白い八旗兵――八旗俄羅斯佐領――4

四、ロシア人部隊の任務――通訳・翻訳・教師・偵察――

 では、彼ら俄羅斯佐領のロシア人旗人たちは清朝のためにどのような任務を遂行していたのだろうか。八旗制度下での通常の兵役・課役以外では、主にロシア語通訳・翻訳者・教師や外交官、戦時における偵察・工作などがあげられよう。本章では主に柳澤明氏の研究(1)に基づいてロシア人たちのこうした任務について述べていきたい。
 17世紀後半以降、清とロシアの紛争やそれに伴う外交事務の増加により、通訳・翻訳者の必要性が次第に増大してきた。
 そこで、初めは主に前述のウルスラノフとその子羅多渾・イファンらの俄羅斯佐領内のロシア人が通訳・翻訳者、さらには外交官としてロシアとの交渉に当たっていた。

 だが、ネルチンスク条約締結で紛争が終結したことにより、佐領への新たなロシア人の編入が止まり、その後北京で生まれ育った二世が多数を占めるようになると、十分なロシア語能力をもつ人材が不足しはじめた。だが一方でジューン=ガル部との緊張状態が続く中、その背後に位置するロシアとの交渉がますます重要となってきた。

 そこで、康熙四十七年(1708)三月二十四日に、康熙帝の肝いりにより内閣直轄のロシア語学校「内閣俄羅斯文館」が設立された。この学校では主にロシア系(俄羅斯佐領)の人間やロシア人留学生が教師を担当し、ロシア語通訳・翻訳者の養成や外交文書の翻訳に当たることとなった。教師の任命、学生の募集、設立当初の管理は前述の内閣大学士マチが中心となって行った(2)。当時俄羅斯佐領を管理していたのは他ならぬ彼であった。柳澤氏が引用・翻訳する中国第一歴史檔案館の内閣全宗満文俄羅斯檔案の「俄羅斯文館檔」に収録された、康熙四十七年七月三日付の馬斉の上奏によれば当時の俄羅斯佐領の管理者がマチであったことがわかる(3)

  俄羅斯文館は当初、内閣大学士(マチ)――蒙古房侍読学士――中書(文館常駐)というラインで管理されていた(4)

 後代の史料ではあるが『明清史料』(5)庚編第八本所収の「俄羅斯文館考試事例」には

康熙四十七年、奉旨設立俄羅斯文館、承辦繙譯俄羅斯往還案件文書、隷内閣理藩院管轄、由内閣理藩院派員管理館務、在八旗滿洲蒙古漢軍内共挑取學生二十四名、毎月各支領飯錢弐串、在館食飯、用度、仍給与馬甲錢糧、幫助讀書行走。

康熙四十七年、旨を奉じ俄羅斯文館を設立し、俄羅斯の往還せる案件文書を繙譯するを承辦す、内閣、理藩院の管轄に隷し、内閣、理藩院由(よ)り員を派し館務を管理せしむ。八旗滿洲、蒙古、漢軍の内に在りて共に學生二十四名を挑取し、毎月各(おのおの)飯錢弐串を支領し、館に在りての食飯、用度には、仍(な)ほ馬甲の錢糧を給与し、讀書行走を幫助す。

とあり、この史料によれば、後には理藩院の管轄下にも組み入れられたようである。 そこからは、当時の清朝の俄羅斯文館への力の入れ具合が読み取れる。

 以下、その構成について述べる。   

 まず、教師は俄羅斯佐領のロシア人クシマ(Kusima 庫錫瑪)やイファン(Ifan 伊番)・ヤゴー(Yag‘oo 雅槁)らが担当したが、彼らは北京で生まれ育った二世であり、ロシア語能力は十分とはいえなかった。 柳澤氏が引用・翻訳する前述の「俄羅斯文館檔」に収録された康熙五十年三月の彼らの上奏(6)にはその事情が記されている。これを受けて盛京・吉林・黒龍江で早速調査を開始したが、吉林・黒龍江にはすでにロシア語能力を持つものはいなかった。ただ盛京にニカン(Nikan)というロシア人がおり、読み書きはできないが会話はできるということで、都に呼び寄せられ、ロシア文の翻訳や教育に当たった(7) 

