイェヘについて我らを攻めているのだ。川の水が正しく流れ下るようにジュシェリ、ネイェンの二つの地方はいずれ我々のものになるだろう」と言い、そのままにしておいた。

 そして、癸巳年(1593、明万暦二十一年)六月にイェヘ部のブジャイとナリムブルは、ハダ部のメンゲブル、ウラ部のマンタイ  Mantai 、ホイファ部のバインダリ Baindari 各ベイレを誘って、マンジュ領のフブチャ Hūbca という寨 gašan を襲って引き上げた。

 それを聞いたヌルハチは報復としてハダのフルギヤチ Fulgiyaci という寨 gašan を攻めた。ヌルハチはハダのメンゲブル=ベイレの乗馬を射倒した。メンゲブルの家に仕えるタイムブル taimbulu というものが自らの馬を主人に与え、自分は徒立ちで走って撤退した。ヌルハチは追撃を行い、十二人を殺し、六つの鎧、十八匹の馬を得て引き上げた。

 マンジュとフルン四部との長い戦いがついに始まった。

taidzu fulgiyaci de hadai cooha emgi ambula afaha,,

・左枠
[満:taidzu fulgiyaci de hadai cooha emgi ambula afaha,,(太祖はフルギヤチでハダの兵と大いに戦った) ]
[漢:太祖富爾佳齊大戰(太祖、富爾佳齊にて大いに戰う)]
[蒙:        ]

・挿絵:中央右で弓を射る人物
満:taidzu(太祖)
漢:太祖

右上の馬に乗って逃げる人物
満:menggebulu(メンゲブル)
漢:蒙格布祿

右上の走って逃げる人物
満:taimbulu(タイムブル)
漢:泰穆布祿

 そして『満洲実録』ではこの時はまだ触れていないが、この戦いの前年の壬辰年(1592年、明万暦二十年、朝鮮宣祖二十五年、日本文禄元年)こそ、豊臣秀吉の「唐入り」(文禄の役)が始まった年であった。
秀吉の野望はやがてジュシェン社会と明の遼東社会の双方に大きな影響を及ぼしていくことになる。

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史料・参考文献
史料
『満洲実録』(『清実録』中華書局、1985~87年)
今西春秋訳『満和蒙和対訳満洲実録』刀水書房、1992年

 

参考文献
(中国語)
閻崇年『努爾哈赤伝』北京出版社、1983年
(日本語)
松浦茂『清の太祖 ヌルハチ』中国歴史人物選、第十一巻、白帝社、1995年