このように十分なロシア語能力を持つロシア人は非常に少なくなってきており、以後常に人材難に悩まされることとなる。

次に、学生は八旗蒙古・漢軍の閑散旗人(官職についていない旗人)の中から募集され、理藩院などへの任官の道も開かれていた。

当初の学生数は68名であったが、あまりにも多すぎるという教師クシマらの意見(前掲の上奏と同時に上奏)により康熙五十年(1711)四月に成績優秀者24名に絞られ、その際学生への銭糧の支給や官缺(任官ポスト)授与も取り決められた(8)。

  前掲の「俄羅斯文館考試事例」には「・・・・・・八旗滿洲、蒙古、漢軍の内に在りて共に學生二十四名を挑取し、・・・・・・」と記されているが、開設当初は68名であり、また当初は満洲旗人を募集していなかったようである(9)

  第三に、場所は当初はロシア使節団・隊商の宿泊施設「俄羅斯館」内にて開校、七月に左翼馬市場西北、大仏寺の三間の建物に移った。『日下舊聞考』(10)巻六十二、官署一によれば、紫禁城東華門外、北池街西側(11)である。  

 しかし、俄羅斯文館によるロシア語教育の成果ははかばかしくなかった。雍正二年(1724)帝が北京から黒龍江へ二名のロシア語通訳を派遣しようとしたが、北京でロシア語を通訳できるのは、俄羅斯佐領の二人だけという報告に接した。そこで、帝は試験制度の導入によって成績優秀者を任官、成績の低いものを退学させるなどして、文館学生の尻をたたこうとしたが、その成果の程はよくわからない(12)

  なお、『高宗實録』 13)卷五百三十九、乾隆二十二年(1757)五月丁巳(二十七日)條には、当時の俄羅斯文館の状況が以下のように記されている。

大學士、公、傅恒等奏、學習俄羅斯文字、原為繙譯往來文移之用。康熙年間立學、設教習二人、將俄羅斯佐領下庫錫瑪、雅槁挑取、學生額二十四名。由八旗學生挑取。
後因俄羅斯佐領下、無堪充教習之人。即以官學生暫行管理。應請立定章程。五年一考。列一等者作八品。二等者作九品。教習缺出。即以考授八品官學生、奏請充補。候陞主事。以學生優劣。定教習黜陟。歸閣理藩院管理。從之。

大學士、公、傅恒等奏すらく、俄羅斯の文字を學習するは、原は繙譯、往來、文移の用の為なり。康熙年間に學を立て、教習二人を設け、俄羅斯佐領下庫錫瑪、雅槁を將て挑取し、學生の額は二十四名なり。八旗學生由り挑取す。
後(のち)俄羅斯佐領下に、教習に充つるに堪へるの人無きに因り、即ち官學生を以って暫く管理を行はしめたり。應(まさ)に請ふらくは立(た)ちどころに章程を定め、五年に一たび考し、一等に列する者を八品と作(な)し、二等の者は九品と作さん。教習に缺(けつ欠員)出づれば、即ち以て八品官學生を考授し以て、奏請し充補せん。候陞の事を主(つかさど)るは、學生の優劣を以てし、教習黜陟を定むるは、内閣、理藩院の管理に歸せんことを」、之に從(よ)れ。

※読み下し、( )内、下線は引用者、適宜改行。

 すなわち、文館設立後約五十年を経た乾隆二十二年(1757)の段階ではすでに「俄羅斯佐領下に、教習に充つるに堪へるの人無」し、すなわちすでに「俄羅斯佐領にはロシア語教師が勤まるものがいない」という状況であり、そのため「官学生」に暫定的に文館を管理させていたとのことである。柳澤氏の論考によれば、これは学生中の成績優秀者に文館を管理させていたということらしい(14)

 そこでこのとき学生の試験制度を整備して、優秀な学生の中から教師を任用することとしたのであった。

 ちなみに乾隆二十二年は、対露交渉の重要性が増大していた時期でもある。

 二年前の乾隆二十年(1755)に清朝はジューン=ガル部の本拠地であるイリ地方を占領し、これまでの北方だけではなく、西方でもロシアの勢力圏と接することになった。
また、一度は清朝に投降・協力したジューン=ガル属下のホイト部の有力者アムルサナーが自立を図って蜂起し、敗れた後、隣接するロシアへの亡命を図り、清朝がロシアに対してアムルサナーを受け入れないよう要求していた時期でもある。同年、
アムルサナーはロシア領内に到達してすぐ天然痘により死亡するが、清朝はなおも遺体の引き渡しを要求するなど、この問題はその後しばらくの間清露関係の懸案となった。

  対露交渉の重要性が増大するということは、すなわち交渉を支えるロシア語通訳・翻訳者の重要性が増大するということであり、俄羅斯文館の試験制度整備はこうした情勢を踏まえたものであっただろう。

  しかし、こうした措置にもかかわらず、嘉慶・道光年間に入ると当局の再三のてこ入れにも関わらず俄羅斯文館の衰退や学生の無能ぶりがますます目立つようになった(15)

 前述のように、すでにこの頃には、俄羅斯佐領のロシア人の間でもロシア語が忘れ去られていたらしく、北京のロシア人留学生が俄羅斯文館でロシア語教育に当たるケースもあったようである(16)

  その他、彼らの一部は東北の盛京(現、瀋陽)にも駐屯していた。乾隆『大清會典』(17) 卷一百七十四 盛京將軍所屬駐防兵制によれば、まだロシアとの紛争が続く康熙二十五年(1686)に18名の「羅察(ロシア)」兵が新たに駐屯している。これは第二章で引用した『康熙帝伝』にも言及されている。これは、ロシアとの戦いでの通訳・情報収集や各種工作を期待されてのものであろう。

 アルバジン攻防戦の際には、すでに八旗に編入されたロシア人が偵察・道案内や降伏勧告にあたり、非常に大きな効果を挙げたとのことである(18)

  このように、俄羅斯佐領の任務は、八旗としての通常の兵役・課役以外に、ロシア語通訳・翻訳者・教師・外交交渉、そして戦時における偵察・道案内や降伏勧告など、おおむねロシア語・ロシア人としての特性を生かす任務についていたことがわかる。

 俄羅斯佐領の旗人たちは、「旗人」とロシア人という二重の特性を持ち、旗人として皇帝の手足となりながら、ロシア語・ロシア人としての特性を生かし、対露交渉や戦争に大きく貢献したのであった。

  ………………………………………………………………………………………

(1)柳澤明「内閣俄羅斯文館の成立について」早稲田大学大学院『文学研究科紀要』別冊第16集、哲学・史学編、1989年、横書pp.75~86
(2)同上pp.78~83。
(3)同上
p.79、同論文のp.78によれば、前任の管理者羅多渾は康熙四十六年に死去したらしい。
4)同上 pp.8182。
5)『明清史料』庚編、第八本、中央研究院歴史語言研究所、1958年→中華書局、1985年。
(6)柳澤明「内閣俄羅斯文館の成立について」早稲田大学大学院『文学研究科紀要』別冊第16集、哲学・史学編、1989年、横書pp.
80
(7)
同上
(8)柳澤明「内閣俄羅斯文館の成立について」早稲田大学大学院『文学研究科紀要』別冊第16集、哲学・史学編、1989年、横書pp.80
~81
(9)柳澤明「内閣俄羅斯文館の成立について」早稲田大学大学院『文学研究科紀要』別冊第16集、哲学・史学編、1989年、注29によれば、康熙五十五年(1716)十月に、死亡した学生の代わりに満洲鑲黄旗の歳貢Fucengなるものが学生に採用されているのが、満洲旗人学生の最初の例ではないかと推定されている。
10)『日下舊聞考』北京古籍出版社、1981年。
(11)注(1)及び柳澤明「内閣俄羅斯文館の成立について」早稲田大学大学院『文学研究科紀要』別冊第16集、哲学・史学編、1989年、 注31ではこの説に否定的。
12柳澤明「内閣俄羅斯文館の成立について」早稲田大学大学院『文学研究科紀要』別冊第16集、哲学・史学編、1989年、pp.8384。
13)『清實録』中華書局、198587年。
14柳澤明「17~19世紀の露清外交と媒介言語」『北東アジア研究』別冊第3号、2017年、p154
15)同上
16)同、p155

17)乾隆『大清會典』(四庫全書本)『欽定四庫全書』上海古籍出版社、1987年。
(18)第一章のウルスラノフの事跡、および劉小萌「関於清代北京的俄羅斯人
――八旗満洲俄羅斯佐領歴史尋蹤」『清史論叢』2007年号、中国社会科学院歴史研究所明清史研究室編、 pp.367~368→同『清代北京旗人社会』中国社会科学出版社、2008年、pp.480→劉小萌『清代北京旗人社会(修訂本)』中国社会科学出版社、2016年、pp.383

白い八旗兵――八旗俄羅斯佐領――5

白い八旗兵――八旗俄羅斯佐領――4” に対して9件のコメントがあります。

  1. nicole より:

    ft,真得很佩服你了,竟然这些都懂,很多中国人都应该不是很明白的。。。

  2. 電羊齋 より:

    过奖了!这部文章不那么好,只是我的爱好而已。内容还有很多问题,还要详细的研讨。

  3. Unknown より:

    電羊斎様ブログがリニューアルして読みやすくなりましたね。また、いろいろ更新されており、そのバイタリティーに感心いたしました。「白い八旗兵」をまた読んでみました。早稲田の柳沢明先生の論文を参考にされ、修正されている部分もあるようですね。小生のHPでも紹介しているのですが、今夏シベリアを回ってきました。その際は柳沢先生もご一緒でした。彼は中国語もロシア語も出来るし、感心したのは、自分の専門以外の植物や動物の知識も深い事で、一緒に楽しい旅をすることが出来ました。

  4. 電羊齋 より:

    >Samovar  様ありがとうございます。清朝や満洲族は自分の一番の趣味ですから。自分も修士時代、清・ロシア・北方関係のことを調べている時、柳沢先生の研究によくお世話になりました。実を言えば、第四章で参考にした柳沢先生の論文は今手元にはなく、前に読んだ内容を思い出して参考にしたものなので少々心もとないです。年末日本に帰ってからもう一度読み返してみたいと思います。柳沢先生は『満族史研究』第四号(満族史研究会 2005)にも、04年夏のアムール紀行記を寄せておられますが、専門以外の旅先での見聞にも多くのスペースを割いておられ、生き生きとした文章になっています。

  5. TeddyBear より:

    привет, мне тоже итересуется историей между японией, китаем и россией, если не против, если ты поймешь по-русски, можно с тобой пообщаться?

  6. TeddyBear より:

    привет, мне тоже итересуется историей между японией, китаем и россией, если не против, если ты поймешь по-русски, можно с тобой пообщаться?

  7. TeddyBear より:

    привет, мне тоже итересуется историей между японией, китаем и россией, если не против, если ты поймешь по-русски, можно с тобой пообщаться?

  8. TeddyBear より:

    привет, мне тоже итересуется историей между японией, китаем и россией, если не против, если ты поймешь по-русски, можно с тобой пообщаться?

  9. 電羊齋 より:

    >主的牧羊犬 阁下
    Извините !
    我的俄语是磕磕巴巴的,还用我电脑打俄语是又难有麻烦的,请用汉语或者英语。
    I cannot easely read and type Russian , please write Chinese or English.
    以后有空来玩吧!
     
     

コメントは受け付けていません。